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第7話

 僕は「あの日」以来の安眠をすることができた。すぐ寝付けたし、悪い夢も見ない。ただ青龍様の気配があるだけで安心して眠ることができた。  調査については、青龍様は僕が妊婦誘拐事件に関係ないと信じてくれていたが、最初に約束したこともあったし、十一人目の妊婦が目の前で攫われていったことが僕の中で負い目になっていた。何よりこの事件が「気になる」ので引き続き手伝うと言った。何が「気になる」のかは僕にも言語化できないのだが、ある種の宿命めいたものを感じたのだ。しかし僕は「気になる」内容がどうもうまく言語化できず、とりあえず「乗りかかった船だから僕も手伝いますよ」と言っておいた。  朝のニュースでは昨日のうちに十二人目の被害者は出ていないとのことだったので安堵する。  昨日職務質問にあったことから僕は場所を変えた方が良いと判断しA病院、青龍様がB病院に変更し、ほかは昨日と同じ場所を担当することとなった。  今日はあいにくの天気で関東全域は強い雨と風に見舞われるとのことだったので傘を持って調査に出かけた。今日の服装は紺色のジャケットにグレーのカットソー、同じく紺色のズボンで昨日とは大違いだ。さらにカラーコンタクトレンズを四苦八苦しながら入れると瞳の色が「あの日」以前の僕に戻って少し嬉しくなる。  これで職務質問を受けることもなさそうだと青龍様は笑った。今日の洋服以外にも一週間分のコーディネートができるよう凛が服を選んでくれたらしく、寝室にはたくさんの紙袋が運ばれていた。僕はせっかく新調してもらった洋服が雨に濡れるのが憂鬱だったが調査のためだと割り切って出かけた。  池袋にあるA病院の周りは閑静な住宅街で駅前の賑々しさが嘘のように静かだった。僕は駅からA病院の間のルートを 脇道も含め調査していく。雨がザアザアと降っているので人通りは少ない。しかしちらほら妊婦の姿は確認できた。しばらく通り沿いを歩いていると大雨にもかかわらず子供たちが傘を振り回して駆けていく姿を目にする。そうか、今日は土曜日だったか。コンビニバイトをするようになってからどうも曜日の感覚がなくなってきている。表通りから路地裏まで何周も歩いたが何かの気配がすることはなかった。  今日も成果がなかった。家に帰る頃には身体中ずぶ濡れで、五月とはいえ体が冷え切っていたので夕飯の前にお風呂に入ることにした。綜にその旨を伝え、風呂場へ行く。冷たく濡れた重い洋服を脱ぎ、風呂へ入る。身体を洗い、湯船に浸かる。川のせせらぎが心地よい。このまま使っていたら眠りそうだな、上がらなくては……と思いながらも体が動かせない。そのままうとうととしていると、 「風呂に入りながら寝ると溺れるぞ」  といいながら青龍様が入ってきた。 「あっあっえっとすぐ出ます!」 「別に良い」  そう言いながら髪の毛を洗い始める。青龍様の身体つきはほどよく筋肉がついており、まるで美しい彫像のようだ。長い髪の毛を器用に洗っている。髪の毛を流すと、ひとつにまとめて、体を洗い始めた。美しい曲線を泡が滑り落ちていく。うっとりとそれを眺めているとのぼせそうになってきた。 「あのっお先に失礼しま――」  既にのぼせていたらしく少しフラっときたのを青龍様が支えてくれた。肌と肌が触れ合って心臓が飛び出しそうになる。 「あ、ありがとうございます」  青龍様にそのまま抱き寄せられ口づけされ、ますますドキドキしてしまった。まるで、恋人のような。 「……ぅ……」  そのまま腰を撫でられると思わず腰が引けてしまうほど僕の中心が反応してしまった。 「……ぁ、ちょ、っと……!ほほ本当にお先に失礼します!!」  恥ずかしすぎて僕は浴室から逃げ出した。  風呂から出て食事をしていると、珍しく青龍様が同席した。青龍様はお茶だけ飲んでいて僕が夕飯を食べるところをぼんやりと見ている。僕はさっきの浴室での件があるので落ち着かない思いをしながらも、黙々と夕飯を食べた。