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誘惑の土曜日(6)

『帰りました』 メール送信。 ほんとは大分前に帰っていたんだけど、メールする勇気が出なかった。 iPhoneと未開封のケースを並べる。月曜日、両方返そう。 さっき、ちゃんと断れなかったけど、気持ちは伝わったはずだし、カテキョの件はなかったことにして貰おう。 それで……もう土御門には近づかない。 メガネを外すと机に置いた。視界がぼやけるままにして、息を吸う。 なんだろうな、これ。 土御門の(はしばみ)色の瞳をもう見ることが出来ないとか、頭をなでてもらう事はないんだとか、あの滑らかな声を聞くことはないんだとか、艶然とした笑みとか、蕩けるような微笑み、不機嫌に潜められた眉も、もう見ることが出来ない。 一つを思うごとに、オレの胸は痛む。 たった三日で、人は恋に落ちるのか? そんなのあり得ない。 じゃあなんなんだ、この気持ちは。 わからない。 わからないけど、ものすごく怖い。 少し、離れて考えたい。 そもそも、オレは誰かを好きになったことがない。 田舎で暮らしていて、身体が少し弱かったオレを、ばあちゃんは過保護に育てた。 外に出すことを嫌って、自分の目の届く所に居るのを望んだ。 オレは大人しい子供だったから、そんな生活も苦にならなかった。 ばあちゃんはオレが勉強出来るのを喜んだから、オレは進んで勉強する、いわゆる良い子になっていた。 中学に上がる頃には、前ほど、ばあちゃんが干渉することはなくなっていたけど、オレは頭が良すぎる礼儀正しい秀才になっていた。 他の生徒との間には溝があって、そいつらに近づこうとも思わなかったし、近づいてくることもなかった。 だから、オレは勉強は出来ても、他人の気持ちがよくわからない。 携帯が鳴る。 オレはびくっとして、携帯を取り上げた。着信を押そうとするけど、押せなかった。 留守録設定をしてなかったから、ベルはいつまでも鳴り続ける。 ベルが鳴り止んだ。 オレはホッとして、携帯を置いた。その瞬間、携帯が震えて、画面にメッセージが出る。 『いるのわかってるから。出て』 と同時にまた携帯が鳴る。 オレは震える手で着信をタップした。 「神無月さん。こんばんは」 滑らかな土御門の声が聞こえる。 神無月と呼ばれて、妙に傷つく自分に驚く。 「うん」 「話があるんだけど」 答えられずにいると、土御門が先を続ける。 「月曜日から、ウチの離れの方に部屋の準備が出来るから、学校に着替えとか持って来て欲しいんだけど。帰りにそのまま連れて帰るから」 「ちょっ、何それ。オレ、断って…………」 土御門は完全にオレを無視して話を繋ぐ。 「遠慮する気持ちは判るけど、ウチの方が快適だと思うし。親にはちゃんと了解とった。  今、かわるから」 「は?」 「春樹の父親です。仕事が忙しくてなかなか家にいることが少ないので、電話で申し訳ない。  春樹が君を気に入って、強引にお願いしたのに、分家の者が失礼をした様で…………」 「いえ」 オレは動揺しながら答えた。なんだ?何が起きてる? 「学校の先生も君の人柄には太鼓判を押していたし、今日会ったウチの斉藤も、君が気に入った様だ。神無月君自身の勉強もあるだろうが、ウチとしてもフォローはするつもりでいる。迷惑をかけて申し訳ないのだが……よろしく頼みます」 「はい」 そう答えるしかなかった。 その後に、土御門の母親が、次に姉が、何か言っていたが、オレはショックで相槌を打つのが精一杯だった。 「もし、学校に荷物持って来れない様なら、帰りに取りに寄るからさ」 最後に土御門がそう言うと、オレは無言で電話を切った。 最初に浮かんだのは、 完全にしてやられた。 という言葉だった。 オレが乙女よろしく、自分を哀れんでいる間に、土御門はオレの外堀を完全に埋めたんだ。 先生や斉藤さん、自分の親さえ使って。 何を考えているんだ? そこまでして、どうしてオレを手元に置こうとするんだ。 わからない。 わからないことは怖い。 オレにわからないことはとても少ないから。 ゆっくりとオレの中で怒りが頭をもたげる。 携帯が鳴ったが、オレはそれを無視した。着信するメールにも目を向けなかった。 家庭教師が欲しいなら、なってやる。 オレはPCの電源を入れると、必要な情報を集めはじめた。

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