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激動の木曜日(4)
ぼんやりと午後は過ぎて行った。
時々、高橋が振り向いて、大丈夫だよというようにわんこみたいに笑う。それが切なくて、うまく笑い返せない自分が嫌でたまらない。
放課後になると、高橋はクラブだからと言って、ぽんぽんとオレの頭を叩くとダッシュで教室を出て行った。
机から教科書を出していると、ハルがやってきた。ハルは何も言わずにオレがリュックを背負うのを見ていた。見上げたハルが無表情にオレを見下ろしていてひやりとする。
なんだろう、何かが変だ。
そう思ったけど、オレにはそれが何だか解らなかった。
「行こう」
ハルは準備の出来たオレを見て、そう言うと教室を出て行った。
車の中でもハルは無言だった。ずっと窓の外を見ている。
高橋と昼飯に行ったから、怒ってるのかな。
考えてみれば、ハルはずっと高橋を嫌っていた。
廊下のハルと目が合った時、ハルに話しかけようとしたオレに高橋が話し掛けた時。携帯を貰った時も、高橋の連絡先は入れなくていいって言った。重いリュックを背負って、高橋に手伝って貰った時も。
『はは。俺、必死すぎ』
ハルはそう言って高橋の机を蹴った。
『土御門がお前に急に近づいたのは、おれがお前に近づいたせいだ』
高橋の言葉が蘇った。もしかして、ハルがオレに近づいたのは高橋への嫌がらせの為だったのかな。なんだか胸が痛い。
車が着くと、ハルはさっさと車を降りて離れに入って行った。後ろを振り向きもしない。オレはもたもたと車を降りると運転手さんに頭を下げた。
中に入ると、ハルはカバンを降ろして部屋の真ん中にオレに背中を向けて立っている。
「キスしていい?」
頭だけこっちを見たハルが部屋の入り口に立っているオレを見て、静かに言う。表情はなかったけど、なんだかほっとした。高橋への嫌がらせのためだったら、キスなんかしないだろう。
差し伸べられた手の中に潜りこむと、ハルの腕の中で安心する。
ハルの手がリュックの紐を外すと、重い音を立ててリュックが落ちた。リュックも降ろさずに抱きついたんだと気づいて、恥ずかしくなる。
オレはハルの金色の斑点を見ようと目をあげた。オレを見るときはいつもあるから。
でも、そこに輝く光はなかった。
落ちてくる唇は冷たくて、見知らぬ他人にされてるみたいだ。オレは怖くなって、ハルの肩を押した。
「や、やめろ」
一歩下がった先にはさっき落とされたリュックがあって、オレはそのまま後ろに倒れそうになった。ハルの手が伸びて、オレをつかんだけど、支えきれなくて、そのまま結局倒れる。
気がついた時にはハルが俺の上に馬乗りになっていた。
「ね。俺たち、まだ付き合ってるのか、教えてくんない?」
ハルが感情のない声で言う。
オレは怖くなって、ハルの身体の下から抜け出そうともがいた。
「高橋にはさ、七重って名前呼ばせるのに、なんで俺はダメなんだ?
昼だって、俺は嫌だったのに。どうしても、一度、会わせてくれって言われて。俺、あいつらと手を切るつもりだったから、最後にって言われて断れなかった。ななが良いって言ったらって約束だったのに。
わざとななのプライドを傷つけるようなこと、言い出して。
よりによって、高橋に持って行かれた。
帰りは仲良く手繋いでるし、ななは目が真っ赤だし」
ハルから見た自分の姿に愕然とする。
「なんであいつに触らせるんだ? 俺のものじゃないの? あいつのになっちゃった?」
体重を掛けられて、思わずうめく。肺から空気が抜けて、息が出来ない。
「ハル……ご……め……」
両手首を重ねられて、片手で抑えつけられる。思い切り力を入れられて、手首が悲鳴をあげた。
「なんで、謝るの? 俺を捨てるから?」
冷たい唇が降りてきて、オレの唇と重なる。舌が中に入って来たけど、息苦しくなるだけで、何の喜びもない。
「や……」
ハルが下唇を強く噛む。口の中に血の味がした。
『唇、傷つくだろ?』
唇を噛んだオレにハルが言った言葉。
オレがオレを傷つける事すら許さなかったのに。
こいつは誰だ?