綜と青龍様は本質的には同じだと言うから、実質僕は青龍様の手料理を食べている訳で……そう思うと余計に緊張してきた。今日の夕飯は鯖の味噌煮、金平牛蒡、わかめの味噌汁だ。どれも美味しくて、特に鯖の味噌煮は生姜が効いていてとても美味しいし体が温まる。一日雨の中にいたから体が冷えているだろうという配慮だろうか。 「うまいか?」 「はい、美味しいです……」 「……」  沈黙が重い。お互いの身体は知っているのにこれまでほとんど青龍様とは会話がなかったせいだと思う。綜は青龍様と本質的に同じだと言うけれど、十二歳ぐらいの男の子と目の前の立派な成人男性に同じテンションで話しかけると言う方が無理な話だ。 「お前、○○村の出身だそうだな」 「そうです」 「その村の……なんというか……郷土料理のようなものはないのか?」 「郷土料理ですか?特に浮かびませんが山菜をよく食べていたのと、やはり海の幸でしょうか」 「ふむ、わかった」  もしかして僕の故郷の料理を作ってくれるつもりなのだろうか?青龍様の思惑を計りかねている僕に、青龍様が言う。 「もし、郷里のことを思い出すのが辛ければ作らないが、そうでなければ今度山菜を使った天ぷらなど作ろうと思うが、平気か?」  どうやら青龍様なりに僕のことを気遣ってくれているらしい。しかも僕が過去を思い出して辛くないかまで慮ってくれている。 「平気です、ぜひお願いします」  そう言うと青龍様は僅かに微笑んだような気がした。  夕飯を食べてから食器をさげ、綜にお礼を言ってから、ふと思い立った。 「糸を織れる人って知り合いにいたりしないかな?」 「糸、ですか……そうですね……」 「綜が思い当たらなければ自分で探すけど」 「どう言った糸ですか?」 「うーんと……大きい蚕が売ってた糸。絹糸だと思うんだけど」 「ああ!あのお店に行かれたのですね。それは高価だったでしょう?」  どうやら綜には店に心当たりがあったらしい。 「そうなんだよ、四神様に関する情報を集めていて、情報料として買ったつもりなんだけど思いの外高くて。ボタン糸にしては多すぎるし、誰か織ってくれる人が居ればストールとかにできると思うんだけど」 「そうでしたか!それでは蜘蛛の店を紹介しましょう。地図を書きますね。池袋にあるので明日の調査の時に寄ってみたらいかがですか?」  綜が丁寧に地図を書いてくれる。これなら迷わずに辿り着けそうだ。 「そうするよ、ありがとう」 「いえいえ。蚕の糸屋は店が開いていることが少なく、その糸は貴重なんですよ」  店主が気まぐれで開いたり閉めたりしているらしいです、と綜は言った。 「そうだったんだ。たまたま開いていたから入ったけどすごいお店だったんだね」 「蜘蛛の店はそんなことはないのでいつでも開いていますから、安心してくださいね」  僕は綜に地図を書いてもらい、明日の調査のついでに蜘蛛の店へ寄ってみる事にした。  調査三日目。今朝のニュースでも新たな妊婦連続誘拐事件は起きていないようだった。犯行グループは犯行を終えてしまったのだろうか?しかし十一人は何か中途半端な数字に思えて、まだ犯行があるのではないかと感じている。  今日は昨日と異なり快晴だ。出かける準備をする。今日はオリーブグリーンのジャケットにブルーのシャツ、そしてデニムパンツを履いた。忘れずに蚕の店で購入した絹糸を持って出かける。まずは池袋駅から病院までの道を調査し、脇道の調査の時についでに蜘蛛の店に寄った。  蜘蛛の店は「織物屋」と書いてあり、清潔そうなシンプルな白い建物だった。これは霊力のない人にはどのように見えているのだろうか?と思いながら店に入る。  店内も白を基調とした清潔そうな空間で、壁には織物がたくさん吊るされている。また棚にもたくさんの織物が陳列されていた。「オーダー承ります」の文字もおしゃれな文体で描かれている。店員は大きな蜘蛛でカウンターに立っており「いらっしゃいませ」と愛想良く挨拶をしてくれた。 「すみません、織っていただきたい糸があるんですが」 「はい、拝見してよろしいでしょうか?」 