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【番外編】土御門春樹の懊悩
【1】懊悩 「懊悩はおうのう。思い悩むこと」
今日も微笑ってる。
蕁麻姫と番犬が。
廊下で立ち話をしながら、A組の教室をさり気なく伺う。
高橋が何か言って、神無月が仕方がないなあと言うように微笑む。
きっちり畳んだプリントを神無月が差し出すと高橋が両手を合わせて拝んでいる。
「七重、マジ天使」
声が聞こえて、ぎりっと奥歯を噛む。
お前の天使じゃない。
神無月七重に一目惚れしてから、もう一年以上経ってる。
なんとか近づこうとしたけど、失敗してばかりだ。
文化祭で喫茶をやるって話で行ってみたけど、裏方をしているみたいで会えなかったし、休み時間にはどこかに消えてしまった。
後夜祭に一縷の望みをかけたけど、後夜祭には来ていないと言われた。
特待クラスへの編入も経済的な理由がないからと認められなかった。
神無月はとにかく教室から出ない。教室の窓際の席でいつも何かを読むか、書いている。
「あれは趣味なんだろうな」
自称情報通、仕事仲間でもある内藤彰良が、俺の視線に気づいて言った。
趣味なんだろう。しかも、他のものには興味がないと来ている。
生徒会も風紀委員も委員会も。
クラブも同好会も。
「申し訳ありません。成績が下がると学校をやめないといけないので」
生真面目な顔つきで頭を下げられると、皆引き下がってしまう。
そして世界を遮断するように、勉強という繭の向こうに消えてしまう。
その内側に高橋が立っているのが苛立たしくてしょうがない。
一年の二学期くらいに、奴が席替えでもないのに神無月の前の席に座り始めた時、どういうつもりなのか聞きにいかないでいるのに必死だった。
蕁麻姫の番犬とあだ名がついても、本人はどこ吹く風といった風情で神無月にじゃれ続けていた。
迷惑そうだった神無月が、笑うようになったのはいつからだったか。羨ましさに頭がおかしくなりそうだった。
焦っていると思う。
諦めようと何度も思った。
でも、その度に一度だけ交わした言葉が、向けられた微笑みが浮かんで心を焦がす。
花が咲くように微笑った。
それだけで、神無月七重は俺の世界の中心になってしまった。
いくら諦める理由を思い浮かべても、それを上回る愛しさがすべてを消してしまう。
土御門の家の血なのかとも思う。このちょっと変わった茶色の目や髪の毛はハーフだった祖母方から受け継いだものだ。
祖母自体は黒髪黒目で見た目は日本人だったみたいだけど、浮いた存在だったのは確かで、華族の血筋で当時から富豪だった祖父の相手としては、全く認められなかった。
「私は生粋のロマンチストなんだ」軽々とそう言って祖父は祖母の手を取って家を捨てたらしい。その後、いろんな事があり結局は家に戻ったらしいが、唯一の条件は祖母を受け入れる事だったと聞いた。
子供の頃、今は亡き祖父に頭をなでられて、
「お前は私に似ているから、きっと大恋愛をするんだろうな」
と微笑まれたのを覚えている。
確かに子供の頃から、好きな人には特別な名前で呼んで欲しいとか、祖父のように誰かに会うのだろうと信じていた俺は、ロマンチストなんだろう。
だが、運命が神無月七重の様な存在を俺に振るなんて。男であるというだけでハードルが高いのに、難攻不落という言葉がぴったりで近づくことすら困難だ。
それでも、諦められない。
諦めたくない。
俺は神無月七重の前に立たなければならない。
手遅れになる前に。
神無月が高橋にテスト前に勉強を教えていた。
そこから思いついた方法はとても褒められる方法じゃなかった。
家庭教師を理由に家に連れ込むなんて。
