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再びの金曜日(8)

なに、してたの。どうしたの。 言いたいけど、ハルの優しい、いつもと変わらない微笑みがそれを封じてしまう。 「飯、まだだよな」 「うん……腹減ってないけど」 「痛み止め、胃が荒れるから、少しでも食べてからの方がいい」 「ハルも食べる?」 「うん」 「か、角煮はさ。本当に焦がして失敗したから、捨てて、なんか持って来て貰った方が……」 おどおどと言うオレにきっぱりとハルが言う。 「俺は食べるから」 「火、止めなきゃいけなかったのに、チャイムうるさくて。ばたばたしてて、気がついたら焦げてた。失敗したんだ……そんなん、食べるな」 言いながら泣きそうになる自分が情けない。ハルはキッチンテーブルに歩いて行くと、斉藤さんがもりつけた角煮をひょいとつまむ。 「うまいよ。ちょっと味濃くなったかな?ちょっと焦げ臭いけど、香ばしい程度」 ハルは皿を持って帰ってくる。 斉藤さんが手を加えてくれたのか、そんなに酷く焦げてない。 「食べてみ?」 恐る恐る一つつまんでみる。いつも作るのと同じ味がした。ちょっと味は濃いし、汁気はなくて、ちょっと焦げくさいけど……でも、食べれないわけじゃない。飲み込もうとして、殴られた頬の内側が切れていて痛む。 「さ、斉藤さんが手を加えてくれたからだよ」 「要さんは余計な事はしないよ。あのさ、俺はこれ好きだし、また食べたい。今度は一緒に作ろう」 「……うん」 「生卵とか平気だよな?」 「大丈夫だけど」 ハルがキッチンで何かし始める。 「そういや、冷蔵庫にサラダあるよ」 声をかけると頷く。 サラダとネギを取り出して刻んでいる。 あっという間に皿にもられた角煮の丼が出てくる。 生卵をまぶしたご飯に細かく刻んだレタス、角煮、ネギがふってあって、角煮に入れようとして入れそこなった黄身のとろけたゆで卵が添えてある。 「うわ。すげ……」 オレはびっくりしてテーブルの上の皿を見つめた。 「口ん中、切れてるだろ?さっき痛そうだった」 冷蔵庫からお茶を取り出して、ハルが戻って来る。 「気づいてたのか」 頷いて、冷たいお茶を差し出す。 俺は飲んで顔をしかめた。 「痛いか?」 「ん」 「少しでいいから食え」 ソファに座るのを手伝って貰って、大人しく差し出されたスプーンを咥える。おいしい。でも食べる度にずきんとしみる。三回目を噛んでオレは首を振った。 「も……いいや」 お茶をすすっていると、ハルが痛み止めと水を持って来た。飲んで横になってほっとする。氷を頬に当てられた。 「吐き気とかめまいは?」 「大丈夫。ハルも食えよ」 ハルはその場であぐらをかくと、残った丼を食いはじめる。 オレは手を延ばしてハルの頬の傷に触れた。 「なに……やったんだよ」 「ちょっと暴れた」 「すげえ音した」 「予備の部屋はしばらく使えないな」 話をそらすようにスプーンを丼に差し込んで言う。 「これ、めっちゃうまいよ」 「焦がしたけどな」 「今回のは失敗に入らないだろ?」 「そうかな」 「おつかい頼まれて、自転車に轢かれて卵割れたって、おつかい失敗じゃないだろ?」 「なんだそのたとえ。そもそもハルは、おつかいなんかしたことないだろ」 笑って、腹が痛くてうめく。 「ごめん」 ハルが頭を撫でる。俺はその手に顔をこすりつけて囁いた。 「ちゃんと、食えよ」 ハルが飯の続きを食っているのを見ているうちに、痛みと緊張が少しずつ引いていく。眠くなって、あくびをした。食べ終わったハルがそれに気づいて言う。 「上、行こう」 オレは頷いて立ち上がろうとした。それをハルが止めて抱き上げる。 「歩けるって」 「いいから」 「重いだろ」 抱く腕に力がこもる。 「お願いだから……頼ってくれ」 そう言われて、オレは大人しくしていることにした。 二階に上がると予備の部屋のドアは閉まっていた。気になったけど、見せて貰えない気がした。 「ななは今日は風呂ダメだって」 ベッドに降ろしながらハルがそう言った。 「うん。眠い。薬効いてんのかな……」 「眠いなら寝て」 オレはうとうとしていた。うとうと眠ると黒い拳が顔面に迫って来て、大きな声が出る。起き上がろうともがいて、腹が痛くて呻く。 「やだ、やめろ! ハルっ……ハル!」 涙声で叫ぶとぎゅっと手を握られる。 「居るよ」 目を開けると、ベッドサイドの明かりついていて、ハルの目がオレを見ていた。少し赤い目が、ずっと起きてたよって言っている。 涙の伝う頬をハルの唇がなぞる。均整の取れた上半身が動いてベッドに身を起こす。何も身に着けていないハルの半身が灯りに照らされて、白く輝きを放った。 「オレは誰?」 物憂げな声が耳に響く。 「ハル」 「名前は?」 「神無月七重」 「ここはどこ?」 「ハルの家の離れの二階」 「今日は何曜日?」 「金曜日、もう土曜日かな?」 途中で意識がちゃんとしてるか聞かれてるんだと気づく。 「もうすぐ土曜日だ」 ハルが静かにオレを見下ろしている。 じわじわと怖くなる。片方の憎しみに満ちた目、激しくオレを責め立てる声。まるで今起きたことのように恐怖が身体を這い回る。片方はオレを虫ケラみたいに見てた。オレを踏み潰そうしてた。