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第146話 彼の涙
もう先生は帰ってしまったのか、保健室は無人だった。
浩貴は一番奥のベッドに翔多を寝かせ、カーテンを閉める。
「翔多……」
いまだ目を覚まさない翔多の頬の上に、浩貴の涙がポタッと落ちた。次から次へとあふれ出すのは、激しい怒りと自責の涙。
今里の野郎は翔多に触れまくりやがった……手でも唇でも……。
浩貴があの場所へ行くのがもう少し遅れていたら、今里は醜い欲望のままに翔多を……。
そんなふうに考えると怒りは勿論だが、激しい恐怖をも感じた。
翔多が傷つけられる。
それは浩貴にとって、自分に刃が向けられることよりはるかに恐ろしいことだ。
体がカタカタと震え、涙がとまらなかった。
浩貴の瞳から溢れ出る大粒の涙が、翔多の頬へ落ち、濡らしていく。
「……ん……」
頬に落ちてくる水滴を受け、翔多が小さく身じろいだ。
「……翔多……?」
まぶたがかすかに動き、ゆっくりと開こうとしている。
「翔多……!」
浩貴は慌てて涙を拭うと、恋人の顔を覗き込んだ。
少しずつ露わになっていく宝石のような綺麗な瞳。翔多の黒目がちの大きな瞳が、ぼんやりと浩貴を見つめた。
「……浩、貴……、泣いてる……の?」
翔多はまだ意識がはっきりとしていないのだろう。それでも浩貴の頬を濡らしている涙には気づいたようで、半分寝ぼけたような声で、聞いてきた。
「泣いてなんかないよ。それより翔多、大丈夫か? 気分は?」
「……え? オレは別になんともない……やっぱり、浩貴泣いてる……! どうしたの!?」
だんだん意識の焦点が合ってきたのか、翔多が戸惑った顔をしている。
「だ、誰かにいじめられたのっ?」
そう言うと、翔多は勢いよく上体を起こそうとした。が、次の瞬間には彼の体はぐらりと傾いた。
「翔多っ!!」
とっさに浩貴が支えてやらなければ、ベッドから落っこちていたところだ。
「浩貴ー? なにこれ? 目がグルングルンするー」
再び、ベッドに沈み込みながら、翔多が聞いてくる。
「……自転車置き場でオレを待っていたとき、なにがあったか、憶えてるか?」
浩貴は逆に彼に聞き返した。
「え? ……あれ? そういえば浩貴を待っていたとこで、記憶が途切れてる。うー、なんで?」
「貧血でも起こしたんじゃないか。……オレが自転車置き場に行ったらおまえ倒れてたんだよ」
今里に襲われたことを知れば、ショックを受けるだろうから、黙っておいた。ただ、めまいが治らないようなら医者に診せたほうがいいかもしれない。
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