卑怯としか思えない方法に気持ちが暗くなる。それしか方法がなかったとしても、これほど大切な人を罠にはめるような真似をする自分に嫌気がさした。
いっそまっすぐ告白してしまおうか……
それも何度も考えた。
好きだと言えなくても、頭のいい神無月に惹かれて、友達になりたいと言えたらどんなにいいだろう。
でも、観察する神無月はとても臆病だった。知らない人が近づくと途方に暮れた表情をする。好意的だとやんわりと、悪意がある者は丁寧に神無月の殻の外に放り出される。
成功の望みは薄そうだ。
やはり時間が必要だ。
神無月が俺に気づいて、慣れるまでの時間が。
【2】図書室
夏休みが近づく。
店の連中にも親にも、それとなく成績が下がったので真面目に勉強したいと臭わせておく。
肝心の神無月は学校が終わると速攻で家に帰ってしまう。
一人暮らしだから、家事を自分でしないといけないという理由かららしいが、彰良が言うには「あれは、本気で人嫌いなんだろうな」ということらしい。
店に出ようと秀吉や彰良と玄関で待ち合わせしていた。
下駄箱でふと神無月の外履きの靴があると気がついて、鼓動が速くなる。
「俺、ちょっと忘れ物」
校内をうろついて神無月を探す。
その間に秀吉に電話して、
「女の子に告られそうだから、先行ってて」
と言ってみる。
沈黙の後、彰良が出る。
オレは心の中で舌打ちした。
秀吉なら素直に先に行ってくれるかもしれないが、彰良はそう簡単な奴じゃない。
「買い出しがあるんだから、三秒でお断りしてすぐ来い」
「三秒なんかでお断りしたら、かわいそうじゃん?」
冗談めかして言ってみるが、彰良は皮肉っぽい笑い声を立てると、冷たく言い放った。
「お前、本命がいるだろうが。どうせ振るんだからさっさとしろよ」
追いかけてるのはその本命なんだよ。
言いたくなるのを堪えて視線を巡らせた。
見上げた図書室に人の陰が見える。
────神無月だ。
そんな遠くで、チラッとでも、俺は神無月を見つけてしまう。
「邪魔したら殺す」
通話を切ると、マナーモードにする。
大きく息を吐いて、図書室を目指した。
開いたままの扉を開いて図書室の中に入ると、誰もいないカウンターを横目に、本棚を抜けて、机の並ぶ窓際を目指して静かに歩く。
めちゃくちゃドキドキする。
神無月は窓からの陽射しの下にいた。
真っ黒な髪に光が映えて後光がさしている様に見える。
華奢な身体、ダークチョコレート色の瞳。
黙っていたら女の子にしか見えないだろう。
珍しくメガネを外していて、筆箱の隣に置かれていた。
今日貰った課外のプリントを広げている。
机に肘をついて、前髪を握って真剣な表情で見ていた。
俺は引き寄せられる様に近づいた。
机に手をつくと、神無月の顔を覗き込む。
うつむいた頭から、シャンプーの匂いがして頭がくらっとする。
────このままキスできたらどんなにいいだろう。
心のままに好きだと言えたら。
「神無月さん?」
呼びかけると、ぱっと目があがって、焦点の合わない溶けたチョコレート色の瞳が俺を見た。
引き寄せてキスしない為には、自制心を総動員しなければならない。
「ひっ!」
ばたばたと手が動いて、神無月が銀縁のメガネを拾ってかける。
動揺しすぎの神無月に笑いが込み上げた。
「酷いなあ」
笑いながら椅子を引いて腰掛ける。
「つ、つちみかどくん?」
小さな動揺しきった声が俺を呼んで、肌が粟立つ。
名前を覚えていてくれた。
それだけのことが、すごく嬉しい。
微笑みながら頬ずえすると、目の前の神無月をじっと見詰めた。
頬を赤らめて恥ずかしそうにこっちを見ている神無月は、めちゃくちゃ可愛い。
告白しろ。
友達でもいいじゃないか。
失敗したら?