「こちらです」  と言って蚕の店で買った糸を差し出すと、蜘蛛の店員は驚いた様子だった。 「おお、これは蚕の店の糸ですね!久しくみていませんでした。こちらをどのようなものに織りますか?」  やはり蚕の店の糸は珍しいらしい。蜘蛛の店員の表情はこちらから読めないが、明らかに喜んでいるように感じた。 「男性用のストールにできますかね?」 「この量の糸であれば十分に作ることができますよ」 「少し大柄の男性なのですが……」 「大丈夫です。お届け先はいかがいたしましょう?」 「青龍様のお宅なのですが、届けられますでしょうか?」  僕の自宅にしようかと思ったが最近はほとんど帰っていないので、青龍様の家に届けてもらったほうが確実だ。 「はあ、青龍様ですか。これは畏れ多いですが家の方がご承知でしたらお伺いできます」 「家のものには伝えておきますので、よろしくお願いいたします。料金はいくらになりますか?」 「そうですね……二万円ほどになりますでしょうか。サイズはこちらにお任せでよろしいでしょうか?」 「それでお願いいたします。……それと伺いたいことがあるのですが」  ついでに何か情報を持っていないか聞いておく。 「なんでしょう?」 「ここ一ヶ月、この辺りを不審な白いバンが通り過ぎることはありませんでしたか?」 「いえ、そのようなものは見ておりませんね……例の妊婦連続誘拐事件のことでしょうか」 「そうです。何か情報があればと思いまして」 「そうですね……おそらく人払の呪がかかっていて人間様はその現場を見られないでしょうが……噂では羊の刻(午後一時〜午後三時)の間に犯行が行われているらしく、向かう先は新宿方面だと妖の間ではもっぱらの噂です」  妖の中でも噂になっているらしい。しかも向かう先の情報まで得られた。これは僥倖だ。 「そうですか!それが知れただけでも有り難いです。ありがとうございます」 「それでは、ストールの完成は三日後になりますので、その時にお持ちいたします」  連絡先と僕の氏名と、念のために綜の名前を蜘蛛の店員に伝え、店を後にした。  先程の蜘蛛の店で得られた情報をスマートフォンで青龍様、綜、凛、咲へ送信しておく。犯行の時間帯が絞られ、行き先もわかったので調査はだいぶ進んだと言えるのではないだろうか。  その後しばらく池袋の街を探索した。そろそろ犯行時刻である午後一時に差し掛かる。しかし街の様子に変化はない。微々たる霊力で探ってみたが特に呪の気配はしなかった。それを午後三時まで繰り返し行う。やはり呪いの気配はない。  今日は成果がなさそうだな、そう思った瞬間、通りから人の気配が消えた。この感覚、まさに前回の犯行グループが犯行を行ったときに感じたものと同じだ。僕自身の存在を気取られないように電柱の影に隠れると、二十メートル先くらいにお腹の大きい妊婦が歩いていた。その後ろをバンがゆっくりと走り女性に近づいている。女性はバンの存在に気付いていないようだ。思わず「逃げて」と叫んでしまいそうになるが、ここで彼らに気づかれたら終わりだ。グッと堪えて彼らが犯行に及ぶかどうか見守る。 「きゃーっ」  バンの扉が開くと同時に素早く中の人物が女性を車に引き込んだ。決定的瞬間。僕は青龍様の式神を飛ばした。そのまま息を潜めていると雑踏が戻り、何事もなかったかのような雰囲気になった。人の意識を逸らす呪いが切れたらしい。僕は緊張していたらしく拳を握りしめ、歯を食いしばっていた。緊張の糸が切れると足の力が抜けそうになる。その瞬間、青龍様の力で綜達とともに一箇所に集められた。 「どうやら今回もお前が遭遇したようだな……」 「そ、そうですね。でも式神を飛ばしたので間違いなく彼らのアジトはわかると思います」 「まあ、そうだな。式はまだ移動中のようだ。式が止まったらそこへいく」 「わかりました」 「觀月、お前は自宅で待機していろ。何かあったら連絡する」 と青龍様が行った。しかし僕は「気になる」モノの正体をどうしても見極めたかったので、 「いえ、僕も行きます」 と答えた。 「しかし……」 「行かせてください。