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第8話

別に決められているわけではないのだが、昼休みが終わる10分前くらいにはデスクに座って仕事ができる状態でいたかった。午後からも堂嶋は内勤の予定だったけれど、藤本は外に出る予定があるというのだから余計に、直前にバタバタしたくなかった。藤本とやや急ぎながらランチを終えて、事務所に帰るためにエレベーターに乗り込む。大体いつも外でご飯を食べている所員とは、エレベーターホールで一緒になることが多いけれど、その時は何故か堂嶋と藤本以外には誰もホールにはいなかった。4階まで二人を乗せたエレベーターはスムーズに動いて、そしてチンと短い音を立てて止まる。 「堂嶋さん、また一緒にお昼行きましょ」 「あぁ、うん、また誘ってよ」 他愛無い会話をしながらふたりでエレベーターホールに降りると、先に降りた藤本がはたと足を止めて、堂嶋もつられて止まる。 「あ」 節電のせいで暗くなっているエレベーターホールの隅に、鹿野目が立っているのが見えた。そしてその前ではこの暗さでも分かるピンク色の頬をした西利が俯いているのも見えた。西利は何やら口を動かして喋っているようだが、声が小さくて、離れて立っている堂嶋と藤本のところまでは聞こえない。エレベーターの到着する音に敏感に反応した鹿野目が、西利がまだ喋っているのにも拘らず、まるでそんなことには興味がないみたいについっと首を動かして、エレベーターから降りてくる藤本と堂嶋をその目で捉える。西利は俯いているせいで暫く気づかなかったようだが、返事をしない鹿野目を不審に思ったらしく、そっと顔を上げて、鹿野目の視線の方向を追った。そして西利の大きくて丸い目に捉えられる。 「あーぁ」 隣で藤本が心底嫌そうに短く呟いて、堂嶋は吹き出しそうになったのを堪えた。西利はピンク色だった頬を今度は赤くして、まだじっと堂嶋と藤本のことを見ている鹿野目の腕を引っ張った。鹿野目の視線が緩慢に動いて、西利に戻ってくる。 「じゃあ、土曜日に!」 彼女がそう叫ぶように言ったので、今までの会話は全く聞こえなかったのに、最後のそれだけははっきり聞こえた。西利は耳まで真っ赤にして、紺色のスカートをはためかせながら小走りで事務所の中に消えて行った。それを見ながら藤本が小さく溜め息を吐くのが、隣に立っている堂嶋にも聞こえた。西利に置いて行かれてひとりになった鹿野目は、くるりと堂嶋と藤本のほうを見やって、少しだけ頭を下げた。鹿野目の顔は勿論だが見慣れた無表情であり、西利みたいな可愛げはどこにもなかった。 「はぁ、流石の行動力」 「・・・堂嶋さん茶化さないでくださいよ・・・」 「はは、ごめん」 思わず、堂嶋が隣に立っている藤本にだけ聞こえる音量で呟くと、藤本は呆れたように呟いた。口ではそんな風に悪態をつきながら、後輩のことを心底心配している藤本は、デフォルトの疲れた顔に、いつの間にか困った顔をプラスしていた。そしてその高いヒールでエレベーターホールの柔らかいじゅうたんを踏んで、慌てて逃げた西利とは正反対に落ち着き払っている鹿野目に近づいて行った。堂嶋はこのことに対しては他人事でいるつもりだったけれど、藤本が真剣に頭を痛めているのは流石に可哀想だと思ったので、藤本をフォローするつもりでその背中を追った。鹿野目は相変わらず真っ直ぐ恥ずかしげもなく、近くにいる藤本ではなく、彼女を透かすみたいに堂嶋のことを突き刺すような視線で見ていた。 「鹿野、アンタさぁ・・・」 「はい」 渋い顔をして藤本がそれ切り出そうとして、何か迷って言葉を切る。鹿野目は大人しくそれに返事をしながら、相変わらず堂嶋のことをじっと見ていた。 「いや、いいわ。西利の事なんだけど」 「はい」 相変わらず一定の調子で鹿野目が答えるのに、藤本が苛々しているのが空気感だけで伝わってくる。その頃になってようやく、鹿野目は藤本の隣に立ったまま何も言わない堂嶋から視線を反らして、藤本のことを見やった。藤本がまた短く溜め息を吐いた。 「アンタ、どうせ面倒臭いとか何とか思っているのかもしれないけど、一回くらいデートしてあげなよ」 「・・・」 「西利、あれで本気なんだからさ、まぁ付き合ってやれとは言わないけど」 「・・・―――」 黙ったまま、鹿野目はその時ついっと目線を動かして堂嶋のことをまた見た。何気なく鹿野目のことを見ていた堂嶋は、不意に視線がぶつかる結果になって慌てた。鹿野目は黙ったままじっと堂嶋のことを探るように見つめてくる。そんな風に覗き込まれるように見つめられたって、自分は何も言えないのだと思いながら、堂嶋は鹿野目の視線から逃れることが出来ない。 「・・・分かりました」 ややあって鹿野目は静かにそう言った。藤本がそれに安心したみたいに短い息を吐く。鹿野目はまた会釈をするみたいに小さく頭を下げると、ふたりの間を通ってすたすたと事務所に戻っていってしまった。堂嶋はそれを見ながら、何故か少しだけもやもやしている自分のことを、知らないふりをすることは出来そうもないと思った。これは思ったよりも厄介なことなのではないだろうか、今まで散々面白がってきたことのツケが一気に回って来たみたいだと思って、無意識に眉尻が下がる。 「・・・なんか、わたし、言いすぎましたかね、堂嶋さん」 「まぁ、いいんじゃない。志麻ちゃん何だかんだ言って、やっぱり西利ちゃんのこと心配なんだね」 「だって私の責任もちょっとはあるっていうか、なんていうか、そう言う感じで・・・でも」 「ん?」 休憩時間が終わるチャイムが頭上で鳴っている。藤本は綺麗にアイロンでカールされた後ろ髪を、まるでそんなこと忘れているみたいに手でぐしゃりと握って、西利と鹿野目が消えた事務所の扉を見つめた。堂嶋もつられてそちらを見やる。 「・・・鹿野、なんか怒ってませんでした?」 「怒ってる?なんで」 「いや、何か口調がとげとげしかったというか、まぁアイツもともとあんな感じだったっけ・・・」 「・・・―――」 後半独り言みたいに藤本が呟くのを、堂嶋は聞くわけでもなく聞いていた。確かに最後、鹿野目は口では了承していたが、何だか酷く投げやりにも見えた。堂嶋もそう、藤本と同じように思ったのだが、それは自分がそうだったらいいのにと思ったから、そう見えただけなのかもしれないと一方では思っていた。一回くらいデートしてあげなよと藤本が言うのを聞きながら、堂嶋は鹿野目が、鹿野目ならばそれを断るのではないかと思っていたからだ。あんな風に意味深に真っ直ぐ射抜くみたいに見つめるくせに、簡単に頷いてしまう鹿野目に、本当のことを言うと少しだけ、少しだけ腹が立ったのかもしれない。 (でも、俺はそんなことを考える権利があるのか) 堂嶋は黙ったまま考えるのを止めることが出来ない。

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