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再びの金曜日(7)
その時、玄関が開く音がして、風のようにハルが部屋に入って来た。
白いシャツに蝶ネクタイ、黒いベストとスラックス。長くて黒い腰下だけのエプロンをピッタリと巻きつけている。仕立てがいいのか、オーダーなのか、高級感があって圧倒される。
「なな」
ハルが膝をつくと、悲愴な顔で、腫れ上がったオレの顔を見た。
「なんで……こんな」
「それ、店の服?かっこいいな」
微笑って見せようとして、痛みに顔をしかめる。
ハルの顔が激怒で歪む。
「真、どこ?」
ハルがゆらりと立ち上がって、姉さんに噛みつくように言う。
「母屋。おじさんか警察に迎えに来て貰おうと思ってるけど、神無月君は警察は呼びたくないって」
ハルが外に行こうとする。おいって斉藤さんがそんなハルを止めたけど、ハルがその腕を振り払った。オレは立ち上がって止めようとした。急に動きすぎたみたいで、腹の痛みによろめいて膝をつく。
うめき声を聞いたハルが、はっとこっちを振り向いた。
「なな!」
ハルが戻って来て、オレを覗き込む。
「行く…な」
もう限界だ。
ショックを隠して平気なフリをしていた。知らない人に動揺を見せるのが嫌だから。
最期に見たいと思った目を見上げる。わあわあと泣きそうになるのを必死で堪えて囁く。
「……行くな」
側にいて。
言えない言葉を噛み殺す。
怒りでいっぱいのハルの目が揺らぐ。怒りが諦めに、諦めが心配に、心配が愛しさに変わるのをじわじわとこみあげる涙目の間から見た。深いため息がその口から漏れる。
触れる指先に身体を預けた。力を抜いてもたれると、ハルはオレをすくい上げて、ソファに寝かせた。
「わかったから……行かないから、さ。そんな顔しないで」
くしゃって前髪をつかまれて、息を吐く。
立ち上がったハルが、斉藤さんや先生と何か話しはじめた。何度か頷いた後に、ハルの視線が動いてオレを見て言った。
「様子は……俺が一人で見ます。なんかあったら、車呼んで先生んとこ連れて行きますから」
「大丈夫なの?母屋で面倒見た方が……」
「もの凄く人見知りだから、姉さんたちいたらダメだ。手を貸すって言っても、きっと自分でやろうとするから」
斉藤さんがちらりと緊張しきって震えているオレを見て頷いて言う。
「行こう」
斉藤さんが、不満そうなハルの姉さんの背中を押す。振り返ってハルに言った。
「テーブルに角煮盛っておいたから。汁焦げたけど、肉は大丈夫。ちょっと洗って、味をつけ直した。七重ちゃんは捨ててくれったけど、おれは心のこもった料理を捨てるなんて出来ないからさ」
「ありがと」
ハルがつぶやく。
斉藤さんはにやりと笑うと部屋を出て行った。
部屋に静けさが戻って、カチカチと歯が鳴りはじめた。手が震える。無意識にメガネを外そうとして、していないと気がついた。
「なな」
呼ばれて目をあげる。
「触っていい? 痛いかもだけど」
オレは震える手を伸ばした。ハルがその手をつかんでそっと引き寄せる。
身体中痛かったけど、そんなのどうでもいい。
「す、すっげ怖かった」
ソファーでハルの膝の上に横抱きで収まって、カチカチなる歯の間から言葉を押し出した。涙が次から次へと流れ落ちる。
「うん」
「で……電話、ハルとつながった?そ、それで斉藤さんが来た?」
「俺、電話来たら出るって言ったよね? 怒鳴り声が聞こえたから、姉さんに電話して、そしたら要さんが一緒だったから頼んだんだ」
腫れていない頬にキスされる。
「あいつ、どうして、どうやって……」
「親戚だから、顔パスだったんだ。こないだ、ななと揉めたから、ななをここに連れて来た時、通さないように言って置いたんだけど……指示がちゃんと伝わってなくて、俺の忘れ物取りに来たって入ったらしい。
店で……さ、俺、辞めたいって話したんだ。成績落ちたから勉強に集中したいって。ななのことは言わなかったんだけど……
後を真に頼みたいって言ったら、真がななのこと持ち出して。たらしこまれてんだろって言われてさ。
そしたら珍しく秀吉が切れて……ななは何も知らなかったって言ってさ。
嘘ついてんじゃねえって……揉みあいになって、真が出てったんだ。まさか……ななのとこ行くなんて思ってなくて」
「ハルって呼ぶのが許せないって」
「他のやつには呼ばせたことないんだ。そう呼ばれたらやめてくれって言っててさ。少女趣味なんだけど……本当に好きな人にだけ、特別な呼び方でって、そう思ってた。なな以外に……そう呼んで欲しいって思った人はいない」
「おれたちの王様なのにって。オレみたいなもやしのものじゃないって。オレには上等過ぎるって」
ハルの身体が震えた。抱く指先に力が入って、燃えるような視線で目の前がいっぱいになる。