何かが「気になる」のです……この事件」 「わかった。お前には護衛のために綜をつける。何かあったらすぐに逃げるように」 「すみません、ありがとうございます」  式神をギリギリ飛ばせる程度の能力しか使えない僕は足手纏いだが、何がどうして「気になる」のか確かめるためにも現場には行かなくてはならない。  しばらく待っていると青龍様が「式が止まった……新宿にある廃病院のようだ」と告げた。僕らは青龍様の力ですぐにその場に移動する。  現在は夕刻に差し掛かっているが、五月のこの時間はまだそこまで暗くなっていない。しかし黄昏時の廃病院は少し不気味で、さらにそこには禍々しい呪の気配が僕にもわかるくらい濃い。生ぬるい風が吹き、背筋が寒くなる。この中で一体、何が行われているのか、想像するだけで吐きそうだ。 「行くぞ」 「はい」  綜が僕の傍にピッタリとくっつき「大丈夫です、全力でお守り致しますので」と微笑んだ。十二歳ぐらいにしか見えない綜だが、その微笑みは実に頼もしかった。  病院内は病室の壁という壁が取り払われ、ベッドが円周状に並び、その上に攫われたと思われる妊婦たちが寝かされていた。医療上の措置はされているようで特に苦しんでいる様子はないが、異様な光景である。 「この方達が攫われた妊婦のようですね」  ベッドの数は十二床で、全てが埋まっている。ベッドの中心には筆で何かの術式のようなものが書かれている。病院の空気は寒々としており、五月だというのにコートが必要に感じるほどだ。  妊婦たちは突然現れた僕らを一瞥すると助けを乞うでもなく、目線を逸らした。その表情からは諦めが窺われる。かといってここで「助けに来ました」と言っても混乱を生むし、犯人に気取られかねないので黙っていることにした。何より青龍様が薄い唇に人差し指をあてて合図したので大声を出すことを控えたのもある。  部屋の中央の術式に向かって空気が澱んでいるのを感じる。まるで空間が歪む寸前を見ているようだ。青龍様は術式を調べている。僕も青龍様と共に術式を調べようとそちらを見てみると、  ……これは……!  そこにあった術式は女陰の力をもってして「入ったものを出す」術式であった。。これは相当な禁術にあたる。  女陰の性質は「入れて出す」又は「入ったものを出す」だ。その入れたもの、又は入ったものについて女陰は同一に押し出す。この「出す」呪力の故に女陰は出すための呪物となりうる。そして女陰のその「押し出す力」が最高に発揮されるのは――出産である。これはおそらく封印されたものを押し出す……開放するための術だと思われる。  普通の封印ならば妊婦一人で事足りるはずであるが、十二人もの妊婦を使うとなると相当強固な封印を解くつもりらしい。術式は完成しており、あとはこの中央に封印されたモノを置くことで発動するようだ。  そうやって術を調べていると、奥から何者かが現れた。僕と横にいる綜は警戒する体制を取る。 「青龍よ、よくここに辿り着いたわ」  暗闇の中現れたのは着物を着て黒髪を結いた吊り目の美人と数人の男たちだ。 「蛇神よ、やはりお前だったのか」 「亀神様の封印を解くのだ、貴様に封じられた、な。  我々は二柱で一つ」  玄武様は蛇神様と亀神様の集合体であるが、数十年前の争いの時に青龍様に分割され亀神様は封印されていた。そのため玄武様として復活するために蛇神様が今回妊婦を集めて「入れたものを出す」力で亀神様を復活させようとしているらしい。 「蛇神よ、しかし其方らは理由なく私に争いを仕掛けた。封印を解けばまた争うことは不可避だ。よってこの術を実行させるわけにはいかない」 「理由なく?貴様は我々を取り込み、より強大な存在になろうとしておったではないか!」  僕は青龍様を見る。たしかに一見して冷たく見えるが優しい神様だ。本当にそんなことをするだろうか? 「……四神は方位に対応した神、自分の領分を守りはすれど、他者を取り込み強くなろうとは考えたこともない!」  青龍様らしい意見だ。そもそも取り込むつもりなら蛇神様と亀神様を分離させた時点で片方ずつ取り込んでいるだろう。 