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第6話
じゃあオレにすればいいよ。柊、カノジョいるじゃん……
宮末 とカレーを食う。ルーを使わずフルーツジャムのようなものから作って甘さが強い。櫻岬 の舌には合うが、宮末は香辛料を追加していた。
「オレ好みにしてくれたんだ」
「口に合うか?」
「うん。すげぇ美味いよ。フューチャー、マジで何でもできるのな」
櫻岬といえばじゃがいもの芽を取り除くのももたついて、1つ2つの相手をしているうちに隣では次々とじゃがいもの芽が取られ、皮が剥かれ、身を割られていった。
「自炊するからな。慣れてるだけだよ」
宮末のような好青年がスーパーで買い物をしているシーンを想像した。妙なむず痒さがある。それでいてその場を見ていたいような。
語らいながらカレーを平らげ、皿洗いを一緒にやった。入浴を終えて宮末の風呂上がりを待ちながら彼の持ってきたアロマキャンドルを眺める。ラベンダーの匂いがする。揺らめく炎を凝らし、考えているのは吉良川 のことだった。彼にはこのことは言えない。当て付けみたいに聞こえてしまうかも知れない。「好き」の種類が違っても。慣れない歯磨き粉のミント臭い顆粒が口の中に残り、ゴリッと砕けた。やがて背後のドアが開き、髪を拭きながら宮末が現れる。腰に一枚バスタオルを巻いた姿で均整のとれた筋肉が眩しい。普段なら少し調子づいたが吉良川との件が頭を掠める。吉良川の言う「好き」は宮末のこういう裸体を想像するのだろうか。宮末をそういう風には見ていない櫻岬も彼のしなやかな肉体に心躍るものがある。だがそれはグラビアアイドルや腰の括れて胸の大きな女性を目にしている時とは異質のものだ。
「酒飲むか。外で。これを楽しみにしてた」
髪を拭きながら彼は爽やかに笑った。
「うん。そうしよ。せっかくだし」
働かせ過ぎた宮末が着替えに行っているうちに櫻岬なりに酒の用意をした。冷やした缶と肴を持って先にテラスへ出る。木でできている。雑木林がわずかばかり、気分次第で北欧の木樵 生活を思わせた。アロマキャンドルも移動させられ、静かな暗い夜の明かりとなる。そのうち宮末がやってきた。
「キャンプファイヤーとかやりたかったけどな。BBQとか」
長い指がプルタブを持ち上げ、アルミの破れる軽快な音と炭酸の抜ける音がした。卒がない。
「フューチャーがアロマキャンドル持って来るとは思わなかったよ。ロマンチストじゃん」
「キャンプファイヤー代わりにな。ただの蝋燭じゃ味気ないし、この前家具屋で見つけたの、何か用があれば買いたいなって思って」
「フューチャーの家とか絶対オシャレでしょ」
ぐびぐびと酒を飲んで彼は笑う。
「今度来るか?審査してくれ」
「いや、行きたいけど……さ、」
ふと吉良川の影が色濃くなる。会話の勢いが苦笑に変わる。そのまま押し通さねばならないところだった。
「紅ちゃん、なんか悩み事があんのか」
「な、なんで」
「なんか思い詰めてる感じだったから」
「マ、マジで!別に……なんもない!」
櫻岬は苦くて不味いと思ったビールを宮末は美味そうに飲んでいく。
「ある、なんて答えたら、話さなきゃならない空気だもんな。ごめんな、段取り悪くて。いい気分転換になれば良かったんだけど。おればっか楽しんじまってる」
「いやいやいや、オレめちゃくちゃ楽しいよ!フューチャーと来られて。いつも何人もいるからさ、2人きりって新鮮」
ほぼジュースみたいな酒でまずはつまみを流し込む。
「でも、また誘う口実できたよ。今度はBBQな。ちゃんとキャンプして。紅ちゃんの悩みが解決したらさ」
よくテレビのコマーシャルでみる有名なビールを傾ける様はまさにコマーシャルの撮影のようだ。絵に描いた爽やかさと美味さを表している。芸能事務所の忖度など無視して彼を起用しろと投書したいくらいだ。
「そうだな。エビ焼きてぇな。甘辛くしてさ」
解決が何を意味するのか櫻岬にも分からない。吉良川が抑圧されるのか、宮末が彼の「好き」に気付くのか。
「あのさぁ、」