いや、成功するわけがない。
遠くからじゃなく、間近で神無月を見ることが出来る喜び。それを一秒でも延ばすことが出来るなら俺は……
「神無月さんさあ。
俺に勉強教えてくんない?」
気がついたら言葉が口から飛び出していた。気狂いめ。自分を罵りながらも、もう後には引けない事に喜びを感じる。
「はあ?」
びっくりして見開かれた目に困惑の表情が浮かぶ。何を考えているのか、いろんな表情が浮かんでは消えて、考えがまとまったのか、あうあうと唇が動く。
断るつもりだ。直感的に判断する。
胃の底が冷える。
そうはさせない。逃がしてたまるか。
目を閉じて決心する。
神無月を捕まえる。
どんなことをしても。
目を開いて、営業用の微笑みを浮かべる。
手をひらひらさせて、気安さをアピールしながら
「このあいだのテスト、散々でさあ」
髪をくしゃくしゃにして苦笑いをする。
神無月はもぐもぐと引き受けない為の言い訳をする。
敬語ではないのが救いだ。
神無月は人見知りをすると敬語になる。ほぼ初対面の俺に敬語を使わないのは、何かしらの親しみを感じているのだと信じたい。
しかし、やんわりと断ろうとする姿に、苛立ちがこみ上げて巧く笑えない。
しっかりしろよ。
誘惑するんだ。
「神無月さんに頼んでるんだけどなあ。前にクラスの奴に教えてたじゃん?」
ぴくんと神無月が顔をあげて、首を傾げる。
「高橋のこと? あいつはクラスでも下の方だし、土御門くんは、学年上位じゃん?
オレが教えるってレベルじゃなくね?」
ガードが硬い。ため息が出そうだ。理由が、思わず頷いてしまいそうなくらいもっともなのに腹が立つ。
押せ。
「嫌かな?」
低い声できしる様に言う。
緊張で頭が痛くなりそうだ。
神無月の目が泳いで、しどろもどろに言葉を吐き出す。
「い、嫌ってわけじゃないけど」
勝った。
鋭く息を吸う。
もう、逃がさない。
神無月が頬を赤らめながら一人暮らしは大変だからと逃げを打つ。
「そういうことか」
内心の苛立ちを押し殺して、にっこりと笑ってみせる。
つられて、神無月が微笑んで、息が止まりそうになる。
そのまま抱きしめてキスしてしまいそうだ。
神無月をじっと見ながら、なんでもないフリで罠をかける。
「じゃ、ウチに来れば?」
「は?」
困惑して神無月が固まる。
頭の回転のいい神無月に考える時間を与えてはダメだ。
「ウチならメシの心配もいらないし。部屋も余ってるから。
一人暮らしなら、外泊大丈夫だよね?
ウチに泊まればいいじゃん。
────夏休み中」
神無月が呆気にとられて、目を見開く。
「え?え?お家の人に聞くとかしないとまずいよね?」
その辺の根回しはしてあるよ。
とは言えない。まだ了解は取っていないが、学校にそこらの家庭教師より頭のいい奴がいて、最近仲良くしているから勉強を見て貰えるかもしれないと言ってある。
「ウチ、放任だしな。
忙しくて、家、あんまいないし。
学年トップの神無月さんなら全然OK」
うーんと視線があがって下がる。眉をひそめて、何か考え込んでいる。
嫌がっている様ではない。
もう一息なのか?
「バイト代も出すよ」
ぴょこんと頭があがる。
ぱっと顔が明るくなって、えって感じで俺を見る。
正直な反応に顔が綻ぶ。
神無月が苦学生だと知っていた。
臨時収入は嬉しいだろうと思う。
そんな自分を恥じてか、視線が下がって、遠慮がちに聞いてくる。
「なんか……迷惑じゃない?」
落ちた。
めちゃくちゃに心臓が動く。
「いや」
きっぱりと言いながら、純粋な喜びが身体を駆け巡るのを感じた。
そして、自分がどれだけ神無月を求めていたか改めて思い知る。
俺のものだ。
そうしてみせる。
神無月を見詰めながら手を差し出す。
「よろしく。」
おずおずと軽く触れて来た手は温かかった。
みっともなく手が震える。
離れて行くのが怖くて、しっかりとその手を握った。
温かい手がびくっと跳ねる。
「ハル」
無意識に言ってどきりとする。
「え?」
不思議そうにチョコレート色の瞳が開く。
俺、何やってんだ?