「戯言を……」  蛇神様とその周りの男たちが戦闘態勢に入る。もはや彼女等に僕達の言葉は届かない。  すると蛇神様が突然手をかざし一瞬にして空中へ明るい光と共に攻撃の術式の陣が現れた。 「第一そんな話は私の部下たちも知らぬ。一体誰がそんなことを……」  青龍様はそんな相手に対しても冷静に対応している。あくまで説得でこの場を収めるつもりだ。半分になった玄武様を抑えることなど容易いだろうにそれはしないらしい。 「僕だよ」  すっ、と全くなんの気配もなく天井に男が現れた。青龍様も蛇神様もまるで気づかなかったことから相当の手練だと思われる。それは「あの日」の恐怖の感触に似ていた。僕の中にいる「奴」がざわめき始める。 「貴様、何者だ?」  青龍様は状況を素早く判断し、空中に手をかざし防御の術式の陣を描きながら聞いた。 「何者か?觀月くんの家族のようなものかな」  褐色の肌、長髪の黒髪のしなやかな体をしたスーツを着た人物がそこにはいた。顔ははっきりとは見えないが見知らぬ人物だとわかる。しかしどこか既視感がある。何よりも響く声が僕の中の何かと共鳴するのだ。 「家族……?僕の家族は……死んだ」 「そう、君を庇って家族全員が死んだ!君は結局見つかり、村中の人間を生贄にして我々の副王を喰らったんだよ!  僕の名前はニャルラトホテプ。君の中にいる可哀想なヨグ=ソトースは我々の副王だ」  嘲るような笑い声がする。ニャルラトホテプ……無貌の神……僕の中の「奴」つまり「ヨグ=ソトース」の記憶が蘇ってくる。現世の神話体系に存在しない、残酷で酔狂な、最も恐ろしい神。 まずい、ニャルラトホテプは何をするかわからない危険な存在だ。 僕は隣にいる青龍様に小声で「とにかく奴はまずい存在なので僕に霊力を分けてほしい」と小声で伝えた。青龍様がうなずくと少しずつ僕の中に春の気配のようなあたたかなものが漲ってくる。 これで霊力に余裕ができたので空中に手をかざし神道の防御の術式を素早く描画する。大した防御にはならないけれどないよりはマシだ。それにこの術式はあくまで目晦ましである。 同時にニャルラトホテプにばれない様に防御の術式の裏で僕の中の「奴」が識る本命の「門の創造」の術式を描画し始める。この術式は冒涜的な言語で記された術式で、対象を異次元空間に飛ばす門を開く。 「そんなチャチな防御の術式ではどうにもならないとわかっているだろう?我が副王よ」 「さて蛇神、玄武の復活の準備をしてくれてたみたいだけど、我が副王を喰らったこいつがここにいるせっかくの機会だ。この術はこっちで使わせてもらうよ……!」 ニャルラトホテプは複数の冒涜的な言葉で書かれた魔法陣を描画する。標的は僕と周りの妊婦たちだ。彼女たちは揃って苦しみ出す。出産を早めるために「時空門」を開き各々の出産日時まで時間を早めたらしい。僕が攻撃を受け流せたとしても、妊婦たちによる「入ったものを出す」力で僕の中のヨグ=ソトースを引き摺り出すつもりのようだ。 「さあ、我が副王よ、矮小なる人間の器より解放されたまえ!」 「さ、させるか……!」  蛇神はすさまじい執念で玄武が封印されていると思しき壷を術式の中央に置き、術を発動させた。妊婦の「入れたものを出す」力を先に使っていた。「バチン!」という音とともにあちこちから妊婦の叫び声と赤子の鳴き声が聞こえてくる。その様相は阿鼻叫喚だ。血の匂いがあたり一面に立ち込める。 すると陣の中心から老人が現れた。老人の表情は見えない。 「亀神様……翁様……お会いしとうございました」  すぐさま蛇神様が老人の元へ駆け寄る。 「これは……久しいな蛇神。そして青龍よ――」  恐ろしいほどの冷気が当たりを包み込む。漆黒と冬の象徴、玄武様がついに目覚めた。 「貴殿から受けた雪辱、今晴らそうぞ……!」 玄武様は完全にお怒りになっている。それを見ながらせせら笑うニャルラトホテプ。青龍様は僕に力を分けているので全力ではない、青龍様が僕に力を分け与えるのを止めれば全力で玄武様と戦えるが、そうすれば僕の中身の制御ができなくなり、ニャルラトホテプはそれを見逃さないだろう。