「なんだ?」
駄菓子屋によくあるプラスチックの円柱型のボックスから彼は串刺しの酢イカを引き抜いた。アロマキャンドルのラベンダーの香りに酸っぱい匂いが混ざる。
「フューチャーは、好きな子とかいんの」
唐突な問いに対して宮末はすぐには答えなかった。失敗したと思った。こういう話は苦手かも知れない。そして何より、"七瀬ちゃん"なる人物との関係を知ってしまうと、かえって知りたくないことでもある。
「い………ないな。今は。紅ちゃんは?」
「オ、オレもいない」
「ま、大学生活、楽しいのは恋愛だけじゃないからな」
「うん」
アルコール度数を上げた苦みの濃い酒によって酔いが回っていく。酒肴に煽られ飲むペースも早くなる。頭がぽやぽやと痺れてくると夜風が心地いい。景色が良いと酔うのも楽しかった。感覚に雑味がなくなる。ありのままの空気に浸れた。宮末の話に頷いたり、自ら語りかけたりして、酒は3缶目に入った。呑まれかけた櫻岬は眠さに目を擦る。目蓋が少し重い。うん、うん、と鳴いているように相槌をうった。アロマキャンドルを見つめて瞬きをする。大玉なラムネを口の中で転がした。小さな炎が吉良川みたいだ。蝋が音も無くとろとろと溶けていく。その様までもが、静かに泣いていた吉良川みたいだった。
「眠いか、紅ちゃん」
「ちょっと。フューチャーは?オレよりずっと動きっぱなしだった」
「そんなことない。紅ちゃんもよく働いてくれただろ。おれはまだ眠くないよ。布団敷いてやるからまだ寝るなよ」
アロマキャンドルを前に腕で枕を作る。とろとろと蝋が溶けていく。小さな火が揺蕩う。吉良川が声を殺して泣いていた姿が眠気の中でも強く櫻岬の中に焼き付いている。
「まずは水飲んどけ。二日酔いになるとつらいから」
宮末が離れていたことも気付かなかった。水の入ったコップを受け取り体内のアルコールを薄める。
「ひゅーちゃー」
「すぐ寝かす。あんまり可愛い声で呼ぶな」
櫻岬はこくりと頷いた。水が甘く感じられ、コップに残った残りもちびりちびり飲んだ。アルコールによる眠気は凄まじかった。アロマキャンドルの燈火を見つめているうちに意識を手放してしまう。
ふっ、と目が覚めた。泥沼のような眠気は潔さがあって粘着質ながら心地良い。喉が渇いた。口腔は苦みと乾きが反響している。しかし多幸感に陥っている。全身を包み込む気持ち良さから起き上がる。翻った布団から暴かれたのは櫻岬だけではなかった。
「ん、紅ちゃん、起きた?」
真横どころか身体の接する位置に宮末が寝ていた。赤子を見守る距離である。同衾 している。
「ひゅーちゃー、なんで……」
「紅ちゃん、おれにしがみついたまま放さないんだから。赤ちゃんになっちゃったのかと思った」
「ゴメン。水飲んでくる」
「転ぶなよ」
自分の呼吸が酒臭い。まるで接待だ。宮末に送迎も料理も寝支度までさせてしまった。人間としての格の違いを見せつけられておきながら、ここまでくると劣等感も無く、不甲斐無さすら感じない。甘みのある水道水をぐいと飲んで布団に戻る。
「ひゅーちゃー、オレもうだいじょぶだから、ちゃんと寝て」
「いいよ。このまま寝る。紅ちゃん抱き枕な」
腕を引かれて櫻岬は布団の中に吸い込まれる。すぐさま逞しい腕が加減をしながら絡み付く。
「ひゅーちゃー……」
慣れないシャンプーで洗った髪はもう乾いていた。少し毛が軋む。そこに宮末の顔が近付いた。額で軽く弾む。柔らかな感触が残る。
「男同士でこういうの変だけど、紅ちゃん可愛いからね」
他人事ながら探らねばならない義務感をアルコールの泥の中から掘り出した。
「変かなぁ」
宮末の唇が当てられた前髪を触った。腰の辺りに腕を回されている。宮末からも酒の匂いがした。彼も酔うらしい。
「紅ちゃんは弟みたいだから」
「ひゅーちゃー、お兄ちゃん?」
鍛えられた胸板に頭を擦り寄せる。そうするとフィットする。服を掴んで、布越しの筋肉に頬擦りする。舌ったらずになって喋り方も甘えたものになる。
「ちょっと犬っぽいかな」
「ひゅーちゃー、ご主人様?」
