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戸惑いの火曜日(1)
ここ、どこだ?
うすぼんやりと見える天井の色が違う。見たことのない視界に軽くパニックを起こした。
がばっと起きると白いバスローブを着ている。下ははいてない。
メガネがない。ぼんやりとした目で見回すと、ベッドサイドのスタンドの下に置いてあった。
視界がクリアになると、辺りをキョロキョロする。
ダブルのベッドに黒を基調にした高そうな家具。右手にあるドアに見覚えがあった。風呂に続くドアだ。
…………風呂に入ってからの記憶がない。
目につく所にリュックがあったから、中から着替えを取り出してこそこそと下着を身につける。制服を洗面所に脱いだ覚えがあったから、見に行ったけど、かごの中は空っぽだった。
制服がないと学校に行けない。
どうしようと悩んだ挙句、オレは一階へ続く階段へ向かった。階段を降りておそるおそる様子を見回すと、いかにも金持ちの家というような豪華な作りにびびってしまう。どうやら一階はリビングダイニングというやつらしい。
黒を基調にしたキッチン。
でっかいTVとソファセット。
そこには土御門が長々と横たわっていた。
気配を感じたのか、土御門がもぞもぞと動く。
寝苦しかったのか、身体にかけていた肌がけは下に落ちている。
白いシャツは前が開いていて、土御門の逞しい身体が晒されていた。
乱れた髪が頬にかかっていて、そのくしゃくしゃになった茶色の髪を撫でつけたくて、指の先がなんだかむずむずする。
見ちゃダメだ。
息を詰めて部屋に戻ろうと、階段に向った。
その気配に土御門が跳ね起きる。
土御門はオレを見ると、目を輝かせた。
「なな」
オレは急に光に照らされた獣の様に動けなかった。階段の手すりをぎゅっと握りしめて視線を土御門に向ける。
土御門は動かなかった。きっと近づけばオレが逃げるとわかっていたんだろう。
怯えきった俺の顔に土御門の顔が歪んだ。はあと息を吐いて頭を振る。そしてあげた顔には安心させるような微笑みが浮かんでいた。そんなのに騙されるもんか。そう思ったけど、ここは土御門のテリトリーだ。簡単には逃げれないようにされているかもしれない。
そう思うと怒らせてはいけないような気がした。
「具合は?」
「…………大丈夫。身体、痛いけど」
「頭は?」
「少し、痛い、かな」
「冷蔵庫にミネラルウォーターがあるから、出して飲んで」
きっぱりとした命令口調に逆らっても無駄だと感じた。土御門を避けるように壁伝いによろよろと歩くと、冷蔵庫からペットボトルを出した。
「そこに座れ」
土御門はダイニングテーブルを指差した。
指示慣れしてる土御門にいらっとしたけど、立っているのが辛いくらいに身体中が痛かったから、黙って座る。座って、ほっとした。キャップを外して流し込んだ冷たい水が身体にしみわたっていく。
「朝飯、何がいい?」
「い、いらない」
「昨日の昼から食べてないんだろ?」
土御門が苛立った声で言う。
日曜日もロクに食べてなかった気がする。腹がたって、冷蔵庫の整理の時、全部捨ててしまった。
でも、
「いらない」
オレは意地になって言った。
「じゃあ、適当に何か頼むよ」
土御門は携帯を取り出して、どこかに電話しはじめた。
ちらっと見ると、土御門はあの時一緒に買ったケースをはめていて、気持ちが揺れる。
電話を切ると、沈黙が続いた。
じっとオレを見る土御門の榛色の瞳が揺れる。ためらう視線がオレを逸れて、綺麗な形の唇がため息をついた。
「ごめん」
土御門がぽつんと言う。
「黙れよ。……本気で悪いなんて思ってないんだろ? なんでも、思い通りになるって、そう思ってるんだろ?」
叫んだつもりだったけど、もう怒りは半ば消えていて、疲れたささやきにしかならない。
「それは、ななにむりやり家庭教師を引き受けさせたことだろ?
