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穏やかな鈴鳴 川を前に、春翔 は戸惑いの表情でゼンの話を聞いていた。
まさか自分の失った過去に、それだけの事が起きているとは思いもしない。
肩に乗っていた用心棒の小狐が、春翔の頬に顔を擦り寄せ、春翔ははっとした。ゼンを見ると、ゼンは鈴鳴川を見つめたまま。その横顔は、表情こそ崩す事はないが、どこか悲しそうに辛そうに見えて。春翔がゼンに声を掛けると、ゼンはこちらを向いて、僅かに口元を緩めた。その瞳はやはり、涙の匂いがする。
春翔は口を開きかけたが、風がゼンの髪を浚ったので、春翔は言葉を奪われてしまった。ゼンは一つ息を吐くと、続けて口を開いた。
「その後、すぐにユキが来てくれたんだ。驚いて状況も呑み込めていない様子だったが、すぐに妖の世から応援を呼んだり、神社の人間を連れてきたりと動いてくれた」
この頃ユキは、ゼンを探しに人の世へよく来ていた。その際に、神社にも度々顔を出していたので、神社の人達とも既に顔見知りだった。ユキが妖の事を知る面々に事情を話すと、彼らはすぐに川原へ駆けつけてくれて、その中にはまだ若い道影もいた。
彼らはゼンにくっついて回る春翔の事も知っていたらしく、春翔の様子を見て、すぐに救急車を呼んだという。
「今思えば、その時、カゲに取り憑かれたんだろう」
ゼンが目を伏せるので、春翔は黙って自身の体に目を向けた。
「あの時、皆、天狗と共にカゲも逃げたと思っていたが、実際は違った」
「あの、その天狗って…」
「真尋 だ。真尋に俺達はまんまと欺かれていたんだな」
スズナリやゼン達は体に傷を負い、更に意識を失った春翔がいる。ユキも含め、現場に駆けつけた道影達も慌てふためき混乱していた。早く治療をしなくてはいけない、スズナリに関しては特に無理をして動いている状態だったので命が危なかった。その混乱に乗じてカゲが隙をつくのは、容易い事だったのかもしれない。カゲはその名前の通り、影に潜む妖だ。深手を負い、その体が形として保てないとしても、影に身を潜めさえすれば、春翔の元へ向かい取り憑く事が出来た筈。
そして、カゲは春翔の体に身を潜め、体力を回復させていた。
「何故すぐに気づけなかったのか…側に居た筈なのに」
すまなかった、そう頭を下げるゼンに、春翔は慌て顔を上げさせた。
「もうそれについては謝らないで下さい!そういった状況なら仕方ないですよ!」
状況的には仕方のない事、何より皆が満身創痍で戦っていた、その身を挺して助けてくれた。なのに、春翔がどうしてそれを責める事が出来るだろう。
「僕は、あの時ゼンさん達が助けてくれなかったら、ここには居なかったかもしれません。それに、ゼンさんに会いに行ってたのは僕の方ですから」
だからどうか自分を責めないでほしい。その思いで春翔がゼンを見つめれば、ゼンは困った顔をして、申し訳なく眉を下げた。
「その後はどうなったんですか?僕の記憶はその時奪われてしまったんでしょうか」
ゼンにそんな顔をさせたくなくて、春翔が続きを促せば、ゼンはまだどこか躊躇いつつも口を開いた。
春翔は救急で病院に運ばれた。
この頃、まだ真斗 はこの町には居なかったし、妖と人を診れる医者としての勉強に励んでいた事だろう。真斗が勤めてる病院には、妖の存在を知る医師がいる、その病院に運んでいれば、もしかしたらカゲが取り憑いていたのが分かったかもしれない。
真尋が逃げれば、深手を負ったカゲも共にと皆思うだろう。それに加え、こちらも深手を負い皆は戸惑い焦っていた、まさかカゲが側に居たとは思いもせず、春翔もいち早く病院へとの思いから、救急車を呼んだのだろう。
春翔がどこの家の子までは分からなかったので、付き添っていた神社の人間は春翔の通う小学校に連絡し、その後すぐに両親が病院まで駆けつけたという。
その日は入院となり、春翔が目を覚ましたのは翌日だった。
春翔の両親には、まさか妖の騒動に巻き込まれたとはいえず、春翔は足を滑らせて川に落ちたようだと、説明したという。
春翔が退院する時、神社の人達も病院へ顔を出したというが、春翔の反応は普段の様子と違っていた。まるで初対面の人間を相手にするような様子だったという。
「その時既に、カゲに記憶を奪われていたんですね」
「あぁ。だが神社の人々は、きっと怖い思いをしたからだと思ったようだ。カゲが取り憑いてるとは思いもしないだろうし、取り憑いた妖の気配を人間が感じ取れるのは稀な事だ。真斗くらい学んでいたら別だが」
なので、いくら妖の存在を知る神社の人間が春翔の姿を見ても、カゲが取り憑いている事は分からなかった。
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