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第101話 ここは楽園じゃない

矢野君に抱きしめられたのと同時に、 キスの雨が降り注いだ。 「矢野君、ちょ、ちょっと待って!」 矢野君は苦しそうな眼をして僕を見ると、 「ずっと夢見てたお前が現実としてここにいるんだ、 待てるわけがないだろう! これは夢じゃないんだよな? 現実だよな? 俺は今ちゃんと起きてるよな? ああ、信じられない! お前が実在してたなんて!」 そう言ってまたキスしてきた。 「ねえ、僕、正直言ってまだ現状を把握してないんだ。 一体ここは何処なの?! 矢野君はここで何をしているの?! どうしてここには誰もいないの?!」 そう尋ねると、矢野君は優しく僕を見て、 僕の手を取った。 「少し海岸沿いを歩こう」 そう言うと、黙ったままで僕の手を引いて 海岸へと降りて行った。 波打ち際に沿って海岸を歩いていると、 もう夕暮れ時近いのか 太陽が随分水平線に近くなっていた。 「俺な、気付いたらここに居たんだ……」 矢野君が話し始めた。 「え? それって……」 「俺はどうやってここに来たのか、 いつ来たのか覚えていない。 最初は俺も戸惑ったさ…… 誰もいないし、 尋ねる相手もいない…… でも生活するのには困らなかった……」 「困らなかったの?」 そう尋ねると矢野君は僕を見た。 「ここでは腹が減らないんだ…… それにトイレにも行かなくて良い…… 病気もしないし、痛みも感じない。 まあ、眠ったりはするんだけどな」 そのセリフに何となく納得した。 「そうなんだ……」 「最初は死んだのかな?と思った……」 「矢野君は死んでなんかいないよ!」 僕がそう叫ぶと、 「だろうな…… いいとこ……事故かなんかに遭って意識不明とか?」 そう言って矢野君が僕の手を引いて自分の胸の中に抱きしめた。 「ずっと夢を見ていた。 毎日、毎日、同じ夢を見ていた」 「夢?」 僕は矢野君の夢が気になった。 最初僕に会った時の矢野君の言動は、 僕は彼の夢の中にだけ存在する人の様だった。 「俺の夢の話だけどな、 俺がここにやって来て直ぐにお前に出会ったんだ。 恐らくもう分かってると思うけど、 今までは、お前は俺の夢の中にしか現れてくれなかった」 矢野君がそう言いかけたとき、 僕はふと思って横槍を入れた。 「ちょっと待って! ねえ、矢野君の記憶はどうなってるの? 家族の事は覚えてる?」 そう尋ねると、彼は不思議そうな顔をして僕を見た。 そして、 「ちょっと変わり者のお袋だろ? それにお袋に弱い親父?」 そう来たところで僕はクスっと笑った。 「俺に兄弟は居ない。 でも兄弟同然で育って来た佐々木仁って従兄が居る。 祖父母は健在だが隠居している。 両親は会社経営をしていて…… ほら、あそこにあるホテルは両親の経営するホテルだ。 俺の高祖父が高祖母の為に建てたんだけどな」 そう言ってホテル・サンシャインを指差した。 「じゃあ、恋人……は?」 そう尋ねると、矢野君が急に暗い顔をした。 “ちゃんと覚えてるんだ……” 咄嗟に思った。 「あの……じゃ……じゃぁ、僕の事はどんな風に?」 そう尋ねると、矢野君はまた僕にキスをして、 「お前とは……ここで出会った。 ある日俺はこの世界に不意にやって来た。 戸惑っている時にお前が俺の夢の中に現れるようになったんだ…… それからどんどん、どんどんお前が俺の中に入って来た」 僕は矢野君を見つめると、 「どんな風に? どんな風に僕は矢野君の中に入って行ったの?」 そう尋ねると、矢野君はまた僕にキスしてきた。 そして僕の頭を撫で出て頬に触れると、 僕をしっかりと見つめて、 「夢の中ではお前に話したけどさ、 俺さ、男で失敗してるじゃないか? 次は絶対男なんて好きにならないって決めてたんだ。 だから絶対可愛い女の子!って決めてたのに、 現れたのがお前だろ? お前、最初からドンくさくてさ、 最初は何故こんな奴が……?って思っていたけど…… お前、施設で育ったって俺に話してくれたじゃないか? 屈折してるのかな?って思ったけど、 お前、凄く明るくて…… どんな事にもめげないで…… まあ、好奇心の旺盛な所はあるけど、 健気って言うか…… 段々とお前が可愛く見えて…… そして極めつけが……」 と来た。 「え? 何々? 極めつけは何なの?」 僕が興味津々に尋ねると、 矢野君はハハハと笑って、 「お前のその目だよ! ほんとお前って好奇心丸出しだな!」 と僕の背中をバンバン叩いた。 そして真剣な顔をすると、 「お前、俺がポンコツのαだって知ってるだろ?」 そう言ってもう半分まで水平線に沈んだ太陽を見て 矢野君がそう言った。 「矢野君……」 僕が言葉が出ずに戸惑っていると、 「でもさ、お前が言ってくれたんだよ。 俺はポンコツじゃない。 ちゃんと俺からαの匂いがするって!」 「じゃあ、僕と台風の日に初めて結ばれた事も夢に見たんだ……」 そう言うと、矢野君が僕を見つめて、 「何故お前がそれを……」 そう言って泣きそうな顔をしていた。 