酒とラベンダーと少し癖のあるボディソープの匂いと、それからいつも嗅いでいる宮末の匂いが布団の中にこもっている。密着すると、本当に彼に可愛がられる飼犬になった気分になった。千切れるほど尻尾を振りたくなった。自分が彼に溺愛される弟のようにも錯覚する。
「寝ような」
「ひゅーちゃー」
「カノジョできたら紹介してくれよ。マウントとっちゃうかもな。おれのほうが先に紅ちゃんと一緒に寝たんだぞって」
喋る口に手を伸ばして塞ぐ。幼い仕草だが成人の酒を飲んだ酔っ払いだ。
「カノジョ要らないもん。ひゅーちゃーいればいい」
宮末は首を竦め口元を滑らせると櫻岬の掌へ頬を擦り寄せた。
「紅ちゃんいればもうカノジョとか要らないな。楽しい」
ぬいぐるみにされると猛烈な幸福感が湧き起こる。
「ひゅーちゃー」
媚びた声を出して、宮末の抱き締めやすいように肘を閉じる。
―吉良川に奪られちゃうのやだ……
宮末の肩口に額を当てる。彼は温かかった。同じボディソープの匂いがする。安堵に目を閉じる。
「紅ちゃん、勃ってる。ご無沙汰だった?」
「放っとけばいいよ」
性欲はない。今は宮末の傍で忠犬の如く眠りたい。この大きな飼い主に対して艶めいたものは何もなく、ただこのまま融解し液体になってしまいたいほどの安息感に肉体が反応しているだけなのだ。
「そうか?」
櫻岬は頷いた。鼻先が宮末の肌に埋まる。
「おやすみ」
また頷く。吉良川のことが浮かばないではなかった。しかし抱いている感情の方向性が違うのだから後ろめたいことは何もない。
酒による眠りは深かった。隣に気配が無いように感じられて櫻岬は飛び起きた。そして布の擦れる音で宮末もしっかりそこにいることに気付く。
「随分と早いお目覚めだな」
彼も櫻岬同様アルコールの匂いを纏わせている。普段の爽やかさはどこへやら、寝起きの低い声は色気を帯びていた。
「ひゅーちゃーはまだ寝てて」
「紅ちゃんもまだ寝るんだよ」
腹を抱かれまた枕に戻る。抱擁されたまま布団の中に包まれた。寝息が聞こえる。そういうつもりがなくてもまたむくむくと下腹部が張り詰めていく。
「抜いてくるか?」
訊ねる声音には眠気の影が濃い。櫻岬はぶるぶると首を横に振った。自慰の工程を想像するだけで疲れる。何にも興奮はしていなかった。それだけでなく、この激しい安心感を逃したくない。
「男同士で乳繰り合うのヤだろ?」
「ひゅーちゃー、男同士でチチクリ合うのヤダ?」
「さてはまだ酔ってるな」
それはほぼ偶然だった。向かい合って密着した身長差によるものだった。櫻岬の額に宮末の口元が当たった。触れたところが柔らかく溶ける。
「チュウしちゃっただろ。紅ちゃんならイケそう。紅ちゃんおれはイケそう?」
「うん」
吉良川への罪悪感は無かった。やはり方向性の違うものだ。だからこういう冗談もまるで本性みたいに交わせてしまう。
「チュウ、してみる?ははは、おれも酔ってんのかも」
「うん。してみる。かわいい女の子想像してて」
吉良川に渡したくない。ふと突き抜けた閃きが起こり、櫻岬はのそのそと首を伸ばした。
「欲求不満かぁ?男としたことある?」
「女の子経由で間接チュウならある。キス兄弟?」
「ふは、なんだそれ」
吉良川と仲良くしたら嫌だ。笑っている宮末の唇上下を摘まむ。彼を跨ぐようにして覆い被さった。
「してみても、いい?」
「ソフトタッチな。ははは、男は紅ちゃんだけだぞ」
櫻岬はこくりと頷いた。徐々に距離を縮めていく。目蓋を閉じない相手の目元に掌を添える。質感と弾力を感じる。それでいてやはり肉と肉の接触に違いなかった。手を握ったり揉んだりするのとあまり変わらない。
「どう?」
「分かんない」
「分かんないってなんだ?」
「もっとこう、ぶわわーって脳味噌が破裂する感じだった気がしなくもない」
宮末は朝だというのに清爽感を忘れずに笑っている。
「そりゃそうだろ。野郎の口なんだから」
悪戯っぽい笑みを見せられたかと思うと櫻岬の視界は半転する。宮末はわしゃわしゃと髪を撫で、腹や背をくすぐった。犬になってしまう。番犬や猟犬ではなく愛玩犬になってしまう。
「ひゅぅちゃぁ」
