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蛤の欠伸 4

「どうかしましたか」 耳の近くで声がして私ははっと顔を上げる。気づいたら視線はカウンターの渋い木目に落ちていた。酔いましたか、と心配するように尋ねられて首を振る。 あれから梅酒のお湯割りを飲み干して気に入ったので次は水割りで飲んだ。そしていまは三杯目に注文したウーロンハイをちびちびと飲んでいるところだった。 普段からすると杯を重ねているけれど酒量が過ぎると言うほどではない。 だから首を振って大丈夫ですと言った。しかし私の答えを鵜呑みにしなかった朝倉さんは手早く自分の飲み物を干すと三分の一ほど残った私のグラスをそのままに席を立った。 支払いをすべて出してしまおうとする朝倉さんと少し揉めてから会計を割ってもらった。それでもアルコールを多く飲んだ私の支払いの方が多かっただろうから、店を出て軽く礼を言った。 「楽しいお酒でした」 「はい。私も楽しかったです」 朝倉さんが夜の道を歩きながら言うのにふらふらとついていきながら肯く。自分で思うより酔っているのかもしれない。足取りが定まらず体が左右に揺れる。見かねた朝倉さんが私の肘を持って引いてくれた。 「酔っ払いですね」 「すみません」 引っ張るように連れて行って貰いながら節の高い朝倉さんの指を見下ろす。私の黒いコートの肘を掴んだ朝倉さんの左手。その、薬指。 五年前、最後に居酒屋で会った時そこには真新しい指輪が光っていた。それまでの往来で見当たらなかったそれは朝倉さんの結婚指輪だった。私が指摘すると彼は何でもないことのように先々週に結婚したんです、と言った。 相手は学生時代からの付き合いで互いに三十も越えていい歳なのでと馴れ初めを話す朝倉さんの声を、私はぼんやりと聞いていた。 別に時々会って他愛のない話をする年上の男性が結婚したところでどうとも思わない。恋人がいるのかどうか尋ねたことはなかったけれどこの背の高い穏やかそうな顔立ちの男性ならいてもおかしくはない。自分にはまだ縁遠いことだけれど興味はあるといった顔つきで私は朝倉さんの話を聞いていた。 それから私は彼の連絡に応じなくなった。何となく新婚の彼の時間を潰すのが申し訳なかったから。だから会うのをやめた。 晩冬の夜道を私と歩く朝倉さんの指に指輪はなかった。けれどあれから五年が経つのでもう指輪をしていなくても変ではない。結婚生活が長くなるにつれ指輪をしなくなる男性というのは私の職場にもいる。 だから訊かなかった。聞いたところで何も変わらないと思った。朝倉さんが私のアパートの方に腕を引いて連れて行ってくれるのに大人しく従った。 踏切を越えて駅の反対に出ると辺りは一気に暗く静かになった。比例するように私の酔いも深くなって思考がぼんやりと滲む。 「…蛤」 「え」 「なんでしたっけ、蛤の夢?」 「突然どうしたんですか」 「思い出せなくて、ムズムズするんです」 「もしかして蛤の欠伸ですか?」 「あ、そう。それです」 酔っ払いらしい脈絡のない会話に苦笑しながら朝倉さんがもう一度蛤の欠伸の話をしてくれる。古くから中国では蜃気楼は蛤が作り出すと信じられてきた。蜃気楼の「蜃」という字は大きな蛤の意味で、その巨大な蛤の吐く息が空中に楼閣などの幻を見せると考えられていた。 だから蜃気楼は蛤の欠伸がなせる業なんですね、と朝倉さんは穏やかに締めくくった。 この手の雑学を蓄える朝倉さんは何かの折にひょいっと取り出しては披露してくれた。低く優しい響きの彼の声で語られる少しおかしな話は不思議と耳によく残った。 この話を教えてもらったのは確か朝倉さんが蛤の酒蒸しを食べていた時だ。あの時、私は彼のぴかぴかと光る指輪を眺めながら蜃気楼の話をする朝倉さんこそが蜃気楼みたいだと考えていた。 近づいてみようと手を伸ばすけれど触れることは出来ない。すぐ隣にいるようなのに実際は遠く離れている。 掴めそうで掴めない十ほど年上の男性は当時の私にとって海の上に浮かぶ幻のようなものだった。 いまもそれはあまり変わらないかな、と色の薄い柔らかそうな髪を見つめる。真っ直ぐ伸びた首筋に清潔感のあるスーツの襟。そして皺のない広いコートの背中。 ちょっと手を伸ばせば触れられそうなのに、私にはひどく遠く感じられた。 「部屋まで行きますよ」 アパートの下でここまでくれば大丈夫と言った私に朝倉さんはなおも心配そうだった。鞄から取り出した鍵を振って見せると彼は仕方のない子どもにするように小さく息をついた。 「谷崎くん」 「はい」 「また飲みに行きましょう」 「はい」 「ではおやすみなさい」 「おやすみなさい」 手を振って朝倉さんは元来た道を引き返して行った。黒いコートの後ろ姿が見えなくなるまで私はぼんやりと彼を見送った。朝倉さんの姿が夜に馴染んで見えなくなってからも少しの間そのまま佇んでいた。 この夜でたくさん話はしたけれど彼は訊かなかった。 五年前どうして私が会わなくなったのか、最後まで朝倉さんが聞いてくることはなかった。

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