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第8話 沼の淵

 高校で出来た友人と、駅前で別れてバスを待っている時だった。 「ジュン」  名前を呼ばれて、声のする方を振り返ってみる。と、そこに居たのは川北くんのお兄さん。 高校生の時に見た姿とは違い、ファッション誌に出てくる様な爽やかな服装を身に纏っていた。 「こ、んにちは。」 「すっごい久しぶり。......港南工業高校行ってるんだってね。あつしとは離れちゃったな。」 「はい、あつしくんは進学校ですからね。僕は大学行くつもりないし......」 「そうか、.....」  なんだか普通に話せて妙な気がするけれど、お兄さんは普通に大学生になって楽しくやっているんだと思った。僕との事は気まぐれに悪戯をしたかっただけで、大学生になれば彼女も出来ているだろうし、お兄さんの記憶にはないのかもしれない。  僕は次の言葉を待つ気にもなれず、バスの定期をカバンから取り出すと手に持って道路の方を確認した。時間帯が悪く、次の時刻まで少し間が空いてしまい、なんとなくお兄さんと二人でここにいるのは気まずくなった。 「バスで帰るんなら家まで送ろうか。オレ、車をそこのコインパーキングに停めててさ。」  バスが来るまで時間があったし、車で送って貰えるのなら有難い。 「いいんですか?......じゃあ、お願いします。」 ここは厚意に甘えようと思い、にこやかに微笑むと川北くんのお兄さんにお辞儀をする。 「一緒に来てくれる?」 「はい、」  バス停から少し離れてコインパーキングまで歩くと、お兄さんの車に乗った。 車種はよく分からないが、大学生が持つには少し高い様な気もする。 「これはオヤジの。オレは免許だけ取って、まだ自分の車は無いんだ。」 「そうなんですか。........大学行ってるんでしたっけ。」 「ああ、東京の大学で今は一人暮らしだよ。今日は大きな荷物を運ぶのに車を借りたんだ。で、駅前のケーキ屋でケーキを買って帰ろうと思って。.....ここでジュンに会えるとはね。」 「.............」  なんと答えればいいのか...... 「そうだ、良かったらケーキ食べてく?うちで。」 「え?.....ぁ、いいえ、それは、.....」 「母さんも懐かしがると思うし、あつしも帰っているかもしれない。寄ってきなよ。」 「.....ん、......じゃあ、少しだけ。」  こういう時、自分の弱さに呆れる事がある。誘いを断るのは中々出来ない事だった。もし断わって嫌われるのはイヤだし、川北くんのお兄さんも雰囲気が変わっていたし。ケーキも食べられるならイイヤ、と思ってしまった。  懐かしい家の前に着くと車は車庫に入れられて、僕はドアを開けて車の外へ出ると川北家の玄関へと向かう。 先に玄関に着いたお兄さんが、車のカギとは別に家のカギをバッグから取り出して、それを見た僕が一瞬首を傾げると、「出掛ける時は鍵をして行くことになってるから。.....物騒だろ?」という。  開けて中へ入ると、僕は「こんにちは。お邪魔します。」と云って上がらせてもらう。 が、中から人の返事は聞こえなかったし、誰かが居る気配もしなかった。 「え、っと、.......」  お兄さんの顔を見ながら云うと、「オレの部屋で食べようか。飲み物持ってくから先にあがってて。」と云われ、今更帰る訳にもいかなくて云われた通りにする。  二階の川北くんの隣の部屋を開ける。 懐かしい、というか僕にとってはあまり良い思い出が無い部屋。 少し部屋の様子は変わっていて、モノが減っているのは分かる。ベッドはスプリングマットだけが残されていて、普段は人気が無いのだろうと思った。  すぐにお兄さんは二階へ上がってくるとドアを開けて入って来た。 ケーキの乗った皿とティーカップがトレイに乗せられて、それをベッドマットの上に置く。 「食べようか。その内みんな帰って来るだろ。」 「.....はい、頂きます。」  なんだか胸がざわつく。この部屋の中に居ると、ここは沼みたいな気がして、僕はもう沼の淵に手を掛けて脚を踏み入れてしまったんだと思った。

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