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神社の人間は、頃合いを見て春翔(はると)に声を掛けられたらと思っていたようだが、それから春翔が神社や川に来る事はなかった。それどころか近所ですれ違っても、春翔からは何も反応はなかったそうだ。 「あれだけ怖い思いをしたのだから、本人が無意識の内に忘れようとしていたのかもしれないし、心を守る為に本当に忘れてしまったのかもしれない、そう思っていたんだ」 ゼンの言葉に、春翔は弾かれたように顔を上げた。 「そんな!僕、カゲが取り憑いてなければ、絶対忘れたりしませんよ!だって、ゼンさん守ってくれたでしょう?それに、カゲが居たって、この間まで、僕ずっとあなたの夢を見てたんです!子供の時、水の中であなたと、キ…」 キスと勢いで言ってしまいそうになり、春翔は慌てて口を閉じた。 そして、現実と夢との矛盾に気づく。ゼンの話だと、川の中で自分は気を失っていた筈だが、夢の中の自分ははっきりと意識があり、姿の変わったゼンに見惚れていた。繰り返し見ている夢なのだから、事実とずれて見える事はあるだろう、しかし、一瞬程しか実際は目に留めていないゼンの姿を、その唇を、何度も繰り返し思い返しているというのは、まして、それが真っ先に思い出したゼンとの記憶だったなんて。 春翔は今更ながら言葉にならず、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。 「この間まで…、という事は、もしかしたら力を取り戻したカゲがお前と俺を引き会わせようとして、記憶の一部を解放したのかもしれないな…どうした?具合でも悪くなったか?」 赤くなって頭を抱えた春翔に、ゼンが心配そうに顔を覗き込むが、春翔は慌てて顔を上げ、その両手を目一杯振って大丈夫だとアピールする。まさか、言えない。多分、幼い自分は、初めて会った時からあなたに恋していただろうなんて、言える筈がない。 ただの人工呼吸に、毎朝胸を高鳴らせて起きていたのが、何よりの証拠のような気がするなんて。 春翔の頭の中に、ゼンと初めて会った時の記憶はない。けれど、自分の事だ、きっとそれが恋なんて気づかないまま、ゼンに想いを寄せていたのではと思う。 夢の中のゼンとは違う、普段のゼンが子供の姿でいたって、それは浮世離れした格好良さを纏っていて、憧れのヒーローのように守ってくれて。 春翔はちら、とゼンを見上げる。心配そうなゼンの瞳と目が合うと、どきりと胸が震える。 苦しいくらいのこの胸が、愛おしさで溢れてる。 記憶があっても無くても関係ない、春翔は何も変わっていない。 どこで会おうと、何があろうと、きっとまたゼンに恋してしまうのだろうと。 「春翔?」 呼びかける声にはっとして、春翔は慌てて背筋を伸ばした。 「ゼ、ゼンさん達は、あの後どうしたんですか?皆さん大丈夫だったんですか…?」 熱くなる胸をどうにかやり過ごそうと、春翔は話を変えた。心配そうなゼンの表情は、少し寂しげに揺れた。 「カゲ達の張った結界のお陰で、周囲にこの騒動が漏れる事はなかった。ユキがこっちで慌ただしく動く中、リュウジも来て、俺達は一旦妖の世に戻った。もう妖狐の国での暴動は沈静化していて、聞けばそれは、やはりカゲが仕向けたようだ。俺を一人にする為に、助けが来ないよう国を混乱させたと。それから三ヶ月、鈴鳴(すずなり)川の境界は閉ざされた」 だから、ゼンは春翔に会いに行けなかった。春翔が退院してからの話も、境界が再び開いた後、神社の人間から聞いた話だった。 「桜千(おうせん)も手負いだったし、俺も体を戻す時間が必要だった。そして、スズナリは…」 揺れる瞳を、吹き上げた風がゼンの髪を浚い覆い尽くす。 唇を噛みしめたその横顔に、春翔は躊躇いつつも草の上に置かれた手を握った。少し大きなゼンの手は控えめに、それでも春翔の手を確かめるように握り直した。 スズナリが息を引き取ったのは、この川原で起きたカゲとの争いから、一月半後の事だった。 妖狐の城の一室で、スズナリはその間、ほとんど眠っているような状態だったが、ゼンの姿を見つけては嬉しそうに笑い、軽口を言ってゼンを困らせたりもした。いつでもそれは、スズナリなりの、ゼンを思っての行動だった。 スズナリはいつだって、ゼンを受け入れてくれた。頼れる兄のような存在だった。最期に握り締めた手の細さに、涙が止まらなかったのをゼンは覚えている。 “ゼン、お前は一人じゃないからな” “好きに生きろよ” “ちゃんと飯食ってるか?” “たまには笑わないと、表情筋なくなるぞ?” “大丈夫だ、ゼン、大丈夫。お前は強いよ、大丈夫だ” “お前は悪くない、だから生きてくれ” “みんなを、頼んだからな” 白のカーテンが風に乗り、白く眩いばかりの朝陽が部屋を、スズナリを照らしていた。美しい白の鱗を持つ、力強い龍の妖、スズナリの為の朝陽だ。 その微笑みが涙で滲み、ゼンはスズナリの手を抱きしめるように握り、彼の最期を看取った。 風が吹いて顔を上げると、ゼンと目が合った。その表情は少しだけ泣き出しそうな微笑みで、春翔は繋がれた手に視線を落とすと、その手にもう片方の手を添え、しっかりと握りしめた。 「一時は後を追おうと思ったんだ、それ程、スズナリの存在は俺の中で大きかった。でも、守ってくれた、生きろと言われたんだ、スズナリの言葉を思い出している内に、お前の顔が浮かんだ」 俯いた頬に手が触れる。春翔が顔を上げると、その表情に涙の滲む、優しく温かな微笑みが浮かんでいた。

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