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蛤の欠伸 3
「何か食べたいものはありますか?」
適当に飲食店が集まっている方に足を向けながら訊かれる。毎日のように通る最寄駅の近くではあるけれどこんな所で飲んだことがないのでどんな店があるのかわからない。任せますと言うと年季の入った暖簾が目立つおでん屋さんに連れて行ってくれた。
朝倉さんは来たことがあるのか空いていたカウンター席に腰掛けると品書きをすっと私の方へ滑らせる。思ったより体が冷えていて受けとった指先が悴んでいた。だからおでんなのだろうかと手書きの品書きを眺めながら感心する。
ただ単に彼の気分がおでんだったのかもしれない。しかし多分違うんだろうなと思えた。
朝倉さんの気遣いはさりげない。された側が気づかないことも多い。頭のいい人だということもあるけれど、何より優しい。
私はしばらくメニューを眺めた末に「大根、がんも、玉子」と注文した。それを聞いていた朝倉さんは「揚げ豆腐、玉子、餅巾着」と続けてオーダーした。
「玉子が被りましたね」
どこか楽しげに朝倉さんが笑う。
「おでんといえば玉子なので」
釣られて笑いながら品書きをホルダーに戻した。
それから飲み物が手元に来るまでどちらも口を開かなかった。朝倉さんがどういうつもりだったのかはわからないけれど、私は彼との距離を測りあぐねていた。五年ぶりに会った十ほど年上の男性とどう接すればいいのか。これが仕事の流れであれば困ることもない。ただ朝倉さんとどんな話をしていいのかわからなかった。
黙ったままでいると先に飲み物が出てきた。朝倉さんは薄めにして貰ったレモン酎ハイ。私は梅酒のお湯割り。朝倉さんほどアルコールに弱くないけれど学生時代に酒で痛い目を見て以来気をつけるようにしている。だから熱でアルコールを飛ばしながらという酒に申し訳ない飲み方をついしてしまう。
「では乾杯」
「乾杯」
グラスとジョッキを軽く合わせて高い音を立てる。
一体何に乾杯なんだろうと思うと可笑しかった。定型文のようなもので大抵意味はないけれどこの場合は数年越しの偶然の再会にといった所だろうか。
温かい梅酒を口に含むと程よい甘味と梅のよい香りが広がる。
「あ、美味しいです」
思わず賛辞を口にすると朝倉さんはこっこりと笑った。
「南高梅を日本酒で漬けたらしいですよ」
「詳しいですね」
「そこに書いてあるので」
指をさされて目を向けると右奥の壁にそんな説明の紙が貼ってあった。へえ、と読み込んでいると、ふふふと朝倉さんが声を立てて笑った。
「なんですか」
「いえ、変わらないなと思っただけです」
あなたはちっとも変わりませんね、と続けられて私は押し黙った。何と返していいかわからなかったからだ。そんなふうに朝倉さんが言うなんて想像もしていなかった。以前顔を合わせていた時の事を口にするなんて、少しも。
恐らく気まずい顔をしたであろう私には構わず朝倉さんはレモン酎ハイを舐めるように飲んだ。胃に物が入っていない状態でアルコールを摂ると酔いやすいので極力しないと言っていた。あれは五年前、会わなくなる少し前だったと思う。
その春からの勤め先と大学の卒業とが殆ど決まっていた私は社会に出るまでの束の間を持て余していた。卒業論文の提出が済んで口頭諮問までの緊張感もあったのだと思う。珍しくお酒でも飲みましょうと朝倉さんを誘っていた。
朝倉さんとは知り合って二年近くになっていた。けれどお酒を飲むようなことはそれまでなかった。彼がアルコールに極端に弱いと聞いていたので避けていた。
誘われた朝倉さんは少し驚いたようだったけれど、すぐにいいですよと返事をくれた。ただあまり飲めませんがと付け加えた顔は恥ずかしそうに笑っていた。私も酒量を控えるように心がけていたので酒類の豊富さよりも料理の美味しそうな店を選んだ。
大学と住まいの間くらいの海鮮が美味しい店で確か朝倉さんは蛤の酒蒸しを食べていた。話した内容なんてもう定かではないのにそんなことだけはよく覚えている。何故ならその後、私は朝倉さんの指に。
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