悲鳴が出そうになって、ころりと寝返りを打って身体を丸めると、口を押さえた。 「なな。俺を見て」 うっくと息を吸い込むとガタガタ震えながら、ハルを見る。柔らかくハルが微笑んだ。榛色の目に優しく金色の粒が踊っている。 オレはそれが好きなんだ。誰より、何より好きなのに。 どうして。 「助けるよ。ここに居る」 「オ、オレは、別れない」 しゃくりあげながらオレは叫んだ。支離滅裂なことを言っているとわかったが、止められなかった。 「俺も別れない」 「オレのだ! オレのだって、そう言った!」 「ななのものだ」 「ハルの眼が好きなんだ……髪も……綺麗な顔に、綺麗な身体。オレが流れてるったよな?その血も魂も全部オレのだよな?」 「そうだよ」 「なんで邪魔するんだ。なんで」 「もう邪魔させない」 ハルがオレの頭を撫でる。 心臓が口から出そうなほど激しく動いている。緊張で頭が痛い。 「オレ、おかしくなってんの?……すげえ怖い」 「フラッシュバック起こしてるんだよ。殴られた時に戻ってる」 「も、ダメだって思った。怖くて。でも、助けて欲しいっては思わないんだ。  ただ、ハルに逢いたかった。ハルの目が見たかった。きっと怖くなくなるって、そう思って……」 「見て。今度はちゃんといる」 オレはボロボロ涙を流しながらハルを見た。 揺るぎない瞳がオレを見ている。 大丈夫。助けてくれる。そう言い聞かせるのに、恐怖がもの凄い勢いで心臓を動かしている。 「これって、罰なの?」 早過ぎる心臓で息切れを起こしながら尋ねた。 「罰って?」 「オレなんかのものにしちゃいけなかったんじゃないの?」 オレの言いたい事に気付いたハルの顔が怒りに歪む。 「ななのものだ」 「だって……だってさ。ハルは王様なんだろ?  金持ちで、家柄も良くて、カッコいいし、大人だし。みんながハルのこと好きなんだ。だからオレなんかじゃダメなんだ。なのに、オレ、なんも考えなかった。ハルに好きって言われて、嬉しくなって、それで、好きになっちゃって……それで」 「やめろ」 「だから、これは、罰なんだ」 オレは耐えきれずにまたうずくまった。腹が痛くてしょうがないが、涙は止まらなかった。 「違う」 ハルがオレを引っ張りあげて抱き寄せる。 心臓が口から出そうなほど激しく動いている。頭が痛い。痛いよ。 オレはボロボロ涙を流しながらハルを見た。 ハルが怯えた顔で俺を見下ろしていた。 「きっと……オレじゃ、だめなんだ」 早過ぎる心臓で息切れを起こしながらオレは囁いた。 「やめてくれ。お願いだ」 「オレ……」 「なな、俺を捨てるな」 「でも」 「じゃあ、土御門春樹を捨てよう?ハルはなながいればいい。一緒にどっか行こ?誰にも見つからない所を探そう」 泣き出しそうな顔でハルが言う。 「そんなのダメだ」 オレは頭を激しく振った。 「俺がだめなんだよ。さっき言ったよな?ななに何かあったら生きて行けないって。一緒じゃなきゃ嫌だ」 動揺したハルの何の配慮もないキスが落ちて来る。震える指が、乱暴にねじこまれる舌がハルの怯えた心をオレに伝える。 唇が離れて、そっと頬を挟まれる。目を開けると、ハルの眼を見詰めた。 「俺を捨てるな」 涙がこぼれる。 ハルの目からも涙がこぼれた。 「なな、聞いて」 涙声のハルが優しく言う。 「俺はななを愛してる。ななが初めてハルって呼んだ時に、俺はななのものになったんだ。それはね、これからもずっと変わらない。  ななが俺を裏切っても、嫌いになっても、離れ離れになっても、どうなっても、俺はななのものだよ。だから、ななが俺をいらなくなっても、俺はななのものだ」 「ハル……」 「だから、いらないなんて言わないで。側にいてくれるだけで、ななは俺を幸せにしてくれる。本当にそうなんだ。笑っていても、泣いていても、俺を憎んでいたって、いないよりはきっと、全然幸せなんだ」 「いいの?オレ、何も持ってない……なんにも」 ハルがため息をつく。 「うん。何も持ってなくても、俺は、ななが好きだ」 ハルが囁いて、ぎゅっと抱きしめる。腕が震えている。 「好きでいて。そしたら俺が二人でいる方法を考えるよ」 「うん」 「ななもいい?俺が土御門春樹じゃなくても。なんにもないハルでも。それでも側にいてくれる?」 「そうだったらいいのに」 オレは呟いた。本当にそうならいいのに。そうしたら、何も考えず二人でいられるのに。 ハルがオレの顔を覗き込んで微笑む。 「愛してるよ。なな」 「うん」 痛いようなドキドキは止まっていた。身体があちこち痛い。 ハルが優しくオレを横たえた。離さないという様に抱き寄せられて、苦しかった息が少しづつ抜けていく。 ハルがオレを見ている。宝物だよっていうように。 オレもそんな風に見ているのかな?だったらいいなと思う。 心臓の音が普通になる。痛いような緊張が緩んでものすごく眠い。 見ていたいのに、ハルを見ていられなくなる。 「ねむい」 「うん……寝て?」 優しい声でハルが言って、キスをした。キスをされるとオレの目は閉じてしまって、もう開けることは出来なかった。 優しい指先が痛くないように背中をなぞる。ため息をつきながら、オレは眠りに滑り込んでいった。 神のいない夏─完─

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