そもそもニャルラトホテプは制御できない力を持つ僕なんかより、そして青龍様や玄武様よりも強大な力の持ち主で、どうあったってこちらが不利だ。僕の門の創造の魔法陣の完成にはまだ時間がかかりそうだし、絶体絶命だ。 「げ、玄武様、恐れながら申し上げます……」 「何だこの忌々しい気配を纏った小僧は?」  ギラリ、と老人の眼力とは思えないほどの迫力で僕を見据えてくる。 「私、〇〇村で祓い屋をしておりました相馬 觀月と申します。今はこのように体内に怪物を宿しておりますが……」 「祓い屋の小僧が私に物を申すとな?」 「はい、僭越ではございますが……。青龍様は玄武様を取り込もうなどとは一切お考えになっておりません。現在も、過去においてもです。玄武様の方が私より青龍様のことをご存知だと思います。青龍様はそのようなお考えを持つ方ではないのです」 「然し私は確かに聞いたのだ。青龍が我を取り込もうとしていると……誰だったか……誰だ?……なぜ思い出せぬ!?」 「それは……あの男ではありませんか?」  ニャルラトホテプの方を指差す。なんでもいい、門の創造の時間さえ稼げれば! 「はて、見覚えのあるような、ないような……」  亀神さまは首をかしげる。 「そいつは無貌の神、あらゆる姿形をとります……!」 「……確かに気配には覚えがあるのう、ここまで禍々しくはなかったが……」  そこで蛇神様が話し出す。 「翁様、あの方はこの術……妊婦を使い、翁様を復活させ、今一度青龍と戦うことができるようにしてくださった方です」 「何、妊婦を使った術式だと!?それは禁術であるぞ!なぜそのようなことをしたのだ」 「禁術……きんじゅつ……翁様、私は一体何を……」  蛇神様は愕然とした表情になる。どうやら蛇神様も亀神様もニャルラトホテプに何か呪文をかけられていたらしい。それが僕の言葉で解け始めている。 「ニャルラトホテプとやら、貴様の真の目的はいったい何だったのだ?」  亀神様が尋ねる。 「……副王の復活に失敗しちゃったよ。 まあいい。本来の目的に戻るまでさ。 さあ玄武、青龍いまこそ雌雄を決しなよ。じゃないと青龍が玄武を喰らうってさ」 「貴様……一体」  青龍様が防御の術式の他に攻撃の術式を準備するため、空中に手をかざす。亀神様も手をかざし攻撃の術式を描いた……ニャルラトホテプに向かって。 「あーもう、仕方ない面倒だけど僕が殺すしかないかあ。 東京は、日本は終わりだ――」  ニャルラトホテプは何の動作もなしに魔法陣を出現させ、一瞬にして青龍様と亀神様に攻撃をする。 ――させるか!  僕は綜を振り切って青龍様のところに走り、青龍様をかばった。防御の術式があったため致命傷は避けられたがそれでも腹が割け、周りが焼け焦げる。その傷口から這い出す触手を抑えるのは難しく、意識を手放しかけた瞬間、青龍様から分けられていた霊力が増え、まるで春の温かい日差しの中にいるような感覚になる。僕の方はなんとか傷口に触手を押し込み、「奴」を抑えられそうだ。 一方亀神様は蛇神様が庇ったらしいが、生身で攻撃を食らった蛇神様は胴体がほぼ二つに分かれ、内臓が散乱している。……これはもうだめかもしれない。 「蛇神よ……なんということを……」  亀神様がすぐさま手をかざし回復の術式を描く。 「なんと美しい自己犠牲だろうねえ。でももう一回は耐えられえるかなあ?」  ニャルラトホテプがのんびりとした調子で言う。亀神様と蛇神様を唆し、蛇神様が亀神様を思う心を利用したニャルラトホテプを許すわけにはいかない! 「ニャルラトホテプ、お前をこの世界から飛ばしてやる」  そう言った瞬間、ニャルラトホテプは堰を切ったように笑い出した。 「よく言うねえ、霊力の殆どをヨグ=ソトースを抑えこむことに使っている君が、ヨグ=ソトースとして僕を飛ばす? ……冗談はよしてよ」   ちょうどその瞬間、僕の門の創造の魔法陣の発動が終わった。 「終わりなのはそっちだ、ニャルラトホテプ!異次元へと行くがいい!!」  ニャルラトホテプの足元に暗黒へ通ずる冒涜的な門が出現する。