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それから少しして、リュウジが寮へ帰るのを玄関で見送り、春翔 は引き返した廊下の途中、ある部屋の前で足を止めた。玄関から一番近いこの部屋は、ゼンの仕事場、書斎だ。
「ゼンさん、春翔です、少しお時間いいですか」
「ああ、入れ」
静かな声が返り、春翔は襖を開けた。六畳半程の部屋の中には、壁に沿って本棚がびっしりと並び、棚に入りきらなかった本が畳の上に乱雑に積まれていた。春翔が再び正面に視線を戻すと、そこには大きな窓があり、ぽっかりと浮かんだ月が見える。その窓の下に、机に向かうゼンの背中がある。机の上には、今にも崩れ落ちそうな紙の束が山積みになっており、昔の小説家の部屋みたいだと、春翔は思った。
月明かりに照らされた大きな背中、ほこりが舞ってそうな乱雑な部屋なのに、汚いと思えないのが不思議だった。
背中もカッコいいんだな。
まるで映画のワンショットを見ているみたいだった。きっとそれは、ゼンのせいかもしれない。
乱雑な部屋も物語の一部のように、月明かりを浴びるその背中を儚くも美しく引き立てているようで。
思わず春翔が見惚れていると、部屋に入ったきり黙り込んでいる春翔を不思議に思ったのか、ゼンは書き物をしていた手を止め振り返った。
「どうした」
「あ、すみません!」
「謝るな、用があったんだろ?」
「はい、えっと、もう一晩泊めて頂きたくご挨拶に、」
「真斗から話は聞いている、医者が休めと言ってるんだ、ゆっくりしていけばいい」
「あ、ありがとうございます」
「気にするな、ユキなんか毎日ゴロゴロしてるしな」
「ふふ、仲が良いんですね」
「どうだかな」
ゼンは肩を竦め机に向き直った。春翔は緩めた頬を少しだけ引き締める。
「あの、ずっと僕の事を看病してくれていたみたいで、ありがとうございました」
「…いや。…昔、」
そう呟いたが、それ以上の言葉がゼンの口から聞こえる事はなく、改めて振り返った表情は、言葉の続きを振り払うかのような微笑みだった。
「悪かったな、妙な事に巻き込んで。お前さえ良ければ、いくらでもここに居て構わない」
「…はい、ありがとうございます」
「今日はもう遅い、ゆっくり休め。何かあれば遠慮なく声をかけてくれ」
「ありがとうございます…お休みなさい」
頭を下げ、そっと襖を開ける。部屋の外に出て襖を閉める頃には、ゼンはもう机に向かっていて、何かを言いかけた瞳が思い浮かぶと、春翔の胸は少しだけ軋んだ。
その中で、先程のリュウジとユキとの会話を思い出す。
リュウジとユキは、春翔の事を探していたと言った。それは、ゼンが春翔を探していたからだという。つまり、ゼンと春翔は過去に会った事があるというのだが、春翔にそんな記憶はなかった。
「…本当に覚えてない?」
「…すみません、あの、本当に僕とゼンさんは会った事があるんですか?」
「うん、春ちゃん、この町で暮らしてた時期あるでしょ?土手でよく遊んでたみたいなんだよね」
確かに鈴鳴 川のあるこの町は、春翔が八歳まで暮らしていた町だ。しかし、春翔にはゼンと会った覚えがない。そこで思い至ったのは、抜け落ちた記憶の存在だ。ゼンのような少年を、それもよく遊んでいたという友人を、いくら幼い頃とはいえ、簡単に忘れられるだろうか。抜け落ちた妙な記憶の中に、ゼンとの思い出があったとしたら、一体、自分の身に何が起きたのだろう。それすら春翔には分からない。
「覚えてないならいいんだ、ごめんな」
「でも、ユキさん、」
「思い出が、必ずしも良いものとは限らないし、無理に思い出そうとしなくていいよ」
「…何か知ってるんですか、僕に記憶がない理由」
すると、リュウジとユキは再び顔を見合わせた。その様子には、二人の間で何かを探っているようにも見える。春翔は思わず身を乗り出した。
「僕、ずっと妙な記憶があるんです。確かに思い出としてあったように感じるのに、でも何も覚えてない。ごっそりそこだけ抜け落ちてるような。ずっと忘れられないんです、その感覚が。もやもやして気持ち悪くて、怖くて、忘れようと思って、神社や鈴鳴川には近づかなかった。でも、それでもやっぱり変わらず僕の中に残ってるんです。それは、ゼンさんとの記憶に関係あるんでしょうか」
「落ち着け、春 」
ぽん、と肩を叩かれ、春翔はリュウジに促され腰を落ち着けた。
「すみません、」
「謝るなよ、そりゃ自分の知らない事を他人が知ってたら気になるだろうよ。ちゃんと俺達の目的を話さないとな」
「ごめん、春ちゃんを怖がらせようとか、不安にさせようって事はないんだよ。俺達は、ずっとキミを守る為に探してたんだ。それはこれからも変わらない」
「…どういう事ですか」
守る為、とは。戸惑う春翔に、ユキとリュウジは視線を交わし頷くと、再び春翔と向き直った。
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