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第10話
翌日、また残業する時間を30分伸ばして、堂嶋は心身ともに疲弊しながら、マンションに辿り着いていた。とりあえず明日は休みなので、それだけが救いだった。明日は昼まで眠って英気を養うのだ。マンションの扉を開けると、玄関がいつもの様子ではないことに、堂嶋は眠たい目でそれでも気づいていた。玄関に細いヒールのパンプスが揃って置かれている。この部屋に来る人間で、こんなパンプスを履くのはひとりしか思いつかなかった。疲れた良く働かない頭で、堂嶋は少しだけその来客のことを考えて、憂鬱になった。今日みたいな日は、鹿野目に抱き締められて眠りたかった。けれどそれは今日に限って言えば無理なようだ。
「おかえりなさい、堂嶋さん」
リビングの扉を開けると、案の定そこには亜子がいた。ソファーに座っている亜子は、いつものように薄っぺらくて寒そうな白のワンピースを着ていた。きっと大学帰りなのだろう。中身の詰まった鞄がソファーの傍に置かれている。それを見ながら、今まで考えていたことを悟られないように、堂嶋はへらりと顔を緩ませて亜子のことを見た。亜子は兄と同じくらいの無表情だったが。
「・・・ただいま、亜子ちゃん、来てたの」
「ええ」
「あれ、鹿野くんは?」
そういえば部屋の中には亜子しかいなかった。鹿野目がいつ退社したのか同じ島で仕事をしている癖に、堂嶋は知らなかったけれど、自分よりどう考えても早いはずだった。それなのにまだ帰っていないなんてことがあるだろうか、考えながら堂嶋は亜子しかいないリビングをきょろきょろ見回した。何となく亜子と二人きりは落ち着かないでいた。理由は特にないけれど。
「お兄ちゃんはアイス買いに行ってるわ」
「・・・アイス、こんなに寒いのにアイス食べるのか」
「堂嶋さん、そうじゃなくて私に言う事あると思わない?」
いつもより苛々しているような声の亜子に、堂嶋は首を傾げた。もっとも亜子は堂嶋といる時は大体いつもあまり機嫌が良くなくて、苛々していることが多かった。何となく亜子の気持ちが分からなくもない堂嶋は、彼女相手には強く出られなくて、仕方がないのでへらへら笑って誤魔化していることが多い。それが更に亜子を苛々させていることを、堂嶋はまだ知らないでいる。
「言う事?なに?なんかあったかな」
「・・・お兄ちゃん明日デートするって言ってたわよ」
「え、デート?」
折角可愛い顔をしているのに、それを不機嫌そうに歪めて、亜子は吐き捨てるみたいな乱暴さでそう言った。疲れている堂嶋は頭の回転が鈍くて、亜子の言いたいことなど何も分からなかったけれど、流石にそこまではっきり言われると何となく亜子の苛々している真意が読めてきた。それにしてもあの男は聞かれるままにほいほい答えたりして、亜子がそれを聞いてなんて思うかとかその後のことをどうして考えないのだろうと思って、堂嶋は思わず渋い顔をするしかなかった。
「なに他の女とデートする何てこと許しているの?ばかなの?」
「ちょっと、待って、よ。それ俺のせいなの?」
「大体私がどんな気持ちでお兄ちゃんをアンタに譲ってあげたと思っているのよ!他の女とデートさせるためじゃないわよ!ばかなの!?」
「それは、そう・・・かもしれないけど・・・」
その前に鹿野目は亜子の所有物ではないだろうと思ったが、今までの冷静さが嘘のように、烈火のごとく怒る亜子の火に油を注ぐ結果にしかならないことは、流石の堂嶋も推測できたので、喉まで出かかったそれを堰き止めるみたいに俯く。はじめて堂嶋と出会ったころの亜子は、もう少し物静かな女の子だったと思うけれど、最近何か吹っ切れてきているのか、こうして感情を表に出していることが多い、そしてその感情は陰性のものが凄く多い。考えながら堂嶋は、眠たい頭にそれ以上言葉を入れたくなくて、耳を塞ぎたいような気持ちだったけれど、勿論亜子の前でそんなことは出来ない。
「・・・まぁ、そんなに怒らないでよ、デートしたからって別に付き合うわけじゃないでしょ」
「嫌なのよ!男ならともかく女なんて!女とデートするなんて!嫌に決まってるでしょ!」
「あー・・・」
握り拳を作って、亜子がヒステリックに叫ぶのを聞きながら、堂嶋は心底疲れていたけれど、亜子の気持ちは少しだけ分かると思った。自分が異性であることを呪ったり、男性であることに妙な憧れを抱いたりしたことが、亜子の過去に何度かあって、それを堂嶋は知っているせいだろうか。そうやって強く、自分の気持ちを主張出来たら良いのかもしれないけれど、それをするには堂嶋は、自分はもう年を取りすぎていると思った。そんなことで喧嘩するくらいなら、謝ってすぐにでも眠ってしまいたい。現実なんてこんなものだ。考えながら溜め息を吐く。亜子はそれでも握った拳をやり場がないみたいにそのまま垂直に振り下ろした。
「他の女の好きになんかさせないんだから!」
「亜子ちゃーん、落ち着いてよ・・・」
「尾行するわ」
「え?」
亜子は白いワンピースの裾を翻すと、ベージュのダッフルコートを掴むと、それに乱暴な動作で腕を突っ込んだ。そして鞄を掴むと、そのまま肩にかけて振り返った。
「尾行ってなに?っていうか、帰るの?」
「明日、また来るわ。とりあえず帰って準備する」
「え、じゅんび?何の?」
「堂嶋さんも来るでしょ、お兄ちゃんが部屋出たら教えてくれる?」
堂嶋のクエスチョンをすべて無視して、亜子は少しばかり冷静になった頭で、コートのポケットに入っていた携帯電話を取出し、画面を指で操作しながら、堂嶋に指図するみたいにそう言った。堂嶋はそれに頷きそうになって、慌てて首を振った。
「尾行ってまさか、鹿野くんを追いかけるの?止めなよ、そんなことして何になるんだよ」
「堂嶋さんは気になんないの、お兄ちゃんがどんな風に女とデートするか知らないでしょ」
「知らなくていいよそんなこと、別に。相手の子にも悪いよ」
「はぁ?元はと言えば、アンタがちゃんと止めないからこんなことになってるんでしょうが!」
「いや、だって・・・それはぁ・・・」
一瞬は冷静だった亜子の口調がまた勢いを取り戻してきて、堂嶋は慌ててまた語気を弱めることになる。するとその時がちゃりと音がして、はっとして堂嶋はリビングの扉を見やった。亜子も眉間に皺を寄せたまま、扉の方をちらりと見やる。ややあって鹿野目がそこから姿を現した。手にはコンビニの袋を持っている。本当にアイスを買いに行っていたらしい。
「あ、悟さんおかえりなさい」
「・・・あ、うん、ただいま」
「お兄ちゃん、私用事思い出したから帰るわ」
「そうか、お前、アイスは?」
「いらない、食べて」
亜子は短く言い放つと、ダッフルコートの前のボタンを全部とめてからくるりと振り返った。
「さよなら、堂嶋さん」
そうして意味深に呟く。
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