「ちょっと急に恥ずかしくなってきた」
宮末の腕を掛けられ、重くなったかと思うと彼はまた眠っていた。櫻岬も逞しい肉体に寄り添う。
◇
唇を触ってしまう。宮末の唇は柔らかかった。吉良川ともこれからすることになるようだ。すでに手を重ねている。キスにはムードが要るはずだ。たとえそれが中身の伴わない関係だとしても、むしろそのために、唇の接触を肯定できるだけの雰囲気が必要だった。
「する、から」
「ああ」
了承に反して俯こうとする吉良川の唇を逃すことなく捕らえた。しかし顔を背けられ、櫻岬も触れる前に止まった。互いに無言だった。怯えたように目を閉じている。
「………悪い」
拗ねたような口が小さく詫びた。
「やめとくべ。無理に急くことねぇや。吉良川の好きなタイミングで来いよ。オレの唇、フリーだから」
吉良川は頷いた。素直な憂いを訴える姿を見てから櫻岬には彼が孅 いヒロインのように見えて仕方がなかった。彼は男だ。体格や肉付きからも櫻岬にとっての女性性を覚えるところはない。それでいて認識が狂った。
「柊との関係はやめられないと思う……」
「いきなりは、やっぱムリか」
「宮末とどうこうなりたいわけじゃないんだ。ただどうしても、欲求が湧いてきて……」
「よく分からないけど、そういうもん?」
吉良川は櫻岬と目を合わせはしない。
「柊は背丈が似ているから」
「オレじゃムリなワケだね」
肩を竦めた。そういうつもりはなかったが、吉良川には嫌味と受け取られ捻くれたふうに見えたらしい。彼は顔を上げて、焦った様子だった。
「気を悪くしたか……?」
「いやいや。オレがお2人の関係に割り込もうとしてるだけだからね」
吉良川は相変わらず眉間に皺を寄せ、それでいてそれは剣呑なものではなく苦悩や憂愁を表すものだった。
「櫻岬は俺が思っていたよりずっと真面目で堅実なんだな。誤解していた。すまない」
「参考までに聞きたいんだけど、どんなふうによ?」
捕まえ損ねた唇が微苦笑に歪む。
「もっと恋愛にだらしないのかと思っていた。良くも悪くも深く考えない、衝動的な生き方をしている部類だと……性に大らかというのか」
「それはよく言われるわな」
「ところが、いざ蓋を開けてみたら、ずっと俺のほうが不埒で不潔だった」
宮末との悪戯な接吻が甦る。他意のない口付けにどれほどの罪があるのだろう。感じるのは、吉良川の想いを知ったうえでただ彼を出し抜きたくなった一心で唇遊びをしたがったことについての多少の後ろめたさだ。しかし柊と吉良川のキスは代替の意図が含まれている。それは果たして宮末に対する不埒なのだろうか。不誠実だろうか。不潔であろうものか。
「自己完結するなら、いいのかもな。それで。柊とするのが一番なのかも。吉良川にどうこうする気がないなら」
「ありがとう。柊の恋人については俺も悪いとは思ってる。露見したらすべてを話すつもりだ。もちろん、柊の意思を尊重したうえで」
「柊にはカノジョいて、じゃあ吉良川は?ってなるじゃん。その時、オレが居るかんね。気持ちの問題でさ。1人になるって思っちゃうとき。よく分からんけど」
寂しいんだ、と言った彼の声がまだ消えない。
「少し知ってくれただろう。それにそう言ってくれただけで十分だ」
彼の挙動すべてが悲哀を帯びて櫻岬の目に映る。卑屈で遠慮がちで自信がない。人嫌いな雰囲気を醸し出し、意地を張るところもあるくせに、簡単に素顔を晒す。
「吉良川」
「なんだ」
「やっぱキスしてみよ」
眼鏡の奥の目が見開かれる。
「それで吉良川の気持ち、埋まるか分かんないけど、寂しいって聞いたら、オレ、吉良川にそのつもりなくても、どうにかしたくなっちゃうだろ」
「背負わせた。すまない」
「もうおんぶにだっこしちまえ。オレと吉良川は友達だから、オレにとってはただ唇がぶつかるだけ。吉良川のタイミングできて」
吉良川はぎこちなく姿勢を正し、櫻岬はその前に立つとキャッチャーのように足を開き、腰を落として構えた。
「い……くぞ?」
「おう、来いよおら」
膝を叩く。
「目、閉じてくれ。恥ずかしいし、櫻岬も嫌だろう……」
