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気づき

そしてまた1週間が経ち、七海は空き教室へと向かう。いつもより少し早めに空き教室についた七海は、脚のガタつく机に鞄を置くと窓際へ向かった。窓を開けると冷たい空気が頬を刺激し、七海は少しだけ目を細めたがそのまま窓の外に視線をやった。 先週は修作を起こさずに帰ってしまい、その後校内で会うこともなかったので、七海はこの1週間が何だかとても長いものに感じていた。こんな風に思ったのは初めてだ。 今日は少したくさん話そう。昨日友達とゲームセンターに寄り道したこととか、今日英語の小テストで珍しくいい点数を取ったこととか。もうすぐ文化祭だ。修作は予備校に行くと言っていたけれど、誘えばもしかしたら遊びに来てくれるかもしれない。駅までの帰り道も、今日は何だか普通に話せる気がする。 そんなことを考えていると、七海はいつの間にか鼻歌交じりに夕空を眺めていた。 カラカラと引き戸が開く音がして、七海は少し浮かれた表情でそちらへ目を向ける。‥と、見覚えのない人物が大きな段ボール箱を抱えながら教室の中へ入ってきたので、驚きのあまり一瞬動きが止まってしまう。ネクタイの色を見て先輩だと認識し、さらに会釈をされたので七海は慌ててそれに返した。 ホッとしたのも束の間、再び視線をドアの方へ戻すと心臓が大きく跳ねる。その人物の後ろに、同じだけの荷物を持った修作の姿を見つけたからだ。 修作と一緒にいるその男子生徒はとても華奢で、整った顔立ちは男の七海から見ても素直に“綺麗”と思えるほどだった。大きな段ボール箱が、それを抱える細い腕にはとても不釣り合いにみえる。 段ボール箱を持ったまま何やら話し込んでいる2人。きっと箱の置き場所を探しているのだろう。それ以外、話す事はなにもないはず。 ‥だけど何だろう、この気持ちは。 少し離れた位置にいるため2人の会話は詳細に聞き取ることはできないが、柔らかい雰囲気を纏ったその人物と話している修作が時折見せる優しい表情は、七海を無性に苛つかせた。 用事が片付いた修作は、教室を出ていく友人の姿を見送ると引き戸を閉めながら深いため息を吐いた。 「ねえ、今の誰」 戸を完全に閉めきる前に七海の声が耳に入る。明らかにいつもと違う声のトーンを修作は不思議に思いながら振り返ると、眉間にシワを寄せた七海の姿が目に入った。その表情からして、不機嫌なのは明らかだ。修作にはその理由が分からず、聞かれるまま七海の質問に答えた。 「同じクラスの人」 「ふーん。何で敬語なの」 「あー‥。あの人年上だから‥‥」 修作がふいに言葉尻を濁したのを七海は聞き逃さなかった。‥そういえば以前、『3年生に留年している人がいるらしい』とクラスメイトが話していた気がする。虫の居所が悪い七海の中に、この時ほんの少し出来心が芽生えた。 「もしかして噂の留年生?」 「噂って‥‥」 「ヤクか何かで捕まったんでしょ?」 「はあ?!ンなわけねーだろ何だその噂!」 もちろんそんな噂なんてない。少しからかうつもりで言っただけなのに、修作にものすごい剣幕で言葉を返されたため七海は動揺して思わず強い口調で言い返してしまう。 「冗談に決まってんじゃんそんな噂ないよ!何ムキになってんの?!」 「お前が変なこと言うからだろうが!」 修作に詰め寄られるが、七海はその強気な態度を変えなかった。 「‥‥ねえ何であの人のことかばってんの?」 「かばってねえしお前は何をそんな怒ってんだよ」 (別に怒ってないし) その言葉を飲み込むと、七海の発言はさらにエスカレートしていく。修作の怒気混じりの声を聞くたび、表情を見るたび心の奥が掻き乱され、苛つきは増していく一方だった。 「つーかあの人超ネコって感じ」 「猫って何が。意味分かんねえ」 「先輩相変わらずだね。男にケツ掘られてそうって言ったの」 「‥‥っ!」 ぐっと身体が引っ張られる感覚で我に返った七海は、修作に胸ぐらを掴まれている事に気がついた。紫色の瞳はまっすぐ自分に向けられているのに、何だろう、この虚しさは。すぐ目の前にいるはずの修作が、とても遠く感じる。 「冗談だよ。