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第5話

 ルーシスは腕を押さえて、痛みに顔をしかめている。 「すまない、俺のせいだ」  その腕をとって、俺は顔を近づけた。 「少し我慢してくれ」 「え、クルト……!」  ルーシスの焦った声が降ってくる。  構わずに俺は傷に口をつけた。  口内に広がる鉄の味。それ以上に刺すような苦味があふれてくる。毒の味だ。舌と顎が痺れて、びりびりと痛んだ。  血を吸い出して、飲まないように気を付けながら、地面に吐き捨てる。 「クルト! 待って、大丈夫だから……!」 「『キラープラント』の毒はすぐに吸い出さないと、危険だ」  俺はなおも毒を吸い出す作業を続行しようとしたが、ルーシスが言いづらそうに、 「えっと……俺、毒には耐性があるから」  と、告げる。  そこで俺は思い出した。ルーシスがたいていの状態異常に耐性を持っていると話していたことを。 「ああ……何だ」  先走ってしまって、恥ずかしい。  でも、それ以上に、俺の心を満たしたのは安堵の感情だった。 「……それなら、いいんだ」  何事もないならそれが一番だ。毒のせいで口周りがビリビリと痺れているが、安堵が勝って、俺は微笑んだ。すると、ルーシスの顔がぶわっと赤くなる。  毒の治療薬で口をゆすいでから、俺はルーシスに礼を言おうと思った。  あんな風に誰かにかばわれたのは初めてのことだった。  だから、ありがとう、と言いたかったんだけど。  ルーシスがぽーっと熱に浮かされたような顔で、俺を見つめている。何だか気恥ずかしい。  お礼の言葉が素直に出てこなくて、 「それ……手当てする」  言い方がぶっきらぼうなものになってしまった。  木陰へと移動し、荷物から塗り薬と包帯を取り出した。モンスターを狩る時はいつも1人だからケガが絶えない。だから、回復アイテムは大量に持ち歩いていた。  腕をとると、ルーシスは気まずそうに目を逸らした。顔がまだ赤い。  気にしないことにして、俺は傷口を清潔にして、薬を塗っていく。  束の間の沈黙が流れた後で、 「あのさ、話したいことがあるんだけど……聞いてもらえないかな」 「何だ」  俺は無愛想な声で尋ねた。  柔らかな木漏れ日が差し込んでいる。風が吹いて、葉擦れの音が聞こえてくる。 「俺の生まれ育った村は、小さくてド田舎で貧乏でさ……。前に村に立ち寄った時に、こんな話を聞いたんだ」  ルーシスは静かな声音で話し始める。 「村に住んでる1人の女の子が、病気にかかった。全身の肌が焼けただれたようになって、ひどい状態だった。だけど、その村は本当に貧乏だったから、薬を買う金も、医者を雇う金もなかった。その上、その病気は周りに感染するものだった。だから、村人はその子と感染した数人の村人を、小屋の中に隔離した。誰からも見放されて、その少女は見る見ると衰弱していった」  包帯を巻いていた俺の手が止まった。  しかし、ルーシスは話を続ける。 「そんな時、1人の魔術師が村を訪れた。魔術師は薬を調合して、病人たちに飲ませてくれた。口数は少ないけど、とても優しい人だったと聞いてる。隔離されて、不安でいっぱいだった少女の手を握って……ずっと励ましてくれたって」  言葉が喉奥につまって出てこない。  俺は俯いた。フードが目元に落ちてきて、視界が狭まる。  ちょうどいいと思った。今は、こいつの顔を見たくない。 「その話がどうした。治療は終わりだ。街に帰るぞ」  立ち上がりかけた俺の腕を、ルーシスがつかむ。  真摯な声で言いつのった。 「――半年前の出来事だ」  その言葉で、蓋をしていた記憶が蘇る。  俺は半年前……とある奇病に罹患した。  薬を常に持ち歩いていたから、病気はすぐに治った。だけど、肌の調子はすぐにはよくならなかった。全身が炎症を起こして、腫れと湿疹でひどい状態になった。  とても人前に出られるような姿ではなかった。  でも、仕事を受けなければ生活が回らない。薬を作るのに高価な材料費がかかっていたので、貯金も底を尽きかけていた。感染の危険がなくなってから、俺は外に出る決心をした。ローブを目深にかぶって、顔を隠して、冒険者ギルドに出向いた。会話も必要最低限で済むようにした。