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困惑の水曜日(2)

「なな」 幻聴が聞こえたのかってびくっとした。 ゆらっと目の前に立たれて、それが土御門だって気がついて、心に灯りがともる。ずっと呼んでたから、来てくれたんだ。 「ちゃんと来たんだ?」 押し殺したその声の冷たさに、灯りはすぐに消えた。 高い視線がふわっと下がって目線が合う。笑っているけど、目は全然笑ってない。きっと……すごく怒っているんだ。それに心が縮みあがっていく。 「先に行くって、随分遅くないか?」 ごめんなさい。 謝りたかったけど、何か一言言ったら泣き出しそうだ。 オレは目を逸らして、土御門の脇をすり抜けようとした。 土御門の腕が延びて、オレを抱きとめる。 縮み上がった心そのままに、身体が緊張して震えだす。喉の奥がぎゅっと絞まって苦いものが喉の奥を焼く。 「こっち見ろ」 冷たい声がオレを突き刺す。 オレは吐き気を堪えて、土御門を仰ぎ見た。 土御門の怒り狂った眼差しが、じっとオレを見つめる。 オレは緊張で立っているのがやっとだった。ふらついたオレに、反射的に腕に力がこもって支えられた。 「何があった?」 オレはびくっとして、腕の中でもがいて逃れようとしたけど、土御門の腕はびくともしない。 はあと息を吐いてしっかりしろと自分を叱りつけた。血の気の引いた顔で、土御門の顔を見返すとその瞳の中の怒りが揺らいだ。視線が全身を泳いで、はっとした顔になる。 「セーター……どうした」 オレは目をきつく閉じると頭の中で言い訳を考えて囁いた。 「忘れた」 「嘘つくな」 ああ、嫌だ。なんで気がつくんだよ。 オレは激しく瞬きをして、土御門の腕から逃れようともがいた。もう泣く、絶対泣く。目が熱くなって、視界が涙で歪む。 「なな?」 「離せ」 うわ、涙声だ。 「なんか、あったんだな?」 硬い声で土御門が断言する。オレは首を振った。 手回し良く車を呼んでいたみたいで、黒塗りの車が車回しに滑りこんで来た。土御門は開いたドアにオレを押し込んだ。学校へ。インターフォンにそう指示する土御門に追求が終わったのかと思う。 「で?」 土御門が危険な雰囲気を漂わせながら促した。 「しゃべらないなら、車から降ろさない」 硬い表情の土御門に、言っていることは本当だと思う。 話さなきゃいけないんだ。大したことじゃないんだと、自分に言い聞かせる。めちゃくちゃ気持ち悪いけど、レイプされたわけじゃないんだ。大丈夫だ。 何度か息を吐いて、呼吸を整える。 「ち、痴漢されただけ。電車の中で、何度もぶつかられて……そういうことだって全然気がつかなかった。そしたら、セーターの後ろににかけられてて……おっさんに教えられたから、トイレでセーター脱いでたら、そのおっさんがおっかけて来て、お金持ち学校の子がなんで電車に、とか、キレイだね、とか、言われて。それで、触って来てさ、怖かったから、セーターぶつけて、逃げて、来た」 たどたどしく、だけど、止まらずにしゃべり終わると、惨めさにじわじわ涙が出て来て大きく息を吸う。 「今の駅?そいつ」 感情の一切こもらない声で土御門が尋ねる。 「オレ、乗り換えしたから。その前の終点の駅で……」 「そいつ、次に見たら教えろ」 ぶっ殺す。その後のセリフが聞こえるような気がする。 ひくってすすりあげると、土御門が荒く息をついた。 「なな、俺の携帯、暗記してたよな。なんですぐ電話しなかったんだ?」 「自分勝手して、トラブルに巻き込まれて、助けてとかなんか違うだろ。」 「違うんだ?」 そう言われて言葉に詰まる。 「大したことじゃない。オレ、男だし」 沈黙。 「そうか」 土御門がにっこりと笑う。 わかってくれたのかと、一瞬ほっとした。 「じゃ……俺がやってもいいよな?」 オレはびくんと飛び跳ねて後ずさった。 「な、なに?なにすんの?」 車のドアに背中をつけて、土御門と向き合う。土御門は笑顔のままオレににじり寄って来た。 「ん?かけるだっけ?後ろにかけられたんだよな?前の方がいい?するとこ見ながらの方が興奮する??」 言ってる意味がわからない。土御門の手がベルトを外し始める。