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第109話 間一髪

 ……え?  翔多が怪訝に思い、ソロソロと目を開けようとしたとき、鋭い声が穏やかなラウンジの空気を切り裂いた。 「翔多っ!」  それは、浩貴が自分を呼ぶ声だった。  びっくりして声がしたエントランスのほうを見ると、浩貴が息を切らして翔多と今里のほうへ走ってくるのが見えた。 「浩貴?」  浩貴は翔多が見たことがないような険しく怒りに満ちた表情をしていた。  すぐ前の席で今里が小さく舌打ちをする。  ……それからの展開は、翔多にはなにがなんだかわけがわからずじまいで、まるでテレビドラマの撮影現場にでも放り込まれたような感覚だった。  浩貴は、翔多と今里のテーブルまで来ると、その勢いのまま今里を拳で殴った。  他のテーブルで、『キャー』と悲鳴が上がる。  その場で呆気にとられたままの翔多は、わー、ほんとドラマみたい……などと余所事のように思っていた。  再び浩貴に殴られ吹っ飛ぶ今里を見て、……ドラマだと、今里くんは隣のテーブルへ倒れ込んで、派手な音を立ててグラスやお皿が割れて……。  しかしそういう展開にはならなかった。  ラウンジはテーブルとテーブルのあいだをかなりゆったりと広めにとってあり、敷かれているカーペットも毛足の長いフカフカのものだったので、今里は音もなくカーペットの上へ倒れ込んだだけだった。  浩貴に力任せに殴られたせいで、口が切れたのか血が滲んでいる。 「……浩貴、いったい何事……?」  茫然と呟く翔多。  だが、先に口を開いたのは浩貴ではなく、今里のほうだった。  彼はフラフラと立ち上がりながら、言った。 「……ってえな。なんだよ、浩貴。なに一人で熱くなってるんだよ。ちょっと翔多くんにお別れのキスをしようとしただけじゃんかよ」  は? お別れの、キス? じゃ、じゃあさっき、近くに今里くんの吐息みたいなものを感じたのは……。  愕然とする翔多に構うことなく、今里は笑いを含んだような口調で話し続ける。

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