離して」 先程とは逆に、今度は突き放されるように手を解かれ、フラついた七海は俯いたまま窓際に置かれた机に手をついた。 あの人とは楽しそうに話してたくせに。あの人だけじゃない。オレ以外の人には、いっぱいいっぱい笑うくせに。 なんでオレにはそんな顔ばっかりするの?なんでオレには笑ってくれないの? 先輩はオレのこと嫌いなの? オレは先輩のこと‥ 「‥‥言っていいことと悪いことの区別くらいつけろ」 修作の声にはっとする。視線を戻すとその表情は相変わらず厳しいもので、七海はぐっと歯噛みして苦々しく笑った。 「何、今度は説教?」 「お前どうしたんだよ何イラついてんの」 「別にイラついてないし」 ‥嘘。すげーイラついてる。 ああそうか、これは “嫉妬”だ あの人に‥‥ううん、あの人だけじゃない。先輩が笑いかける全ての人に嫉妬してるんだ。 もう誤魔化せない。気がついてしまった。頭の中にずっとかかっていた靄が何なのかを。 『オレは先輩のこと‥』 それに続く言葉が何なのかを。 「‥‥帰る」 「ちょっと待てって!」 「離してってば!!」 ドアの方へ進む七海は、修作に腕を掴まれるとそれを乱暴に振り払った。動揺している。思わず出てしまった大声に自分自身が驚くほどに。 ここで逃げたってなんの解決にもならないのは分かっている。だけどまだ、自分の気持ちに頭がついてこないのだ。この状況でどうすればいいかなんて、七海には検討もつかない。 「何かあったんなら話聞くって」 「‥‥‥っ」 「?なに?」 「~~~っ何でもないしなにもないよ!」 ‥ああ、何でこの人はこんなにもお人好しなのだろうか。散々悪態をついたのに、それでも相手の心配をして。だけどその優しさは今はいらない。だってこんなこと、本人に言えるわけないじゃないか。 今はただ、一刻も早くこのやり取りを終わらせたかった。早く一人になりたかった。 「もういいから帰るよ!!」 「えっ、うん、え?!」 なかなか開放してくれる気配のない修作に仕方なくそう声をかけると、七海は足早に教室を出ていく。突然の誘いになんとも気の抜けた返事をした修作は、机に置かれた鞄を拾い上げると慌てて七海を追いかけた。 「なあ、一ノ瀬」 「‥‥‥‥」 教室を出てから七海の一歩後ろを歩く修作は、時折七海に声をかけるが、その返事は一切ないまま駅に到着した。いつもは改札前で別れるのだが、今日は修作に促され、七海は仕方なく自宅へ遠回りになる反対側の電車に乗りこんだ。 自分から「帰るよ」と言ったものの、何も話す気になれない七海はただ窓の外を眺めるだけ。修作に会う前はたくさん話そうと思ってあんなにも心を躍らせていたのに、それがずっと昔のことのように思える。今は修作の顔すら、まともに見れなくなっていた。 修作の漏らした短いため息が耳に入り、七海の胸の奥がチリっと痛む。 「よく分かんないけど、無理すんなよ」 そのあとすぐに慌てた修作に声をかけられるが、七海は外を見たまま口を尖らせ子供のように拗ねるばかり。以前一緒に電車に乗った時はあっという間に感じた時間が、今はとても長く感じた。 結局、一言も話さないまま電車は修作の降りる駅に到着してしまった。 「‥‥じゃあな」 修作の声がドアの閉まる音にかき消され、電車は再びゆっくりと動き出す。車内に残された七海はズルズルとその場にしゃがみ込むと、今日の自分の言動を思い出していた。 「オレ、本当バカだ‥」 そう言葉を吐くと、七海は膝を抱えてさらに小さく丸まる。全然知らない人に嫉妬して、一人でキレて、先輩を困らせて‥そんな幼稚な態度しかとれなかった自分に腹が立って無性に泣けてきた。 『じゃあお前、アイツの事好きなのかよ』 ふと、穂輔に言われた言葉を思い出す。あの時は「わからない」と答えたけれど、今ははっきりと分かる。 こんなにイライラする理由も、こんなに悲しい理由も、全て。もう隠すことなんてできない。 あの時あの教室で頭に浮かんだ言葉を思い出すと、七海はその場からしばらく動くことができなかった。 『オレは先輩のこと‥こんなに好きなのに』

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