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困惑の水曜日(5)

なんでオレ、メガネしてないんだ。よく見たいのに、暗い部屋の中で土御門の顔がよく見えない。 すごく嫌な予感がして、暑いはずなのに、身体が震える。身体を真っ直ぐに伸ばした土御門が、玄関に向かって歩き出す。 「どこ、いくの?」 土御門の足が止まる。 「帰る。荷物送るよ」 心臓に氷をぶち込まれたみたいだ。土御門はオレを諦めるつもりなんだ。オレなんにも言ってないのに。 そんなのダメだ。ダメだ。 絶対ダメだ。 土御門が動いて、玄関に立った。 ノブを回して、ロックに気付いて舌打ちしている。 なんか言え。オレ。 オレの神がいなくなる前に。 「ハル……」 オレ言ったか? ちゃんと声になったか? 玄関の気配が止まる。 「ハル。な……靴脱いで、こっち来て」 今度はちゃんと声が出た。オレは起き上がってベッドに座る。 部屋の入り口に土御門が立っている。暗くて表情は見えない。 「オレ、メガネしてないから……よく見えないから、さ。こっち来て……」 オレはゆっくりと手を差し伸べる。 土御門の動く気配。近づいてきた土御門に涙が出そうなくらいほっとした。 冷たくて震える手が、怖れるようにオレの手を握る。軽く引くと、されるがままに土御門がひざまずいた。 ああ、これなら見える。 絶望しきった榛色の瞳。 誤解なんだよって言ったら信じてくれるかな。どこから始めたらいいだろう。 息を吸って、吐き出した。 「聞いたら、逃げるかもしれないって、言ったよな。オレ、さ……もう、逃げないから。 ハルの気持ちが、聞きたい」 たどたどしく紡いだ言葉。手の中の土御門の手は震えている。 オレは手のひらを上にすると、親指を絡めて土御門の手を握った。 榛色の瞳が痛みを浮かべたままで瞬きする。 「────なな、が、好きだ」 かすれた哀願する様な声。 ああ、そうなのか。綺麗な水が湧き出すように、純粋な喜びがオレを満たしていく。 「オレも、ハルが好きだよ」 差し出された気持ちを自分に入れて、自分の気持ちを差し出す。 そして、それが本当だって知るんだ。 オレは微笑んだ。 これがオレの好きな人だ。 土御門。いや、ハルだ。 ハルは信じられないという様な顔をしている。 「……いつから?」 掠れた声。 手のひらの中の手に力が入って、ゆっくり暖まっていく。 「昨日はもう好きだった。それで、眠れなくて。今日はクタクタで、家でシャワーを浴びたら眠くて。少しだけ寝るつもりだったんだけど。だから、今日は逃げたわけじゃない。」 「電話……」 「したんだけど。出なくて、折り返しかかってくるかなって。30分くらい寝たらまたかけるつもりだったんだけど。いっぱい寝ちゃったんだな」 「非通知だったやつ?」 「非通知?」 オレはベッドに横になって、枕元に転がっていた電話を拾うとハルの携帯番号を押した。 ハルのジーンズのポケットで携帯が鳴る。 チラリと画面を見ると、ハルはオレに画面を見せた。 『非通知』 「IP電話で、ばあちゃんとしか話さないから、気がつかなかった。パソコンで設定いじったのかも」 ハルは携帯をロックして、床に落とすと、ベッドに上がってオレの横に滑り込む。 「なな」 宝物みたいにぎゅっと抱きしめられて、息が止まる。 オレはハルの目に沢山の輝きが煌めきはじめるのをうっとりと眺めた。 オレの口から詩を口ずさむように言葉があふれる。 「月曜日かな。くたくたで、もうダメかなと思った時、電話したのハルだった。高橋の電話も覚えてたし、先生のも覚えてたけど、思いついたのはハルのでさ、気がついたら電話してた。  日曜日は、な。怒ってたから。怒ってたっていうか、怖くてしょうがなくて。ああ、でも怖かったのは、好きだったからなのかな。  土曜日かもしれないけど。オレ、デートとか初めてで。ハル、いろいろ気を使ってくれてたんだろ?財布バリバリしても、馬鹿にしなかったし、ポップコーンとかも、なんかすごいドキドキしてさ。  