オレは大事にされていた。切なくなる程大事に。震える手で懇願する様にオレにキスしてしたハルは消えてしまった。オレしたことが、オレの大事な人をこんな風にしてしまった。すうっと気持ちが冷えていく。オレはもがくのをやめて力を抜いた。
「なんでも好きにすればいい。……ただ、絶対、後で謝るな」
静かに息を吐いて力を抜く。
俺の言葉に、ハルが息を飲む。ハルがオレの手首を離した。じりじりと指先に血が通いはじめて、その痛みに息を吸った。視線を巡らせると鬱血しやすいオレの手首はもう紫色になって来ている。
震えて、まだ力の入りきらない手を持ち上げて、唇をこすった。血が筋になって、手首につく。
もう何も見たくない。ハルも、その瞳も。メガネをむしり取ると、脇に投げた。
ぼやけた視界を腕で覆うと、オレは慎重に呼吸して、涙を殺す。震える手がオレの手首に触れる。そして、傷ついた唇を撫でた。
「……おれ、な…に…って…」
苦しげな声が聞こえて、オレは腕をほどいた。
ハルが指先についたオレの血を見て呆然としている。
ハルがゆっくりと頭を抱えて、そして……
狂ったように叫んだ。
獣のような咆哮が空気を震わせる。
ハルがゆらりと立ち上がった。
ガンッ
リビングの壁を力任せに殴り始めた。
何度も叩きつけられた拳が裂けて、壁に血がついてもハルは殴るのをやめない。オレは怖くなって、ふらふらと立ち上がると、ハルの腕をつかんだ。
ハルが手を振り払うと、力の入っていないオレの身体は簡単に吹っ飛んだ。ソファの背もたれに横っ腹をぶつけてうめく。
「った……」
ずるっとそのまま床に座り込む。はっとしたハルが駆け寄って膝をついて、手を伸ばして来た。その手が触れる前に止まって、拳を握ると引っ込んだ。
「もう触れる資格もない」
叫んで潰れた声でハルが疲れたようにつぶやいた。
「…………ここに……居たくないよな?アパート……送っていく?」
出ていけってことか?こんがらがった頭で思う。
オレは無言でリュックを拾って、二階へ向かった。
部屋に入ると、教科書をリュックに詰める。
隙間には着替えを押し込んだ。
「車呼ぶよ」
「いいよ」
「電車、乗るの?」
痴漢された記憶に、ぞくっと背筋が震える。ハルは心配そうな顔をしている。混乱した頭でなんで心配するふりするんだって思う。
オレはリュックを背負った。めちゃくちゃ重い。
オレは息を吸うと言葉を吐き出した。
「今日の件では配慮が足りなくてすいませんでした。自分で帰れますので、大丈夫です。今までお世話になりました」
オレはハルに頭を下げた。
「頼むから……車、呼ばせてくれ」
「大丈夫です。お構いなく」
戸口を塞ぐように立っているハルを見る。
これが見納めかな。
茶色の髪も榛色の目も、もう見れないと思うとめちゃくちゃ切ない。あんなことさせるくらい、誤解させて、傷つけて……オレ、本当にバカだ。
ひょこっとハルに近づく。
触れそうになると腕がひっこんで、もうオレに触るのも嫌なんだなって思った。なのに、ハルはなんだか泣きそうな顔をしてる。言われた通りに出て行くのに、なんでそんな顔をするんだろう。
オレはなんとなく微笑んだ。いつも泣いてばかりいたから、笑った顔を覚えていて欲しかったのかもしれない。口元が笑っただけだけど、今はこれが限界だ。
ハルが鋭く息を飲む。
オレはハルの前を通り抜けると廊下を歩き始めた。少し歩いた所で、リュックが引っ張られて足が止まる。
「……やっぱりダメだ」
ハルの掠れた声が聞こえる。
「ひとりで行かせらんない……家までついて行く」
「大丈夫だよ」
「勝手について行く」
オレは苦笑いして言った。
「出てけって言ってるのに、わけわかんないよ」
歩き出そうとするけど、リュックは動かない。後ろを振り返ったけど、ハルは頭を下げていて表情までは見ることが出来なかった。
「…………言ってない」
「は?」
「出ていけ、なんて、言ってない。乱暴しようとした奴と居たくないだろうと思っただけ」
オレは前を向いた。どきどきしながら言葉を捜す。ちゃんと話せよ、オレ。
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