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第9話

いよいよ仕事の方が大詰めになって来て、残業する時間も1時間延び2時間延び、堂嶋は日中欠伸ばかりしている。今日は佐竹が一緒に残って随分手伝ってくれたから、思ったよりも進んで良かったと、堂嶋はマンションにやっとの思いで辿り着きながら思った。佐竹は口調が軽くて信用ならないところがあるけれど、仕事は正確に真面目にこなすので、一緒に仕事をするのは、煩いことを除けば最適な相手であった。またこれ、終わったら何か奢れと言われるに決まっていると考えると、それはうんざりするがどうしようもない。考えつつ、マンションの扉を開けて、滑り込むように中に入るとそっと内鍵を閉めた。廊下にはオレンジ色のライトがついていて、堂嶋はほっとした。鹿野目がやっている仕事のことを、堂嶋はほとんどノータッチだったけれど上がってくる報告を聞いている分は、特に問題がなさそうで、余り心配していない。 「ただいま、鹿野くん」 「おかえりなさい、悟さん」 リビングの扉を開けると、堂嶋がそうやって鹿野目に言うより早く、鹿野目は立ち上がって堂嶋に近づいてくる。目を閉じると、唇に触れるだけの優しいキスが下りてくる。それに照れたように少し笑って、それを隠すみたいに堂嶋はいそいそとコートを脱いだ。 「悟さん、最近帰って来るの遅いですね」 「うーん、そうなんだよねぇ、ちょっと間に合わないくさくて焦ってるんだよねぇ・・・」 堂嶋が帰ってくる時間が遅いということは、必然的に鹿野目はこの部屋にひとりで堂嶋を待っている時間が長いということだ。それは何だかどうしようもないことだったけれど、申し訳ないと思うくらいのデリカシーは堂嶋も持っているつもりだった。ダイニングテーブルに用意された夕食を見ながら、堂嶋は考える。しかしこの激務の先が見えない堂嶋は、全てが終わることを祈るみたいに仕事をこなすしか仕方がない。全然料理をしなかった鹿野目は、いつの間にかちょっとずつ凝ったものを作るようになって、堂嶋を待っている間、暇だから料理本でも読んで研究しているらしい。堂嶋はそれに甘えてしまっているが、一応悪いとは思っているし、作らなくてもいいよと言うのだが、鹿野目はつるりとした茶色の目をして、何でそんな風に堂嶋が言うのか分からないという顔をするのだから仕方がなかった。そう言えば、咲ともそういうやり取りを昔にしたことがあった。あれはいつのことだったが、もう思い出せないけれど。考えながら、堂嶋はダイニングテーブルに椅子を引いて座った。そして鹿野目は必ず、堂嶋が帰ってくるのを待ってから夕食を食べる、それも先に食べていていいよ、待ってなくていいよと前に言ったような気がする。考えながら堂嶋はその時のことを思い出していた。 「悟さん、昼間のなんですが」 「ひるまの?」 不意に鹿野目が口を開いて、堂嶋ははっとした。午後からの激務ですっかり忘れていたけれど、不意に堂嶋の頭の中にエレベーターホールでピンク色に頬を染めて俯く西利の横顔が蘇ってきた。ちゃんと女の子の形をしている西利は、そうやって鹿野目の前に立つとより一層それらしくて、堂嶋は何だかそれを見ながら胸がざわざわするのを抑えられなかった。分かっていたのだけれど、鹿野目が彼女のことをそんな風には見ないことを、分かっていても何故か、ざわざわするのを止められなかった。 「あ、西利ちゃん!デートね!」 「・・・」 「行ってきなよ!君ら同期なんだから仲良くしたほうが良いよ!」 「・・・―――」 もしかしたら少し怒るかもしれないと堂嶋は思ったけれど、鹿野目はそのつるりとした茶色の目を一度瞬かせると、小さく溜め息を零した。 「昼間の、仕事の事なんですけど」 「・・・あ、しご、と・・・」 言いながら堂嶋は耳まで赤くなりそうだと思った、もしかしたら赤くなっていたかもしれない。 「悟さん」 「いや、ごめん、仕事!仕事ね!なに!?」 饒舌に声を張り上げる堂嶋を見ながら、鹿野目は嫌に落ち着いていて、何で自分がこんなに焦っているのに当人のはずの鹿野目はいつも通りなのだろうと堂嶋は考えながら、オーバーアクションを徐々に潜めて小さくなった。それを見て鹿野目はまた小さく息を吐いた。 「別に悟さんが嫌なら行きませんよ、デートなんて。それに俺が行っても仕方がないし」 「嫌だなんて言ってないだろう・・・」 「でも気にしてた」 畳みかけるように鹿野目がそう言うのを聞きながら、堂嶋はどこか上の空で聞きながら、すっと顔を上げると鹿野目は向かいの椅子に座ってこちらを見ていた。相変わらず、真っ直ぐでその視線に嘘がなくて、堂嶋はそれから逃れたいと思った。 「それに、嫌じゃないんだったらちょっとは嫌だって思ってくださいよ。一応、俺は悟さんの恋人なんですから」 「・・・う、まぁ・・・そうだよね・・・」 「そんな風に悟さんが何でもない風にしていると、俺も流石に傷つくんですけど」 「うん、ごめん、いや・・・でもまぁ、俺も志麻ちゃんとか西利ちゃんの話を聞いて、えっと・・・」 「さとりさん」 堂嶋の言い訳めいたそれを遮るように、鹿野目はらしくなく強い口調で堂嶋の名前を呼んだ。いつの間にか俯いていた堂嶋は、また視線を上げると鹿野目はそこで堂嶋を変わらず見つめている。怒っているのかと藤本が言っていたことを堂嶋は何故かその時思い出していた。 「・・・なに」 「悟さんはもっと俺の事、束縛してもいいんですよ」 「・・・束縛なんて」 「悟さんにされるなら、大歓迎なんで」 言いながら鹿野目は立ち上がって、空になった食器をシンクに運びはじめる。あの時、ピンク色の頬の西利を見て思ったことも藤本に分かりましたと素直に呟いた鹿野目を見て思ったことも、もしかしたら鹿野目の言うそれだったのかもしれないけれど、堂嶋は鹿野目がそれをきちんと言葉にできるみたいには、出来ないと思いながら、それを手際よく洗い始める鹿野目のことを見ていた。 (そりゃ、俺だって別に、全くそう言う事を考えないかと言われたら多分違うけど) (でも鹿野くんは俺以外の誰かを好きになんかならないだろう?) 自分ではそうやって上手く言葉にできないくせに、そのことはしっかり信じているなんて、それこそ鹿野目に甘えているような気がして、堂嶋はそんなのは嫌だったけれどどうしようもなかった。本当はあそこで、電気の点いていないエレベーターホールで、鹿野目が西利とデートなんてするわけがないと思っていたから、藤本相手に冗談を言うくらい悠長にしていたのかもしれない自分のことを、堂嶋は本当は少しだけ分かっていた。本当はあの時、鹿野目が西利の提案を断ることを期待していた自分のことを、堂嶋はそれでもどうしても鹿野目相手に伝えることなんてできないと思った。その気持ちは束縛か独占欲か。 それともそれ以外の何かなのか。

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