「別にオレは嫌じゃないけどさ。分かった。タイミング分かんないのドキドキすんな……」
固く目を閉じる。吉良川の尻がベンチから浮き上がりかけた。
「よ!きらりんとべいべ!」
降ってきたのは先程までいなかった者の声である。柊だ。吉良川は放心したように尻餅をつく形でベンチに沈んだ。
「そういう仲になったの?」
「見てたんなら空気読めよな」
ぼそりと嫌味を言うがマイペースな柊には伝わない。
「べいべ」
改まった声音で呼ばれて彼のほうを向いた。高いところから陰がすっと落ちてきた。チョコレートの溶けていくのを思わせる蕩けた感触が唇を覆った。吉良川ではない。吉良川はベンチに座っている。
「きらりんを満足させる唇はしてないね」
「あんたとキスするのは勘定に入ってねぇんだわ」
口元を拭う。柊は愉快そうに片眉を上げている。
「でも、きらりんと間接チュウできたでしょ?」
「何しにきたん。吉良川が奪られそうでヤキモチ焼いたわけ?」
柊はいやらしくにやにやしているだけだった。
「きらりんはボクから離れられないから別にそれはないよ。ただ、人妻の浮気みたいでゾクゾクしちゃった」
彼はおどけながら自身の両腕を摩り、ぴょんこぴょんこと跳びはねる。
「随分と自信あるんじゃん。カノジョのことはどうすんだよ?」
「気にしたことない。打ち明けてみようか、この際」
吉良川が反応を示した。
「打ち明けて、どうするんだ」
「別れ話になったら別れるよ。不義理したのボクだし」
「吉良川と別れてって言われたら?」
柊は吉良川を一瞥した。それから櫻岬を見て答えた。
「別れてって言われるとは思うけど、別れるとは答えないよ。だって付き合ってないもん。そういう関係じゃないからね。だから、そういうコトはしません、って答えるね」
「屁理屈じゃん」
「だって実際、ボクたち付き合ってないもんね、きらりん」
柊の目配せは圧にも近かった。吉良川は首から力を失ったように頷いた。
「で、答えるけど、しないとは言わないわけだ」
「そ!」
櫻岬は後頭部を掻いた。少し硬い髪質がざりざりいう。柊は雑に返事をすると吉良川の隣に腰を下ろした。
「柊……」
「キスしに来たよ。べいべが居るから要らないかな?」
柊の腕は吉良川の肩を捕まえていた。摩擦するようにゆっくり二の腕へ滑っていく。
「要る………」
「うん?」
「ほしい」
ぼそぼそとした返答だ。柊は満足げに笑みを浮かべ、捕まえた相手を引き寄せる。求めていたくせ外で、しかも人前には抵抗があるのか、吉良川の肘は距離を詰める胸元を突っ撥ねる。櫻岬は2人の唇が合わさるのを食い入るように見ていた。宮末としたこととは違うもののように思える。吸いながら、ゆっくりと角度を変えながら密着を深めていく。吉良川の手が小さく震え、柊は掴んだ箇所から上手いこと彼を引き込み、それは最早抱擁だった。
「ぁっ………」
一度は目眩を起こした濃厚な接触も二度目は慣れてしまった。唇の間から薄紅色が絡み合う。吉良川の眼鏡は白く反射する。口腔の中の餌を奪い取らんばかりの猛攻を受けている。
「く、………ぅ」
逃げをうつ彼を柊は腕に閉じ込める。櫻岬は終わるまで見ていた。キスする関係を越えている。
「ここまでする覚悟、ある?」
口付け自体はすっと終わった。煌めいた糸が落ちていく。撓垂 れかかり息切れを起こすキス相手を抱き寄せ、柊は晴れやかな顔をしている。寝る子をあやすが如く、その手は吉良川を軽く叩いている。
「そこまでやったら、もうキスじゃないよ」
「ベロチューはセックス派の人か」
露骨な物言いに眉を顰めた。下ネタは嫌いではない。だが柊が言うと、途端に生々しく悍 ましい、嘲笑的なものに聞こえる。
「きらりん、べいべともセックスできそう?」
彼は柊の肩に頭を預け、首を横に振った。
「ともって、何だよ」
引っ掛かりたくもないところを気にした自分を恨んだ。特に意味はない、と返ってくるのを期待した。しかし柊の目がそうは言っていないのだ。
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