「上等って、なんだ。同じ人間だろ。あいつは何も解ってない。
焦がれて……ずっと求めてた。欲しくて、仕方がなくて。だけど、遠くで見てるしかなくて、でもそれじゃ嫌で、やっと……やっと気がついて貰えて、それだけだってラッキーなのに。何か間違いなのかな……好きになって貰えた。ななが俺を上等な人間にしてくれたんだ。ななが好きになってくれたからなんだよ。
王様は最初から暇つぶしのつもりだった。ちゃんとそう言ってたんだ。ななが好きすぎて、無茶苦茶しそうだったから。気を散らすものが欲しかったんだ。
あのね。俺、店やってたんだ。
猫喫茶ってあるじゃん。お客さんが猫見ながらお茶飲むっての。あれの男子版やってたんだ。男の子見ながらお茶すんの。オレはそこで王様って設定で、王子がいっぱいいて、それを見ながらお客さんはお茶すんの。
空いてる店を親父に借りてさ。話したら親父も要さんも面白いって。経営の勉強になるだろって。
金髪の、あいつは石好きな王子で天然石のブレス作ったり、シルバーアクセのオーダー受けたりしてた。他にもゲーム好きで攻略手伝ってくれる王子とか、ピアノ弾く王子とか、設定があってさ。みんなそれぞれ店で自由にしてるってコンセプトで、うまくいってたし、割と楽しかったんだ。
でも、ななが手に入って、もうそっちは終わったと思ったよ。もう遊んでる暇はないって。もうさ、一年半もムダにしてるんだ。もうムダにしたくなかった。
みんなが店はやめたくないって言うから、真に引き継ぐつもりだったんだ。あいつなりに友達とか仲間とか大事にしてると思って、そんなに俺だけに執着してると思ってなくて…………ごめん」
別にハルを責めているわけじゃないのに。もうやめなきゃいけないと思うのに、痛めつけられた恐怖に怯える心が言葉を押し出す。
「わ、別れろって言われて、やだって言ったんだ。そ、そしたら殴られて。も、ダメかなって。死ぬかもって、怖くて。そしたら、ハルに逢いたくなった。ハルの目を見たら、きっと怖くなくなるから……って」
ハルが息を吸い込んだ。声が震えている。
「ごめ……やっぱり……置いていくんじゃなかった」
背中を撫でられて、痛みに息を飲む。
「背中もか」
頷くと、ハルが囁く。
「ほんと、ごめん」
オレは頭を振った。
「ちゃんと……助けてくれた」
そうだ、助けてくれたんだ。ハルが頭を振る。
「もしかしたら、間に合わなかったかもしれない」
ぶるっとハルが震える。震える手が腫れていない頬に触れた。
「きっと生きて行けない」
肩口に埋まった顔、オレはハルの髪を優しく撫でた。オレを失うのを子供の様に怖がるハルの側で、オレの怖さは消えて行く。
「オレ、大丈夫だよ」
肩に頭を乗せたまま、ハルがこっちを見る。
「大丈夫だ」
小さく微笑んでハルにキスをする。
「見せてくれないか?」
ハルが掠れた声で言う。
見ない方がいい。きっとショックを受ける。
開きかけた口を遮って、ハルが言う。
「あいつが何をしたのか────正確に知りたいんだ」
強い光をたたえた目がオレを捉える。断ればきっと無理やりにでも見て、それで自分を責めるんだろう。
「わかった」
ハルに手を取られてゆっくりと立ち上がる。Tシャツを震える手が持ち上げて、見えて来たものに鋭く息をする。
「オレは痣が出来やすいから。ひどく見えるだけだ」
赤と青のまじった腹をさする。ハルは手をつかんでどけてじっと見ていた。
背中に回って、そっと指で背中をなぞる。自分じゃ見れないけど、なぞった範囲から、かなり広い範囲が打ち身を起こしていると分かる。
「肘もだ」
ハルはつぶやいた。
黙ったままTシャツを着せてくれる。
ハルはオレを寝かせると、ふらりとキッチンに立った。氷を袋に入れて、更にジップロックの袋に入れて持って来た。
「顔、冷やして。今、それくるむタオル持って来るから」
ハルがふらふらと二階に上がって行く。
バンって扉が閉まる大きな音がしてびくっとした。そのままどんどんと大きな音がする。何かの割れる音。踏みならされる足音。何してるんだよ。いたたまれなくなって、身体をソファーからずらしてみたけど、ずきんと痛んだ身体に動きが止る。そんなことをしているうちに、音が止まった。
ハルがタオルを持って戻って来た。エプロンとベストがなくなっている。シャツのボタンが何個か外れて、すそが出しっ放しだ。
普通のハルに普通の笑顔。
だけど、一筋、頬が切れて血が滴れている。
「血、出てる」
「あ~慌てて、転んだんだ」
微笑みながら拳で頬を拭う。血がびっと頬に筋をつけた。ジップロックをタオルでくるんで頬に当ててくれる。
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