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蛤の欠伸 2
朝倉さんと初めて出会ったのは自宅近くの市立図書館だった。当時大学の三年生だった私は酷く倦んでいた。気の塞ぐ出来事が続いていて腐りそうだと感じていた。
だから何か高潔なもの、清廉なものに触れたかった。レポートのための資料は専ら大学の図書館で借り受けていたけれど、この時は珍しく詩集が思想書を借りようと思って近所の図書館に出かけたのだ。そこで声をかけてきたのが朝倉さんだった。
人間不信になっていた私は見知らぬ男性に声を掛けられて怯んだ。それにそんなふうに男性に近づかれるのも実は初めてではなかった。背丈が175センチほどある上に別に女性的な訳でもない。普通の愛想のない顔をした男なのに、何故か時々男性に声を掛けられる。
予々 不思議で仕方なかったけれどこの少し前に大学の同級生から「泣かせたくなる男」というありがたくない評価を貰っていた。しらっとして見える私の顔立ちは彼のように嗜虐的な性癖を持つ男にとって魅力的に映るらしかった。
うんざりすると振り返った先で穏やかな印象の顔が優しく微笑んでいた。十センチほど視線を上向けると柔らかな茶色の髪に黒い縁の眼鏡、柔和な顔立ちのなかで一際優しい印象の双眸が私を見ていた。
「詩集ならこれがお勧めです」
朝倉さんがフランス文学の棚から抜いたのは『ランボー詩集』だった。結局私はその本を借り受けた。
それ以来朝倉さんとはちょくちょく会った。大学で中国文学を専攻したという朝倉さんは文学全般に詳しかった。次に読む本のアドバイスだったりもっと他愛のない互いの生活に関する世間話だったり、今となっては内容なんてほとんど覚えていない。
けれど朝倉さんと会った日は不思議と心が落ち着いたのを覚えている。人と交わることでざわついた心持ちが彼と話しているとすっと静かになった。その感覚が心地よくて私は朝倉さんと顔を合わせるのを楽しみにしていた。
けれどある時から会わなくなった。私が、朝倉さんを避けた。
あの時は子供だったなと息をつく。白い息は少しの間残って溶けて消えた。
時計を確認すると約束の十五分前だった。
二月の夜は冷え冷えとしている。凍えるほどの風に身を竦ませながら首元のマフラーを整え直した。
夕方、残業中に電話をかけてきた朝倉さんは周りに気を使うのか控えめな声で場所はどこが都合いいかと訊いてくれた。互いの会社の路線が交わる所でと考えていたら、自宅の最寄駅ではどうかと打診された。
昔、時々会っていた頃はたまたま同じ駅を使う距離に住んでいた。私は朝倉さんと知り合った学生の頃から住んでいるアパートと変わらない。しかし朝倉さんは越した筈だ。
訝っていると、またあの街に戻ったのだと言われた。越したけれど結局数年で戻って前の住居の近くに住んでいるらしい。酔って電車に乗るのも面倒なのでではそこでということになった。
数駅離れると大きな繁華街を持つ駅があるけれど私たちの使うところは少し行くとすぐ住宅街になる。駅前はスーパーや個人の経営する飲食店が幾つかあるだけでひっそりとしている。そんななので態々駅に留まる人も殆んどなく私はひとりぼんやりと朝倉さんを待った。
駅舎の隣に住宅を兼ねた洋菓子屋の店舗がある。そこの庭に見事な梅の木が植っているのを眺めていた。
通勤の度に気になっていた。元々古い日本家屋を一部改装した敷地には石灯籠や躑躅の植え込みなどが残っていて塀の風抜き穴からちらちらと窺うことができる。そのなかでも塀瓦にのし掛かるよう枝を伸ばした梅はこの時期になると白い花を美しく咲かせる。
仄かな甘い匂いが夜風に乗って私のところまで届く。酔ってしまいそうな程艶やかな香りは二月の夜によく似合っていた。
「お待たせしました」
梅の香に染み込むような声が後ろからかかって振り返る。朝倉さんが穏やかな笑顔で立っていた。
「すみません。思ったより会議が長引いてしまって。寒かったでしょう」
そう言ってさり気なく私の背中を押して歩き出す。時間は待ち合わせ通りだった。
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