なるべく人と接することがないように心がけて、自分の姿が人目につかないようにした。  それで何とかやれていた。  パウルがやらかしてくれた、あの瞬間までは。  俺の後ろでパウルがずっこけて、ローブをつかんだ。ちょうど冒険者ギルドの待合室の中央部。朝方で、ギルド内は多くの冒険者たちで賑わっていた。  フードが外れて、俺の顔がさらされると。  近くにいた若い女が「ひっ」と短く息を呑んで、その隣にいた大男が「うおっ」と大げさにのけ反った。  ざっと波が引いていくように。周囲の人間が俺を遠ざけた。辺りは静まり返って、一斉に視線が俺に集まった。「気持ち悪い……」そう呟いたのが誰だったか、わからない。  俺はすぐにフードをかぶって、逃げるようにその場を後にした。  その数日後には、俺にまつわる様々な噂がギルド内で流れていた。 「妙な魔術に失敗した」「誰かを呪おうとして、呪い返しにあった」「怪しい薬を調合して……」  誰もが俺を奇怪そうな眼差しで見た。俺がそばに寄るだけで、誰もが逃げ出すようになった。  あれから半年が経った。  肌の状態は徐々に良くなって、今ではところどころにわずかなシミが残っているだけだ。それももうだいぶ薄くなった。それでもそれを誰かに見られたくなくて、俺は未だにギルドを訪れる時はフードを目深にかぶっている。  おもむろにルーシスの手が伸びて、俺のフードを外す。視界が一気に開けて、やわらかい木漏れ日が目に突き刺さった。  空色の双眸が俺をまっすぐに見つめている。  近い……その距離に、心臓が音を立てて跳ねた。  ルーシスが俺の頬をゆっくりと撫でる。指の腹で、わずかに残るしみをなぞる。  繊細な触り方だった。触れられた箇所がカッと熱くなって、心がざわついた。  馬鹿。やめろ。  それ以上、来るな。  それ以上、俺に踏みこんでくるな。 「離してくれ。お前には関係ない話だろう」  俺はルーシスの手を乱暴に振り払った。  しかし、ルーシスは俺の手をすかさず握りしめた。 「関係……あるんだよ。ずっともしかしたら、と思ってたんだけど、確信が持てなかった。でも、今のでわかったよ」  握られた指先が熱い。痛い。そして、苦しい。  俺を見つめるルーシスの目が愛しげに細められた。 「――俺の妹を救ってくれて、ありがとう」  風が吹き、葉がざわめくと。  差しこむ陽光が揺れて、キラキラと光が舞い散る。  うるさいくらいに心臓の音が鳴っている。何も聞きたくなくて、見たくなくて、俺は目を逸らす。  俺を理解してくれる人なんて、今まで誰1人としていなかった。他人はもちろん、両親でさえも。  小さい頃から俺は両親に疎まれて育った。  口下手だったし、外で元気よく遊ぶよりも、家の中で静かに本を読んでいる方が性に合っていた。でも、両親はそれが気にくわなかったらしい。「かわいげがない」何度もそう言われた。  俺とは対照的に、弟のパウルは明るくて、社交的で、無邪気で。実に子供らしい子供だった。  だから、両親は俺よりもパウルをかわいがった。美味しいものはパウルに率先してあげて、パウルが欲しがるものは何だって買ってやって、パウルのすることは何でも褒めて、認めて。  反対に俺は、両親にとって鬱陶しい存在でしかなかった。俺がすることはすべて気に食わなくて、わずかな時間も金もかけることは惜しんで、俺の役割はせいぜい彼らのストレスを解消するためのはけ口でしかなかった。  昔はどうにか両親に振り向いてほしくて、いろいろなことをした。  だけど、両親のために用意した食事は、いつの間にかパウルが用意したことになっていたし、家の中を掃除すればパウルが褒められ、俺がいつも読んでいた魔術書は、両親の中ではパウルの愛読書ということになっていた。  良いことはパウルのおかげ、悪いことは俺のせい、家族の中でそんな図式が不文律として成立してしまっていた。  別に、今までの人生の不運をすべて人のせいにするつもりなんてない。  俺の口下手な性格にも原因があることはわかっている。自分の功績をうまくアピールできず、誤解を受けてもそれをどうやって挽回したらいいのかわからずに、黙りこんでしまう。  だから、状況は改善されないままだった。