今謝ったのは、そうじゃなくて、昨日の件。
早く謝りたくて、学校であんな風に話したのは間違いだった。ななを泣かせてしまったのはもちろん、それを関係ない奴らにも見られてさ。軽率だった。
────追いかけようとしたけど、先生につかまって。あそこ、先生もいたからさ、詰問されて。
そのまま言うわけにはいかないから、家庭教師を引き受けさせた挙句、オレがわがままを言ったのから、ななが不安を感じて泣き出したってことにしたんだ。
六大狙ってるななを動揺させるとは何ごとだって言われた」
もしかして、家庭教師しなくて済むのか? オレは期待するように土御門を見た。
土御門はオレの表情を見て、皮肉な笑いを浮かべた。
「家庭教師のことなら、なかったことにはならなかったよ」
意気消沈するオレを見て、土御門は顔を曇らせた。
ため息をついて、先を続ける。
「ちゃんと真面目にやるんじゃなきゃ、関わるなってさ。だから……真面目にやりますって言ったよ」
真面目に。少なくともきちんと勉強はしてくれるってことなんだろうか。疑うような視線向けると、許しを乞うような目で土御門が見つめかえす。
その視線に息が詰まりそうだ。じりじりと時間が流れていく。
それを断ち切るように、コンコンと裏口が叩かれる。
「メシ、来たみたいだ。なんもしないから、逃げないで」
土御門は裏口を開けると、大きなトレイをダイニングテーブルに載せた。
ラップを外すと、湯気の立つリゾットをオレの前に置いた。
リゾットはすごくおいしそうだ。
二日間ほとんど食べてない胃がよじれる。
土御門がスプーンを差し出した。
「食べて」
オレが黙っていると土御門が言った。
「あのね。昨日、何時間行方不明だったかわかってる? 昼からいなくなって、電話来たの夕方の六時だ。携帯置いて行ったし、校内にはいないしさ。
迎えに行ったら、ボロ雑巾みたいになってて、意識はないし。
車の中では泣くし。
風呂入れたら、やたら長風呂で、もしかしてと思ったら寝てて、起こしたら倒れた」
うわ。じわじわと頬が赤くなる。
客観的に見るとなにやらかしてんの、オレ。
「食べて」
オレは土御門が差し出すスプーンを、手が触れないように受け取った。
リゾットをすくって口に運ぶ。
うわ、めちゃくちゃおいしい。五臓六腑に染み渡るって、こんな感じかな。
一口、二口、本当においしい。無意識に、ん~ってため息を漏らして、軽く頷く。口元が緩むのを感じた。
視線を感じて目を上げた。
土御門はラップを取る手を止めて、オレをじっと見ていた。
「な?なに??」
「わらった。と思ってさ」
苦笑いしながら、土御門は食べやすくカットした果物の皿を俺の前に置いた。
「ずっと怒ったり、泣いたりしてたから、やっと微笑ってくれたって、ちょっと感動した」
その言葉にきゅんとする。
昨日した事を思えば、普通なら見捨てて当然だ。迎えになんか来てくれなくて当たり前なのに、あんな態度の悪い電話で来てくれて、面倒を見てくれた。
オレ絶対めちゃくちゃだったのに。
下唇を咬むと、うつむいた。
「もっと食べて」
そう行って、とんとんとテーブルを叩く指先を見ながら、おずおずと言う。
「昨日は……迷惑かけて、ごめん」
土御門かくすくすと笑う声がする。自分の分の皿をテーブルに並べると椅子にすわった。目線があって、榛色の瞳が穏やかに輝いているのをぼんやりと見る。
「…………迷惑ではないな。ものすごく心配はしたけど」
「……ごめん」
「自業自得だから。しょうがない。まあ、いろいろわかって良かったよ」
「いろいろって?」
土御門はメロンにフォークを突き刺して、回しながらしばらく考えて言った。
「…………どうかな。言ってもいいけど。怯えて逃げられる気がするんだ」
はあと土御門がため息をつく。
「昨日みたいに逃げられたら、ちょっと耐えられる気がしない」
土御門はちらりとオレを見て聞いた。
「…………今、聞きたい? 聞かないとダメ?」
オレに逃げて欲しくないんだ。鼓動が速くなる。
オレが逃げないなら、土御門は話すんだろう。受け入れることが出来るなら。
『側にいたい』
土御門はそう言った。
側にいて、それでどうするんだ。
歓喜と苦痛を伴って、土御門の記憶が蘇る。髪も瞳も声も手も。どの一つでも、オレの常識やモラルを粉々にする力がある。
そして、それはとても怖い。
オレはまだ、土御門が怖い。
「……後でいい」
恐れを吐き出すように呟いた。
「だよな」
土御門はそれを聞いて苦笑する。
「ほら、スプーン止まってる。冷めないうちに食べないと」
オレは曖昧にうなずくと、リゾットをまた食べ始めた。
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