4 / 38
先生
「それじゃあ今日はここまでにしまーす。次回はグループ毎に具体的なタイムスケジュールを決めてもらうので、遅れないように来てくださーい」
委員長の締めの言葉で3回目の体育祭実行委員会が無事終了した。この日は実行委員の仕事内容の確認と当日のグループ分けが行われ、会議の最後にはメンバーの名前が書かれたプリントを手渡された。実行委員は思ったよりも大変だ。2週に1回だった会議も次回からは週1で開催され、活動も本格的になるため露骨に嫌な顔をする委員たちも少なくなかった。
やっと面倒な事が終わったと皆足早に帰り支度をして教室を出ていき、隣の席だった亮太も、これから友達と約束があるからと言って慌てて席を立つ。七海はヒラヒラと手を振ってその姿を見送ると、うーんと大きく伸びをして机に乱雑に散らばった筆記具をかき集め始めた。
コツン、と肘に当たったスケジュール帳が机から滑り落ちる。それを拾おうと手を伸ばすと、来月‥6月のカレンダーのページが開かれていることに気づいた七海。普段スケジュール帳なんてメモ帳代わりでほとんど見ないし、カレンダーも土日祝日くらいしか興味がないのだが、今日はその規則的に並んでいる数字がやけに目についた。
スケジュール帳を拾い上げ、カレンダーの数字を指で追いながらその理由を自分なりに考えてみると、ある数字を見て七海の瞳の奥が少し揺れた。
教室には七海以外、もう誰も残っていない。 さっきまでの賑やかさが嘘みたいにひっそりと静まり返った教室で、七海はひとりギュッと目を瞑った。
あぁそうか、もうすぐなんだ
あの人と別れた日は
********
小さい頃から絵を描くのが好きだった。気づいたらいつも鉛筆とノートを持ち歩いていて、好きな時に好きなものを描いていた。だから七海は、中学に入学して迷わず美術部に入った。
美術の北川先生は、誰にでも優しくて人気のある先生だった。美術部だった七海は北川と話す機会も多く、身近でその理由を感じられた。北川の話はどれも興味深かったし、制作で行き詰まった時には的確にアドバイスもしてくれて、いつしか北川は七海の憧れになっていた。
中2の夏。
七海はある美術コンクールに向けて制作に取りかかっていたのだが、思うようにアイディアが浮かばず、人生で初めて訪れた大きなスランプに困惑していた。他の部員が帰ったあとも美術室に残りひたすら描くが、思うようにいかない。八方塞がりでどうしようもなくなった七海は、北川に相談する事にした。
七海の作品を見た北川は、七海に少しだけ待つように言って席を立つと、美術準備室から1枚の写真を持って戻ってきた。そこに写っていたのはキャンバスに描かれた色鮮やかな水彩画。今まで有名な作品はたくさん見てきたつもりの七海だったが、北川が見せてくれた写真の絵は見たことがない。けれど作品の雰囲気や色使いに、七海は不思議と引き込まれていった。
「これ、誰の絵ですか?」
「ふふ。これね、俺の絵なんだ」
「先生の?!すっげー‥」
「俺もね、絵が全然描けなくなった時があったんだよ」
「先生も?」
「うん、高校生の時かな。描いても描いても納得できなくてね」
「‥その時、先生はどうしたんですか?」
「描くのやめちゃった」
北川の意外な答えに、七海は驚いて大きな目をさらに大きく見開いた。言葉が出てこない。絵を描かないなんて事、想像したこともなかったから。
「ビックリした?」
「はい‥あ、でもこの絵!凄くいいと思います!オレ好きです!」
「そう?‥ありがと」
まっすぐな瞳で好きだと言い切る七海を見て、北川は頭を掻いて恥ずかしそうに笑う。
「描かなくなってしばらくして、ある日突然‥何でもいいから何かすごく描きたいって思ってね。久しぶりにキャンバスにむかったら、その絵が描けてたんだ」
七海から写真を受け取ると、北川はシャツの胸ポケットにとても大事そうにそれをしまった。
「少し休憩することも忘れないようにね」
最近はコンクールの事で頭がいっぱいで、大好きな事なのに楽しむ事を忘れていたから、北川にそう言われて肩の力がスッと抜けた気がした。七海は元気よく返事をしてお礼の言葉を伝えると、安堵の表情を浮かべて深く息を吐いた。
「一ノ瀬は頑張り屋だから」
そう言って優しく微笑んで頭を撫でてくれた北川の大きな手は、温かくてくすぐったくて‥
少しだけドキドキした。
それから数週間が経ち、七海は再びキャンバスにむかっていた。北川の言う通りしばらく絵を描く事から離れてみると、頭の中がリセットされたようにすっきりとして描きたいものが次から次へと溢れて出てきた。 制作にますます力が入り、キャンバスと向き合う七海の表情は怖いくらいに真剣だった。
「‥ち‥せ‥一ノ瀬!」
少し強めに名前を呼ばれて身体が震えた。無理矢理現実に引き戻された感じで、七海はまだ視点が定まらず少しぼーっとしている。何度か瞬きをしてゆっくり顔を上げると、北川の姿が目に入った。
「あ、先生‥」
「もうすぐ7時だよ」
そう言われ時計を見て驚く。集中しすぎて部活動が終わった事に全く気付かず、下校時間ももうとっくに過ぎていたのだ。
「さっきから呼んでたんだけど、凄く入り込んでるみたいだったから‥」
「すっ、スンマセン!もう帰ります‥!」
描きかけのキャンバスを下ろして七海が慌てて机上の画材を片付け始めたときだった。
その左手に、北川の指先が触れる。
整えられた爪、長い指、血管が浮き出た手の甲‥まるで造形作品のようで見惚れてしまう。
突然その手に握られてハッと我に返るが、いま目の前で起きているのが一体どういうことなのか、いくら考えても全く理解できない七海はひどく困惑した。そしてそれは徐々に緊張へと変わり、身体がぴくりとも動かなくなる。
「一ノ瀬は色気があるね」
「えっ‥?」
「普段は明るくて可愛いのに、作品にむかってる時の表情は色っぽくて‥すごくゾクゾクする」
やっとの思いで顔を上げると、視線の先には確かに“先生”がいる。けれど、恍惚とした表情を浮かべている北川は全く知らない誰かのようにも見えて、七海は不安げにその名前を呼ぶ。
「北川、先生‥?」
「ごめん、もう何もしないなんて無理だよ」
その言葉に反応する猶予すら与えられず、七海は両手を掴まれて強引に引っ張られると、バランスを崩してそのまま床へと押し倒される。ぶつかった衝撃で、机上の画材がガシャンと音を立てて床へ散らばった。
静まり返った教室に二人の息遣いだけが微かに響く。床に押さえつけられた手首はじんじんと痛み、それは次第に快感へと変わっていく。
嫌だったら大声を出せばいい、突き飛ばしてその場から逃げ出せばいい。‥だけど七海にはそれができなかった。 自分でも気付かないうちに、北川に対する想いが憧れから恋心に変わっていたから。
「先生‥やめて‥」
口から出たのは拒絶の言葉だが、その声は艶っぽく、見つめる瞳も誘っているようだった。まるで何かを期待するかのように。
それは理性を崩すには十分すぎた。息を飲んだ北川は七海にゆっくりと顔を近づけていき、七海も静かに目を瞑ってそれを受け入れる。唇を深く重ねると、深い闇に包まれた美術室で二人は互いを求め合った。
ともだちにシェアしよう!