金曜日は携帯貰ったじゃん?オレ、なんか嬉しくて。なんで欲しがってるの知ってるのかなってさ」  ハルの茶色の髪に手を入れてゆっくりとくしゃくしゃにしながら、ハルの身体を上に乗せた。めちゃくちゃ近い距離、泣き笑いみたいな妙な表情のハル。 オレはため息をついて言った。 「結局……一目惚れなのかな。  最初にハルの目を見た時かも。榛色の瞳にさ、金色の斑点がキラキラしてて、すっごい綺麗で。ハルって呼んでって言われて。頭がおかしくなりそうなくらいドキドキした」 ぽたぽたと温かい雨が降る。 ハルの榛色の瞳から。 「な、これ現実?」 ハルが囁く。 「だな」 降り続ける雨を受けながら、オレは言った。 オレの為に降る雨の甘さがオレを酔わせる。 「俺……死にそう。なな、甘すぎ」 「オレ、ファーストキスもまだなのに死ぬなよ」 ハルの顔が赤くなる。 「ま、まだなんだ」 「初恋なんだし。しょうがないよね?」 「ちょ。も、しゃべるな。本当に死ぬ」 ぽすんとハルの頭がオレの胸に落ちる。 「すっげえ嬉しい」 かすれた声でハルが囁く。オレはハルの髪を撫でた。 「キスしていい?」 身体を起こしたハルがTシャツの袖に顔をこすりつけて涙を拭う。 両手でオレの頬の涙をゆっくりと撫でると、オレの両手を引いて首に回す。 ぎゅって抱き締めると、喉元を唇がかすめて、ただ重なるだけのキスが落ちてくる。焦らしては離れていく唇がもどかしくて、オレはハルの髪をつかんだ。 「ファーストキスはもういい?」 「え?」 「なながファーストキスだっていうから。可愛い感じのキスがいいかなって」 「今の可愛いの?」 「可愛くない?」 「じ、焦らされてるのかなって」 オレが視線をそらしてもじもじ言うと、ハルがオレの顎を優しくつかんで、視線を合わせると艶然と微笑む。 「もっとしたい?」 ここ、空気が薄くないか? 短いため息が出て、ハルの微笑みが大きくなる。 目をそらしたいけど、顎をつかまれているから、そらせない。 「なな?」 オレはどうしようもなくなって、こくんとうなずく。 低い笑い声がして、ぺろっと唇を舐められる。 「口、開いて?」 震えながら口を開くと、ハルの熱い舌が中に滑り込む。 舌と舌が触れ合って、ざらりとした感覚にぞくっとする。口の中をハルが探ると、仔犬みたいな鳴き声が喉から出て、ハルの唇が微笑むのがわかる。 「気持ち悪くない?」 ハルがオレの髪をかきあげながらきく。 「な、に?」 かすれた声しか出ない。 「今みたいなの。嫌いな人もいるからさ」 すき。 言いたいけど、恥ずかしくて言えない。オレは唇が噛んだ。 ハルがそれを見て、眉をひそめる。 「唇、傷つくだろ?」 噛んだ唇に舌を差し込まれて、また口の中に舌が入って来る。 オレは抵抗もせずに舌を絡ませた。 「んっ…あ……く……」 また子犬みたいな鳴き声が出る。 恥ずかしくて、気持ち良くて、何も考えられない。 ハルの唇が離れる。 「や……」 オレは身を起こしてハルに抱きついて自分から唇を重ねた。キスのせいでハルの中に溜まった甘い唾液をゆっくりと舐めとる。 空気、が、足りない。腕に力が入らなくなって、そのまま後ろに倒れた。短い息を吐いていると、ハルが呆然とした顔で見ている。 ……ん?…… あ、オレがキスしたから? しかも可愛くない方……嫌だったのかな。 「きもちわるい?」 オレは小さな声で囁く。 「何が?」 「いまみたいなのは、キライな人もいるんだろ?」 「俺は、好きだよ……重いだろ?」 ハルがオレの上から降りてベッドに腰かける。 めちゃくちゃ暑いのに、なんだか重みがなくなると寒くなった様な気がして、オレはころりと寝返りをうつと、ハルの腰の周りに丸くなって寄り添った。 「ななは可愛いな」 ゆっくりとハルの手がオレの頭を撫でる。 撫でる手が背中に降りて来ると、今朝の消毒を思い出して身体がびくんと跳ねる。 ハルはぱっと手を離すと、拳を握りしめて前を向いて頭を抱えた。

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