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衝突

文化祭まであと2週間を切り、午前中の授業時間もその準備に当てられることが増えていた。1Aのお化け屋敷も大まかなセットは大体完成し、あとは細かい小道具や衣装の制作を残すのみとなっていた。 「‥‥‥‥」 「一ノ瀬?」 「‥‥‥‥」 「おーい!いーちーのーせー!」 「えっ?!あっ、何??」 「ぼーっとしすぎ!手、止まってっから」 着色用の刷毛を持ったまま動かずにいたオレに、クラスメイトが声をかけてきた。そういえば以前にも同じような状況があったなと、ふと思い出した。‥だけどその時と明らかに違うのは、咄嗟に笑顔を作れなくなったということ。 「‥悪ぃ、ちょっとトイレ」 「おっサボりかー?」 「ちっげーし!トイレっ!」 クラスメイト達の笑い声から逃げるように、オレは足早に教室を出た。 『お前に振り回されんのはもうたくさんなんだよ!!!』 その言葉を思い出すたびに胸が刺されるように痛くて、苦しくて、目の奥が熱くなる。授業中でも友達と話している時でも、前触れもなく突然やってくるこの感情をやり過ごすのは容易ではなくて、あくびをするふりをして涙の溜まった目を擦ったり、それでもどうしても我慢できない時は、こうしてトイレの個室で泣いた。  そんな日がしばらく続いたある日。放課後を知らせるチャイムが鳴って教室を出たオレは、その途中で自分が下駄箱とは反対の方向へ歩いている事に気が付いた。習慣とは怖いものだ。今日は木曜日。あれからもう1週間が経っていて、オレの足は無意識に空き教室へと向かっていた。 先輩にはあの日から一度も連絡をしていない。していないんじゃない、もうできなかった。もし返事が来なかったらと思うと怖かったし、何より先輩にこれ以上迷惑をかけたくなかった。 空き教室に入るとオレはいつも決まって窓を開ける。もちろん今日も。開け放った窓から入る11月の空気はもう相当冷たくて、初めてこの教室に来たときの蒸し暑さを思い出すと、もうずいぶん月日が過ぎたんだなと実感する。窓際に置かれた脚の歪んだ机に座って、オレは誰もいないこの教室でもう来ることのない人のことをただ考えた。 1週間前のあの日、ここで、先輩はオレのすぐ目の前にいた。吐息がかかるほど近いのに、いつものようにキスを避けられた時どこかとても遠くにいるように感じた。だからあの時、たとえ先輩の気持ちがオレになくても、セックスさえできればもうそれでもいいと思った。一時の感情に流されて、自分の欲を満たす事しか頭になかった。そんなことして繋がったって何の意味もないのに。 後悔したってもう遅い。結局は先輩に拒絶されて、軽蔑されて‥オレの全てを否定された。何も伝えられないまま、最悪な形で何もかも終わってしまったんだ。 もっと色々なことを話せばよかった。文化祭に来てほしいと、また先輩の家にご飯を食べに行きたいと言えばよかった。先輩のことが好きだと、言えばよかった。 音のない空間にいるのが耐えられなくなって、オレはイヤホンから特別好きでもないただ明るいだけの曲を流す。窓から見える夕焼けは悲しいほど綺麗で、そのオレンジから逃げようと目を閉じると、溜まっていた涙が頬を伝った。   曲が終わりに近づいた頃、肩にじんわり伝わってくる熱と微かな重みを感じて慌てて振り返る。1週間ぶりのその顔を見て、イヤホンを外すんじゃなくて涙を拭くべきだったと、そんなどうでもいい後悔が頭に浮かんだ。 「‥‥なに一人で泣いてんだよ‥」 「‥‥‥別に、先輩には関係ないでしょ。てかなんでいるの」 肩に置かれた手を払って乱暴に涙を拭うと、オレは先輩から目を逸らしてそう言い放った。さっきまで先輩の事しか考えてなかったのに酷い言いようだ。でも目の前に本人が現れたら‥もうどんな風に話したらいいのか分からなくなっていた。 「関係ないって何だよ‥‥!俺がどんだけお前に‥‥」 「振り回されたって言いたいの?よく言うよ先輩だって好きで来てたじゃん!ホントにイヤなら来なきゃよかっただけでしょ!?」 「‥‥‥‥っ」 表情を見なくても怒っているのが分かる。‥また怒らせてしまった。 この先いくら一緒にいても、オレは先輩に嫌われる事しか言えないしできないんだと思ったら、頭で考えるより先に感情むき出しの言葉が口から出ていた。先輩を傷つけるかもしれないなんて事はもう考えられなかった。 「ふざけんなよ‥‥‥っ」 さっきまでと明らかに違う声のトーンにはっとして、俯いたままだったオレはゆっくりと先輩の方に視線を向けた。 「‥‥‥え、」 「ふざけんなっつったんだよ!」 心臓がズキンと痛む。怒鳴られたからじゃない。 先輩が苦しそうな顔をしてるから、辛そうな顔をしてるから。 「そうじゃなくて‥‥。何で先輩が‥な、泣いてんの‥‥」 瞳の紫が夕日のオレンジと混ざり、それが涙で潤んで一層幻想的に見えた。 「俺はその教師にはなれないし‥‥っ、なりたくもないけど!お前がいつまでもそんな顔してるのはイヤなんだよ!ヤるだけヤってお前のこと見捨てるような‥‥っ、そんなクズみてーな奴さっさと忘れろよ!!!忘れてちゃんと俺のこと見ろよ!!!!」 静かな教室に先輩の声が響く。その言葉の意味と目からこぼれ落ちる涙の意味を理解できなかったオレは、ただ先輩の頬を伝う涙を見つめることしかできなかった。‥だから、返事をするのが一瞬遅れてしまったんだ。 「‥‥悪い、変なこと言った。“先生”とうまく行くといいな。じゃあ」 何か言わなければと声を出そうとした時には先輩の冷たい声が返ってきて、そのまま勢いよく教室を出ていってしまった。 必死に名前を呼んだけれど、もうそれが先輩に届くことはなかった。 静けさを取り戻した空き教室は相変わらず薄暗くて埃っぽくて、それで‥とても寂しい。 先輩が最後に叫んだ言葉が頭の中で響く。“代わり”なんかじゃない。もうずっと前から、オレの頭の中は先輩でいっぱいになってたんだ。 「もう‥先輩のことしか見てないよ‥‥」 一人残された教室で、オレは堪えきれずに声を出して泣いた。

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