とっさに言い訳をひねり出す。
「土御門家に来るのに、土御門くんはおかしいじゃん?春樹だから、ハル。そう呼べよ」
神無月の頬に鮮やかに色が登る。
「え、え?なんか馴れ馴れしくない??」
おどおどと頬を赤らめて視線をさまよわせる姿に、理性の糸の切れる音がする。
オレは立ち上がって、神無月を引き寄せた。
よろりとよろめきながら腕の中に転がり込む華奢な身体。
ほんの少しかがめば、唇が触れる距離。
…………近い。
メガネの奥のダークチョコレート色の目が驚きに見開かれている。
微かに開いた唇。
呼んで欲しい。その唇で。
オレは震える声で懇願した。
「呼べよ」
見つめあったままの数秒。焦げつくように欲望が高まる。
神無月の唇が誘うように震える。
「は、ハル?」
柔らかい声が俺を呼んで、恥ずかしそうに目を伏せる。
ドンと心臓に何か叩きつけられたみたいに身体が震える。
短い息が漏れて、くらっとめまいがした。
神無月の俺を呼ぶ声が、焼き印を押したように身体に食い込む。
異変を感じて、神無月が目をあげる。
不安そうな瞳に抱きしめてしまいそうになって、手を離した。
神無月はそのまま椅子に座り込んだ。
俺はもう完全に神無月の虜だ。
一秒ごとに確信する。
そして、それに喜びと興奮を感じている。
狂ったように動く心臓に静まれと命じながら、俺は横を向いて、髪をくしゃくしゃにしながら、悪態をついた。
何か喋れと思うけど、動揺しすぎて何も思いつかない。
もう一度、声が聞きたい。
いや、何度でも。
はっと思いついた。
「ケータイ。
教えて?メルアド」
「あ、ごめ。オレ、ケータイ持ってない。
PCのアドなら…………」
一瞬、嘘をつかれたのかと思う。
今時携帯持ってない高校生なんていないだろ。
「マジかよ」
ため息をつきながら、神無月を見ると、ものすごく申し訳なさそうな表情を浮かべる。
ちょっと寂しそうな表情が『欲しいんだけどね』と言っているような気がした。
「ご、ごめ」
小さい声が恥ずかしそうに言う。
そんな顔させたいわけじゃない。
「いいよ。でも、約束したからな」
「え?」
「カテキョ」
俺を見る視線が泳いで、まだ迷っていると告げている。
断わられるのかと身構えた。
「ああ、うん。でも、あんま役に立たないと思うんだけど」
力が抜けて、倒れそうになる。
誰かの一言で、こんなに動揺するなんて。
これ以上ここにいるのは危険だ。
神無月が引き受けてくれたのは、多分奇跡だ。
奇跡がいつまでも続くとは思えない。
俺は手をひらひらと振ると振り向かずに廊下に出た。
「…っしゃ!」
階段を降りる途中で握った拳を後ろに引いてガッツポーズをする。
その場で踊り出したい気持ちを堪えて、玄関でぶらついている秀吉達の処へ急ぐ。
しっかり神無月を捕まえておかなければ。
出来れば傷つけない様に。
優しく。
と同時に確信する。
どんなに傷をつけても、もう離すことなど出来ないだろう。
少しでも可能性があるなら、もしかして完全に嫌われても……
そう考えると自分が嫌になる。
俺は頭を降った。
可能性がある方に賭けるんだ。
まず、神無月を喜ばせよう。
携帯をもう一台手に入れるには、母さんか姉さんどっちが説得し易いだろう。
俺は秀吉達と合流しながら頭を巡らせた。
土御門春樹の懊悩ー完ー
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