「矢野君、落ち着いて聞いてね。 僕、もう多分あまり時間が残ってないから 単刀直入に言うけど、 それは矢野君の夢じゃないよ。 ここで、実際にあった事だよ」 そう言うと、矢野君は “どういう事だ?!” というような顔をして僕を見た。 「僕は…… 実在する人間なんだ。 そして本当に、僕達はここで愛し合ったんだ…… 幾夜も、幾夜も、僕達はここで愛を囁きあったんだ。 矢野君が夢だと思っている事は…… 全て実際にここで起こった事なんだ!」 僕がそう言うと、 「じゃあ……あの湖で愛し合った事も……」 そう尋ねる矢野君に続いて、 「うん、あのヴィラで愛し合った事も……」 僕がそう言うと、 「じゃあ、お前を噛んだのは……」 そう言って矢野君が僕のチョーカーに手を差し伸べた。 僕はチョーカーを外すと、 後ろを振り向いて、矢野君に僕の項を露わにした。 「ちゃんと痕が残ってたんだ……」 矢野君はそう呟くと、僕は、 「矢野君はポンコツなんかじゃないよ! ちゃんと僕を番にしてくれたんだよ! ちゃんとαとして機能してるんだよ! αとして長い間、ずっとΩの僕を守っていてくれたんだよ!」 そう言って矢野君に抱き着いた。 矢野君は僕の顔を鷲掴みにすると、 堪らないというように僕を求めてきた。 そしてそのまま砂浜に押し倒されると、 僕達は僕達の間にあった数年の溝を埋め尽くすように愛し合った。 オレンジ色の汗を流しながら僕の中に入ってくる矢野君は これまでに見たことも無いくらい力強くて そして愛おしかった。 誰もいないこの世界で本当の意味で僕と矢野君は二人きりだった。 周りの空気までもが違って僕達の周りを取り囲んだ。 沈みゆく太陽を横目に見ながら、このまま 矢野君の中に溶けてしまうような甘さを感じた。 「矢野君、君は今、記憶を失くして眠の中にいるんだ…… 僕はもうすぐ帰らなきゃいけないけど……」 そう言うと、矢野君が僕を抱きしめて、 「嫌だ! 俺はもう一人にはなりたくない! 陽向、なあ、ここに居よう? ここには痛みも、悲しみも無い! 俺たち以外は誰もいないんだ。 誰も俺たちの間を阻む者もいなければ、物もない! 誰も俺たちを傷付けるものは無いんだ! なあ、ここに居れば、俺たちはこうして 永遠にこの楽園で愛し合っていけるんだ。 陽向! 俺を置いて行かないでくれ! やっと会えたお前を無くしたくないんだ!」 と苦しそうに声を絞り出した。 “そうか……きっとここに矢野君の欠けた記憶の原点があったんだ……” 「矢野君、聞いて! これは凄く大切な事だから!」 そう言って彼の頬を掴むと、 「矢野君、ここは凄くいいところだけど、 楽園でも、天国でもないんだよ。 僕達はずっとここにはいられないんだ。 それに、僕たち人間は、 辛いことも、悲しいことも、痛みも経験しなくちゃならないんだ! 失くしてしまう事もあるけど、 また新しく何かを掴むこともできる! もう駄目だと思っても、 諦めなければ、絶対明日を迎えることが出来るんだから! そしていつか、なぜあの時は……って笑って思える日が、 必ず来るから! 矢野君は一人じゃないんだよ! 僕はちゃんと実在していて、 矢野君が目覚めるのを待ってるから! だから覚えていて! 此処であったことはすべて実際にあった事で、 僕は向こうで矢野君が帰ってくるのを待ってるから! そうしたら、一緒にまた笑いあえるから! そしてまた……愛し合えるから!」 僕は涙でグチャグチャになた顔で矢野君に抱き着いた。 「ほんとに……ほんとに待ってるから…… お願い……だから…… 僕の……事を……忘れないで……」 そう言って矢野君の胸に顔を埋めた。 「陽向…… 俺は向こうへ帰れるだろうか?」 矢野君が不安そうに尋ねた。 「帰ってくるんだよ! その為に僕はここへ来たんだ。 絶対、絶対帰って来て! 石にかじりついてでも、 這ってでも、 死んでも帰って来て!」 僕がそう言うと、 「あ、いや、陽向? 死んだら帰って来れないぞ?」 と矢野君が雰囲気を濁したので、 「もう! そう言う心意気で帰って来いって意味だよ!」 そう言ってプンプンすると、 「そうだな、お前ってこういうやつだよな。 俺はお前のそういった所に救われていたんだよな。 俺、帰ってくるよ! 絶対、絶対、現実のお前の所に戻る!」 そう言って矢野君がもう一度僕をギュッと抱きしめた。 その頃になると、太陽は既に沈み切って、 辺りは月の光だけが照らし出していた。 虫の声一つせず、 ただ、ただ、波の音が静かに僕達の耳に響いていた。 僕は矢野君の呼吸を感じながら、 この時が永遠に続けばいいのにと少し思う様になっていた。 でもそう言う時に限って終わりはやって来る。 「陽向、俺が目覚めたらまず最初に……」 そう聞いたところで、 「陽向! オイ! 陽向!」 と佐々木君の僕を呼ぶような声がした。 “ヤバイ! 目覚める!” そう思った時にはもう遅く、 僕は僕を追う悲しそうな矢野君の薄れゆく顔を後にした。

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