その門は出現した瞬間からニャルラトホテプを飲み込みつつある。ニャルラトホテプは異次元への門を愛おしそうに撫でながら言った。 「なんと……觀月くんは「門の創造」を発動させることができるんだね。 さすがはトップレベルの術者だけのことはあって我々の術式の理解も早い。今日はそれに免じてこの門を通ってあげよう。然し全ての空間に同時に存在する我が副王、いずれまた別の空間でも相まみえることになるよ……またね、ヨグ=ソトース」  そう言って蕩けるように微笑みながらニャルラトホテプは門の向こうへ自ら去っていった。  僕は青龍様から分け与えられた力を使って、体の穿たれた部分を修復し、「奴」を再び体内に押し込めることができた。同時に火傷も治ったので洋服以外は無傷の状態だ。  しかし蛇神様は亀神様の回復の術式でも回復できるか怪しい状態だ。すると青龍様が言った。 「綜、お前の命で蛇神を救うのだ」 「承知いたしました青龍様。そうしましたら今しばらくお暇をいただきます。またお会いしましょう」 綜は……綜達は青龍様の余剰な霊力だと前に聞いたことがある。要は青龍様の余剰な霊力で蛇神様を治療するということなのだろう。でも、そうすると綜の命は……。 「觀月様、そう悲しい顔をしないでください。しばらくの間お暇するだけです。觀月様にもまた会えると信じております。では――」  綜は蛇神様の方に向かうとすっと春霞のような存在になり、それが蛇神を癒していく。 「青龍、かたじけない」 「いえ、あのままでは玄武という存在が危うくなり、貴方を封印していた時以上に四神のバランスが崩れてしまいます。それに霊力は時間をかければまた溜まります。」 「……それにしても何者だ……あいつは……」  玄武様が呻くように呟く。 「ニャルラトホテプ、無貌の神と呼ばれています。僕の中にいる怪物ヨグ=ソトースを副王と呼んでいましたから、そういうことなんでしょう……」  蛇神の女性は亀神の老人に平身低頭しながら言った。 「翁様、私は奴に言われるがまま妊婦たちを攫いました……全ては翁様とお会いしたいがため……ですが奴が去った今ならわかります、私は禁術に手を染めてしまいました。申し訳ありません」 「……」  沈黙に赤子の鳴き声と妊婦達の呼吸音だけが響いている。 「觀月、とりあえずお前は救急車を呼べ、残りの話は我が家でしよう。玄武、よいな?」  そうだ、赤子と妊婦達はすぐにでも病院に搬送しなければならない。かなり出血している者もいる。 「ああ……まるで悪い夢から覚めたようだ」  玄武様がそう独りごちた。  僕は救急車を呼んだ。廃墟探索をしていたら偶然妊婦たちを発見したということにしたが、僕の服に焼け焦げたような穴があることも相まって、救急車と共に駆けつけた警察官は訝しんでいた。然し僕がやったという証拠もなく、十二人の妊婦の回復を待ってから調査をするらしい。ちなみに妊婦、胎児は共に全員無事だとのことだったので一安心した。ざわざわと野次馬が集まる中、妊婦連続誘拐事件は幕を閉じたのだった。  警察の取り調べを受け終わった頃にはすっかり深夜になっていた。青龍様にあらかじめ言われていた場所にいくと、ふっとまた青龍様の家に着いていた。  凛が出迎えてくれる。 「お疲れ様でした。取り調べというものはずいぶん時間がかかるのですね……体もお辛いでしょうが、玄武様達とのお話合いに参加していただきたく思います」 「わかりました」  テーブルのある部屋に行くと、青龍様、蛇神様と亀神様、そして見たことのない神らしき存在が六人掛けのテーブルについていた。話をしている様子もなく、沈黙が場を支配している。 「觀月、ここへ座りなさい。皆、こちらが相馬 觀月だ」  皆に僕を紹介してくれた。 「儂等は先刻会っているな、玄武である」  青龍様の右隣に亀神様、その正面に蛇神様が座っている。 「私は朱雀」  青龍様の向かいに座る三十代ほどに見える華やかな女性が手短に挨拶をした。 「僕は白虎だよ、よろしくね」  朱雀様の左隣に座る白虎様は大柄で色の白い男性だ。