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フラッシュバック

北川は美大出身で、七海の通う星ヶ丘中学校に赴任して3年目になる若手教師だ。七海の11歳年上で、自分よりもずっと大人な北川に七海は日増しに惹かれ、そして溺れていった。 部活が休みの水曜日、初めは北川に誘われて美術準備室へと足を運んでいたが、そのうち七海のほうから自主的に北川の元へ行くようになり、誰もいない美術室で何度も身体を重ねた。 ――こんな気持ちいいことがあるなんて 北川と触れ合い、繋がるたびにそう思った。だから七海は、北川のどんな要求にも素直に従った。 目尻の少し下がった優しい目が好きだった。その目に見つめられるともう何も考えられなくなって、耳元で名前を囁かれるとそれに応えるように自分を放つ。 学校の外では決して関係を持たない。 それが暗黙のルール。 それでも七海は幸せだった。 授業や部活では以前と変わらずアドバイスをくれて、新しい発見とたくさんの刺激で七海の世界はどんどん広がっていき、週に一度の秘事は七海の全てを満たした。 この幸せがずっと続くと思っていた。 そう、思っていたのに。 七海が中学3年生になり、季節も夏に近づいた6月のことだった。二人はいつものように、誰もいない美術室で密かに会ってキスをする。 「七海‥」 そう囁かれた声が今日は少しだけ悲しげに感じたけれど、七海は気のせいだと受け流し、温もりを求めて北川を受け入れていく。 優しく激しく突かれて、いっぱいに満たされて。快感が身体中を走り、絶頂を迎えた七海は小刻みに震える。そしてまだ息の整わないその身体を、北川はゆっくりと引き寄せた。 「もう‥会わない方がいい」 朦朧とする意識の中、耳元で呟かれたその言葉の意味を七海はすぐに理解することができなかった。 「ど‥いう意味‥?」 やっとの思いで出た言葉は動揺を隠しきれず上ずっている。 「もう終わりにしよう」 乱れた衣服を整えながら、北川は不安げに覗き込んでくる七海を気にかけることもなくそう言い放った。背を向けられ、七海は慌てて手を伸ばす。 「まって!行かないで!」 「‥ごめん」 七海の腕を振り払うと、北川は俯いたままそう呟いてその場から足早に立ち去っていく。 ――こんなの嫌だ 押し寄せる不安と焦燥感から七海は北川のうしろ姿を必死に追いかけたが、その思いは宙に浮いたまま届かず、目の前で準備室のドアが閉ざされると、取り残された七海はポロポロと大粒の涙をこぼした。 「ねえ!なんで?!先生っ‥せん‥せ‥」 いくらドアを叩いても、声が掠れるほど呼び続けても、そのドアが開かれることはなく、 鍵のかかる無機質な音が酷く虚しく辺りに響いた。 夕方の空はとても綺麗だった。 悲しいくらいに。 静まり返った美術室も、七海の悲しみの涙で濡れた横顔も、全て夕日のオレンジ色に染まっていた。 ******** 目を開けると、瞳に映ったのはあの日と同じ痛いほど綺麗な夕空。 あの出来事があってから程なくして部活は引退となり、その後北川と会うことはほとんどなかった。授業のときも、たまに廊下ですれ違っても、他人行儀に挨拶を交わすだけ。 蜜のように甘くスパイスのように刺激的だったあの数ヶ月は、本当は夢だったのではないかと思うほど。 先生は自分のことを好きだったのだろうか あの時散々考えたけれど出なかった答えは、今もやっぱり出ないままで。 心の奥の奥にしまって、二度と思い出さないように蓋をしていた記憶が久しぶりに目の前に現れて、七海の胸はズキンと痛んだ。 「あのー‥」 誰もいなかったはずの教室で突然声をかけられ、七海はふと我に返って声のする方を向く。目に入ったのは見覚えのある顔だった。 「あ、一ノ瀬」 「えっ」 声をかけるよりも先に、しかも名前を呼ばれて驚いた。よく考えたらここは3年生の教室。下級生の自分がいるのはどう考えても不自然で、七海は慌てて立ち上がった。 「わ、ごめんなさい!3年生の教室なのに!」 「座ってていーよ。悪いけど中の携帯取って」 笑顔でそう言われホッとした七海は、机の中をガサゴソと漁り置き去りにされていた携帯を取り出して先輩に手渡す。そのまま帰ってしまおうかとも思ったが、先輩が前の席に座ったのを見て七海も再び腰を下ろした。 「ありがと。お前1Aの一ノ瀬だよな」 「はい、あの、名前‥?」 「さっき紙回ってきた時に見た。俺3Eの譜久田修作」 「あ、同じ係の!」 先程配られたグループ分けのプリントに名前があったのを思い出し、七海はいつもの人懐っこい笑顔で挨拶をした。 譜久田修作先輩。 部活見学で初めて出会ってから、まともに会話をするのは今日が初めてだ。やっと名前が分かった。担当の係も同じで、実行委員会での楽しみが増えた七海はとても嬉しくて‥ 修作と話していると、先程までの暗い気持ちはいつの間にか何処かへ消えていて、先生のことも少しだけ忘れられた。 「何見てたの?」 「え?」 「外。眺めてなかった?」 「あ、別に何も‥。ちょっと考え事してて」 「ふーん‥‥」 少し開いた窓から吹き込んだ風が長めの前髪を揺らし、七海は再び窓の外に目をやる。相変わらず綺麗なオレンジ色の空が広がっていた。 「なんかお前って‥」 そう言われて修作に目線を戻すと、何か言いたげに自分を見ているのに気づき、七海はどうしたのかと尋ねてみるが、何でもないと返されてしまった。一度話を止められると気になって仕方がない。こうなったら意地でも聞き出してやろう、そう思った七海は席を立って帰ろうとする修作の腕を掴んで無理矢理引き止めた。 「え~気になる!何て言おうとしたんですか?」 「何でもねーよ。ただ1年っぽくないなって思っただけ」 「え!オレ老けてます?!」 「そういう意味じゃなくて」 「じゃあどういう意味ですかー!オレまだピチピチの15歳ですよ!」 1年っぽくないと言われ少々不満の七海は、とびっきりのオーバーリアクションで若さをアピールしてみせる。そんな七海を見て修作は笑いながらぽろりと言葉をこぼした。 ‥いや、こぼしてしまったのだ。 「 や、何て言うか、高1らしからぬ色気があるっていうかさ」 それは、瞬きするような一瞬の出来事だった。 頭をガンと殴られたような鈍い痛みと金属音の酷い耳鳴りがして、七海の目の前の景色は激しく歪む。 不意に目に入ったスケジュール帳の日にち オレンジ色の夕空と染まる放課後の教室 そしてあの人が言ったのと同じセリフ 全てが偶然に重なり、七海の中に刻まれた快感の記憶が一瞬にして甦る。一度知ってしまった快楽に思春期の少年が抗うことなんてできるはずもなく、膨らんでいく欲望に徐々に支配されていく。 ――満たされたい、この身体いっぱいに 目の前で修作が慌てているのが分かる。何か必死に弁解しているようだけれど、それはもう七海の耳には何ひとつ入ってこない。 いつの間にか修作のすぐ目の前に迫っていた七海は、光のない瞳を向けて囁く。 「 ‥‥試してみる?オレの色気ってやつ」 あの日突然途切れてしまった夢のような日々の続きを。 七海の中で、何かが弾けた。

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