オレはガタガタ震えながら座席に縮こまった。後ろ手にドアを開けようとするけど、ロックがかかっていて開かなかった。 ふ、ふって息が漏れて、涙で視界が歪む。 やだ、やめろよ。 言いたいのに、がちがち鳴る歯じゃ上手くしゃべれない。 「なあ、大したことじゃないのか?」 土御門の表情が変わって切なげにオレの顔を覗きこんだ。 オレは思い切り首を横に振ると、大粒の涙を流し始めた。 ふわっと身体が浮いて、土御門の膝の上で横抱きにされる。 「怖かった?」 うんって頷いた。嗚咽が漏れる。どうしようもなく流れてくる涙を手でぬぐった。土御門がの腕がオレに絡みついて柔らかく抱きしめた。宝物に触れるような手つきに、ますます涙が出てくる。土御門の指がゆっくりと髪を撫でて、つぶやくように囁く。 「ななは甘えるのヘタだって知ってるけど。大したことじゃないとか言うなよ」 「な、泣くから。なっ、ないたら、カッコわる」 そう言いながら、嗚咽が止まらない。ひっくひっく言いながら喉を押さえると、落ち着いた声が宥めるように言う。 「カッコ悪いから、我慢した?……俺だって、知らないおっさんに尻とか触られたら、泣くさ」 「ほんとに?」 「泣くよ」 トントンと背中を叩かれる。 泣くよっていうのは嘘だって分かってる。土御門だったら余裕でかわすんだろうって。でも、泣くよって言ってくれたのにオレはなんだか安心して、土御門の肩に顔をすりつけた。 持ち上がったメガネが、かしゃって音を立てた。 土御門がメガネをとりあげる。ぐすぐすと鼻を鳴らしてるんだから、泣いてるのはとっくにばれてる。それでも顔を見られるのが恥ずかしくて、肩につけたままの頭を、土御門はそっと抱いていてくれた。 涙の発作が治まって、くすんと鼻がなる。 「ね?触られたってどこ?」 土御門が優しく聞く。それはさりげなく、普通の調子で、オレはまだ自分の感情の爆発にぼんやりしていたから、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。 「腰、握られただけ」 横抱きされていた身体がひっぱられて、土御門を跨がされる。 オレが思わず腰をあげると、土御門は手馴れた手つきでオレのシャツを腰から引き抜いた。 「な、なに?」 土御門の手がシャツの中に潜りこんでオレの腰をつかんだ。その熱い手の感触にびくりと身体が震える。 「消毒」 するりと入り込んだ手は、腰だけじゃなく、背中のあちこちを撫でる。煽り立てるような手つきにオレは膝が立たなくなって、土御門の首にしがみつくと、浅い息を吐いた。 「そ、んな、触られてな……」 「消毒は念入りにしとかないと」 背中を這いのぼった手が軽く爪を立てて滑り落ちて、思わず声が漏れる。 「っ……あ…………」 「気持ちいい?」 何が起きているんだかよくわからない。背中を這い回る手に翻弄されて、言葉もなく頷く。掠れた声で土御門が笑う。 肩に手を置かれて、ほんの少しだけ身体を離される。 金色の斑点が踊る榛色の瞳がゆっくり近づいて来るのを、オレは魅入られた様に眺めていた。 唇と吐息の熱を感じるくらいの距離……もうちょっとで……唇が触れる。 その瞬間、インターフォンが鳴った。 「わ、わわっ!」 オレはびょんと飛び跳ねて、もだもだと土御門の膝から降りると、座席に座り直した。土御門は、はあって荒く息をつくとインターフォンを取って、返事をしてまた置いた。 「もう着くって」 土御門は髪をくしゃくしゃにすると、オレを見てため息をついた。 「惜しかった……」 にっこりと笑う。 「動揺してるだろうけど、服、そのまんまじゃ目立つから。止まったらすぐ車飛び降りたりしないでね」 はっとして、視線を下に降ろすと裾を出されてるだけじゃなく、ネクタイは結び目を解かれてるし、前のボタンも三つ目まで外されている。 ついでにベルトのバックルも開いてる。 どこまで消毒するつもりだったんだよ!真っ赤になるオレをにやにやしながら眺めると土御門は言った。 「あと、今のは冗談でも、からかってるのでもないからね?」

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