詰まりここには……四神が揃っている。  四神と同席するなんて緊張したが、拒否するという選択肢はなかったので青龍様を挟んで玄武様の逆隣へ座った。 「お前……相馬 觀月といったか。確かに聞いた名だ。然しお前の村は村ごとなくなった筈。なぜ生きておる」  玄武様が質問してくる。 「それは……僕の中にいる化け物「ヨグ=ソトース」が村に現れ、僕の家族を殺し、僕はこの化け物を世に放ってはいけないと思ったので村人全員の命を生贄にし、ヨグ=ソトースを喰らったからです。  さっきのニャルラトホテプと名乗った者に会って思い出したのですが、どうやらヨグ=ソトースはニャルラトホテプに唆され、僕の村を襲ったようです」 「成る程、そして儂も唆された……のだな」  それについては出まかせだったので謝罪しておく。 「大変申し訳ありません、あれは出まかせ……門の創造という術式を発動させるための時間稼ぎでした」  亀神様は首を横に振る。 「否、儂は確かにあの男に覚えがあった……何を言われたのかは思い出せないが、その後から青龍と戦争しなくては、と強く思った記憶が僅かにある」 「そう、でしたか……」  今度は蛇神様の方がお話になった。 「私はあの男に言われるまま、妊婦の「入ったものを出す」力を利用して翁様を復活させようとしておりました……」 「詰まり、全てはあのニャルラトホテプという奴が暗躍していたということだな……自ら副王と呼ぶ存在を唆したり、四神たる儂まで唆したりするとは一体何者なのだ?」  亀神様が僕に問いただしてきた。正直「僕」は全くわからないが「奴」は多少知っているようだったので説明をする。 「僕にはわかりませんし「奴」つまり「ヨグ=ソトース」もニャルラトホテプについてはよく知らないようです。無貌の神として人神を誑かし、弄ぶ、混沌と狂気の存在としか……」  朱雀が「然し」と話し出す。 「そのニャルラトホテプは門の創造とやらの魔術で異空間へ去ったのだろう?これでもう関わることはない、ということだな?」  それならどんなに良いことか。しかしニャルラトホテプは只者ではないことを「奴」は知っている。 「いえ、奴はあらゆる魔術に通じた存在です。それに……僕の中のヨグ=ソトースは門にして鍵でもあるので、やつとまたどこかで接触するのは避けられないでしょう」 「我々も神として人智を超えた存在だと思っていたが、そのような存在が居るなど……信じられんな……」  玄武様が唸る。確かに現在の神話体系に「存在しない」存在というのは神にとってはより理解し難いものだろう。  しかし事件が解決したのならば僕にとってはどうでも良い。僕が東京に来た目的を果たさなければ。 「とにかく、玄武様と青龍様の諍いはニャルラトホテプの企みだったということで、四神がまた揃いました。そこでお願いなのですが僕の中のヨグ=ソトースを消し去ってくれませんでしょうか?」  これこそ、僕が東京に来た目的である。長い時間がかかったがようやく達成できそうだ。 「ヨグ=ソトースはお前の魂そのものと同化している。それを消滅させるということはお前自身の死を意味するのだ」  青龍様が言う。青龍様は優しいので僕の身を案じてくれている、でも―― 「その点については僕は覚悟しています」 「……それはだめだ」 「何故です?僕一人の命でこの化け物を葬れるなら――」  こんな命、とうに死んだも同然なのだ。化け物と同化しその入れ物になった人間。罪深き命。 「……そうだのう、然しヨグ=ソトースとやらは先刻少し現れただけで恐ろしいほどの霊力を備えておった。よって我らが四神の力を持ってしても消滅させることができるかわからぬ。またそこに力を注ぐことによってこの東京、日本の守護が疎かになってはまたニャルラトホテプのような存在を招き入れかねぬ。すまないが……」 と玄武様が苦々しい顔で答えた。他の四神も硬い表情になる。  東京の守りを疎かにする事はできない、と……。

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