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再びの金曜日(6)

煮込み料理なんだから失敗なんかあり得ないんだけどな。 やたらと高そうなフライパンで大きめに切った肉を炒めて、やたらと重たい赤い鍋に入れると、水とネギの青い部分と生姜と酢を入れる。本当は酒を入れたいけど、未成年じゃ買えないし。料理酒は量間違うと逆にまずくなるしな。沸騰してあくが出たらすくって、弱火にして、アルミホイルで蓋を作って真ん中に穴を開ける。 iPhoneのタイマーをセットしていると、スマフォが鳴り出した。 ハルだ。 「はい?」 『何してんの?』 ざわざわした音が聞こえる。外かな。 「飯作ってる」 『早くね?』 「煮込む程おいしくなるからさ。勉強しながら時々様子見るだけだから、早めに仕込んだ」 オレは一瞬戸惑って、それから、聞いた。 「どこにいるの? 外?」 オレが誰かに興味を持つなんて。居場所を気にするなんて、びっくりだ。 『駐車場から店に向かうとこ。バイクで来たんだ』 「そっか」 『結構遅くなるから、先に食ってていいから』 「遅くなる?」 『終わるの10時だから、帰るの11時すぎるかも』 「そんぐらいなら待ってるよ」 『……うん』 「うまいかはマジでわかんないからな」 『……うん』 「生返事かよ。切るぞ」 『今、帰りたい』 「は?」 『そんなに長く待たせたくない』 「……うん」 『ごめんな』 「しょうがないから行ったんだろ?ちゃんと帰って来たら話せよな」 ざわざわした音が消える。 階段を登る音がした。 『うん。ちゃんと話すよ』 はあって切なげなため息の音。一瞬の間があって、それから思い切るような声が聞こえる。 『……もう着いたから。行ってくる』 「いってらっしゃい」 『うん』 電話が切れる。 ……なんだろうな。これ。この気持ち。 早くハル、帰って来ないかな。 そんな感じ、なのかな。んで、ちょっと心が痛くて、不安な……そういや、前に母屋に帰るハルを引き留めたいと思った時もこんな感じの気持ちになった。 あ、オレ、寂しいの? そうか……これが寂しいか。 変な感じだ。オレは苦笑いした。 オレは鍋をのぞいて慎重にアクを取ると、iPhoneのタイマーをセットした。それから、ゆっくりとソファーに腰かけると宿題の続きを開いた。 *** 何回目かのタイマーが鳴って立ち上がる。 あとは味付けして煮込んで、卵いれるだけ。 合わせておいた調味料をいれる。 白髪葱とか欲しいかな。 ネギをさくさく切る。 あんま細かくなんないけど、まあないよりはいいだろ。 こういうのはいまいち上手くない。 もう盛り付けてあるサラダの横にラップで包んだネギの小皿を置く。 流石に勉強も飽きた。iPhoneをいじって、音楽を聞いたり、アプリで遊んでいると、玄関のベルが鳴る。 なんでベル? iPhoneで時間を確認すると、まだ八時ちょいすぎだから、ハルじゃないよな? 母屋の人かな?いつもは裏口から来るけど。 一瞬、鍋の火を止めようかと思ったけど、せわしなく鳴るベルに、そのまま玄関に出る。 「はい?」 オレは全然警戒していなかった。敷地は柵に囲まれていて、表門も裏門もロックされている。 カメラで監視されていて、内側の警備員の人に開けて貰わないといけない。 オレが抜け出した時も、たまたま開けっ放しだったから外に出れたけど、普通に出ようとしたら、開けて貰えないか、開けて貰えたとしても記録に残ったんだろう。 だから、オレは扉を開けた。 背の高い男が立っていた。 目を上げて、その形相にぎょっとする。 「片方?」 真っ直ぐな黒い髪の掛かった瞳は、紛れもない憎しみに細くなっていた。 オレがびびって後ろに下がると、片方はドアを押して中に入って来た。 「なんで……お前が、ハルって呼んでんだ?」 ハル、ハルって?そう呼べってそう言われただけだ。『ハルってんの?春樹の前で?』『お前……春樹のド本命なんじゃん』金髪のハルの友達、時任の驚いた顔がぱっと浮かんだ。ハルって呼ぶのはハルとその仲間にとって、何か特別なことなのか。 ブラックジーンズに黒の長袖のシャツの黒づくめの格好がまるで死神みたいに見えた。 またじりっと下がると、片方が嘲るように笑い声をあげる。 「こないだの件で、えらく春樹怒らせて、やっと許して貰えたと思ったら、店辞めるから、おれに後を任せたいだってさ」 靴を履いたままの足で腹を蹴られて吹き飛ぶ。痛みに床に丸まって咳き込んでいる時に、iPhoneを持ったままだと気づいて、震える手で操作した。 履歴からハルの名前を押す。 その時、携帯が蹴られて、床を滑って行った。 「誰に電話してんだ? 春樹か? まだ店にいるんだ、出られるわけないだろ?」 もう一度腹を蹴られて、声にならない悲鳴をあげる。 「春樹はおれたちの王様なんだよ。お前みたいなもやしのもんじゃねえ!」 ぐいっと胸ぐらをつかまれた。 「こんなの嫌だろう?なあ……別れるって言え」 「……やだ」 なんでお前なんかにそんなこと言われなきゃいけないんだ。 痛みに掠れる声で囁くと、殴られてメガネが飛ぶ。 「お前なんかには春樹は、上等すぎんだろうが!