でも、幼い頃からずっとそんな環境で育ってきたから、慣れきってしまっていた。  それでいいのだと、諦めることが当たり前のことになっていた。  だから、初めてのことだった。  誰かにわかってもらえたこと。感謝してもらえたことも。それがこんなに嬉しいものだということも――初めて知った。  頭がぼんやりして、胸と目元が熱くなる。でも、必要以上に浮かれないようにしようと、俺は自分を戒めることにした。  ルーシスは元々、優しい奴だ。その上、今は薬のせいで俺に惚れている状態だし、惚れている相手に優しい言葉をかけることは当たり前のことだ。  今は夢の中にいるような状態なんだ。生ぬるい環境に慣れてしまえば、現実に帰った時につらくなるだけだ。  平静を保とうとした。一刻も早く特効薬を完成させて、こいつに飲ませて、正気に戻す。今、俺がやるべきことはそれなんだ。  街に戻って、パウルが手に入れて来た素材と合わせて、薬を調合した。  その夜には特効薬が完成した。  しかし、 「嫌だ……飲みたくない」  ルーシスは薬を前にして、顔を歪めた。  冒険者ギルドの待合室での出来事だった。室内は閑散としている。夜になると冒険者たちは酒場にくり出すか、家に帰るかのどちらかだ。  いつもは明るい雰囲気のギルド内には、夜の静謐な雰囲気が満ちていた。  パウルは俺が薬を調合する間に飽きたらしく、テーブルに頬をつけてすっかりと寝入ってしまっていた。  丸テーブルを挟んで、俺とルーシスは向かい合っていた。  ルーシスは俺が差しだした薬から目を逸らしてしまう。 「それを飲んだら、クルトへの想いが消えてしまうんだろ? そんなの……嫌だ」  惚れ薬のこと、そのせいで俺に恋心を抱いてしまっていることは説明してあり、ルーシスも理解しているはずだった。  しかし、ルーシスは苦しそうに告げる。  悲痛な響きの声に、俺は理解した。  今、こいつは本当に俺に恋をしているんだな……。  それが薬で無理やり植え付けられた、紛い物の感情だとしても。  好きで、振り向いてほしくて、でもそれが叶わないかもしれなくて。  だから、苦しいんだ。  胸を満たす、熱くて、苦しくて、痛いくらいの感情がなくなってしまったら、心にぽっかりと穴があいてしまうかもしれない。それが何よりも怖いんだ。 「元に戻れば、苦しいと思うこともなくなる。惚れ薬を飲んでいた間の記憶は、なくなってしまうからな」  俺は淡々と説明する。  そうだ、記憶はすべて消えてしまう。  俺に好きだと言ったことも。付きまとったことも。俺のために怒ってくれたことも。一緒に森を探索して、モンスターと戦ったことも。そして……俺が半年前にしたことに気付いてくれたことも。  全部、こいつは忘れてしまう。なかったことになる。 「クルトは……俺に好意を持たれるのが迷惑なのか……?」  ルーシスは目じりを下げて、ひどく寂しげな表情を浮かべる。  どくん、と鼓動が鳴る。  胸がつまって、思考が止まった。 「今のお前は……普通じゃない」  迷った末に、俺は何とかそれだけを口にした。 「お前は、誰にでも優しい奴だ。俺に執着して、俺以外の人間を無下にするようなことはしない。俺なんかに付きまとったりしない。これを飲んで、元のお前に戻ってくれ。そして……何もかも、忘れてほしい」  息を呑む気配。  ルーシスがゆっくりと俺に視線を戻す。  空色の双眸に、わずかに陰りがかかる。 「そうか……迷惑かけて、ごめん……」  ルーシスが薬へと手を伸ばす。  しかし――瓶ではなく、それを持っていた俺の右手ごと、掌で包んだ。  冷たい指先の感触。それが這い上がるように、体の芯の部分にまで伝わってくる。冷気が心臓部に忍び寄って、ぶるりと震えた。  俺を見つめるルーシスの顔が情けないほどに歪んでいる。 「ちゃんと飲んで、全部忘れるから……その前に、1つだけ俺のお願いを聞いてもらえないかな……」  その声は緊張で硬くなって、小さく、いかにも自信がなさそうなものだった。  どこまでもルーシスらしくない言動に、ああ、薬のせいでやはりこいつはおかしくなってしまっているのだと、俺は再認識するのだった。

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