貧乏人のアタマいいだけのうらなりが!」 「オレ達がどんな関係だろうと、お前には関係ない」 また拳が飛んでくる。 頭がくらっとして、まともに考えられない。でも、絶対にこいつには従いたくないと思う。 「別れるって言え!!」 背中が持ち上がって何度も叩きつけられる。肺から空気が押し出されて、返事が出来ない。 朦朧とした頭がスローモーションで拳があがって行くのをぼんやりと見た。もう……ダメかな、と思う。 ハル、帰って来ないかな。 恐怖を打ち消すように押し出された願いの言葉。 助けて欲しいわけじゃなかった。 最期に見たいのは、ハルの煌めく斑点のある榛色の瞳だって、それだけで。 「っ! 何やってんだ!!」 どこかで聞いたことのある声。 乱暴にオレの身体の上から片方が引き離される。 荒い息を吐きながら起きあがろうとするけど、ふらついて起きあがれない。 「七重ちゃん!動くな!」 ぐらつく頭をあげると、メガネのないボンヤリとした目で声の方を見る。 一つにまとめた髪と顎の無精髭…… 斉藤さん? ハルと行ったレストランにいた…シェフ。後ろには背の高い黒髪の女の人が立っている。女の人はオレの殴られた顔を見たんだろう、微かな悲鳴をあげた。 「真!あんたなんてこと!」 駆け寄って来た顔はハルによく似ていた。黒いストレートな髪に少しだけ薄い茶色の瞳。上品なスーツ、綺麗に化粧をした顔。いい匂いの香水。ああ、きっとこの人がハルのねえさんだ。挨拶しなくちゃ。起きて、ちゃんと。 起きあがろうともがく俺を押さえると叫んだ。 「動かないで!寝てて」 動くな、動いちゃいけないのか。オレはおとなしく身体の力を抜いた。そうしていてもぐるぐると頭が回っているような気がする。 罵声、怒声、ばたばたといろんな人の足音。動けないオレに毛布がかかって優しい手が身体を返すと、毛布ごと持ち上げられてソファに運ばれる。 「七重ちゃん。なんか作ってた?」 漂ってきた焦げた臭いに斉藤さんが言う。 「角煮……作ってて……」 斉藤さんが火を消しにキッチンに走る。 「…すいません……高そうな鍋だったのに……焦がして……」 失敗した。 火を止めなきゃいけなかったのに。バカだな。オレ。 せっかく作ったのに台無しだ。 プロの料理人にそれを見られるなんて。 すっげえ恥ずかしい。 どこかに電話していたハルの姉さんがこっちを見て言う。 「気にしないで。今ね、お医者さんが来るから」 「あの鍋は大丈夫。洗えば取れるよ」 戻ってきた斉藤さんが言う。 「中……捨てて貰っていいですか?」 「汁が焦げただけだから、捨てることないよ。うまそうに出来てる」 「火を止めようかなって……バカだな……捨てて……鍋洗わないと」 オレは立ちあがろうとして、ハルの姉さんに止められた。 「脳震盪起こしてるかもしれないから、お医者さんが来るまで起きないで。 要、洗ってあげて」 「了解」 「お手数かけて、申し訳ありません」 ぎって感じでハルに似た顔に睨まれる。叱るつもりだった顔がオレの表情を見て緩んだ。苦笑いしながら、ハルの姉さんが言う。 「お手数なんてことないわよ。ね? 要」 「日常だから、全然平気」 要さんがキッチンで鍋を洗っている。後で片付けようとしていたフライパンもついでに片づけてくれてるみたいだ。 玄関のチャイムが鳴る。 オレはびくっとして、反射的に起き上がろうとして、腹の痛みに呻いた。 「お医者さんよ。大丈夫」 ハルの姉さんが言う。 入って来たのは人の良さそうな中年の医者だった。ハルの親父さんの友達だと言う医者は、オレをテキパキと診察していく。 「意識は飛ばなかったんだね?」 「はい」 「今、めまいとか吐き気は?」 「ないです」 「立って、歩いて見せてくれる?」 手伝って貰って立ち上がると、歩き始める。腹が痛くて押さえてしまう。 「様子を見よう。運動は禁止。二~三日は安静にしていて。ものが二重に見えたり、めまいとか吐き気が出たら、すぐに来なさい。顔は冷やした方がいいね。痛み止めを出そう」 オレは痛みに呻きながらソファに腰かけた。 起きているのが難しくて横になるオレに、斉藤さんが手を貸す。 痛みにぼんやりしていると、斉藤さんとハルの姉さんが先生と何か話している。 斉藤さんが近付いて来て尋ねる。 「警察、呼ぶかい?」 警察? どうすればいいんだろう。 理由を聞かれるんだろうとは察しがつく。 男の取り合いですってか? 笑いそうになって、腹の痛みに息を飲む。 「オレは……呼ばなくていいです。でも、土御門さんの家的に問題があるのなら……」 「ちゃんとしといた方がよくないか?」 斉藤さんが顔をしかめる。 「そ、それより、往診代とか…薬代とか…幾らくらいになりますか?」 「家の懇意にしてるお医者さんだから、ただなの。ね? 先生」 横から姉さんが口をはさむ。 上品な色の口紅の唇が先生ににっこりと笑いかける。 「そうだね」 先生は頷いた。 なんとなく嘘なんだと解る。 「申し訳ありません。保険証は二階のリュックに入っていますから、必要だったら……」 「必要なら後で連絡するよ」 「はい……」

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