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第12話
「さとりさん」
ふと良く知った低い声が頭の上から降ってきて、堂嶋は眠たい目を擦った。ふっと目を開けると、辺りは随分と明るくなっている。朝が来たらしい。鹿野目と話しながら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。夜中のことを堂嶋は、良く覚えていなかった。鹿野目は堂嶋が目を開けると、座っていたベッドからするりと降りて、その目を覗き込むようにした。鹿野目は仕事に行くわけでもないのにぱりっとしたジャケットを着て、もう出かける準備ができている。今日はどこかに出かける予定があって、こんな早くに起こされたのかなと、堂嶋は考えながらぼんやりと瞬きをしていた。何となく部屋の温度と光の量で、まだ午前中であることが分かる。鹿野目は堂嶋が休みの日にいつまで寝ていようが、あまりうるさく言う事はなく、基本的には放って置いてくれている。それは平日、堂嶋が睡眠時間を返上するみたいな働き方をしているからなのかもしれない。
「俺、そろそろ出ますね」
「・・・え」
鹿野目が名残惜しいみたいに寝ぼける堂嶋の髪の毛を撫でて、ぽつりとそう言ったので、堂嶋は一瞬彼が何を言っているのか分からなかった。
「遅くならないうちに帰ってくるので」
「・・・あぁ、そうか」
「さとりさん?」
首を傾げて鹿野目が言う。そういえば今日は西利とデートをする日だった。また忘れていた。堂嶋は体を起こすと、ベッドから降り立った。何となく鹿野目が出かけるのは自分以外には選択肢がないみたいなことを、堂嶋は無意識に考えている自分のことが恥ずかしいと思ったし、それが嫌だったから鹿野目に西利と出かけたほうが良いと言ったことだって分かっているつもりだった。そういえば、鹿野目が家を出たら連絡をしろと、亜子が去り際に行っていたような気がすると思いながら、ベッドサイドテーブルに置いてあった自分の携帯電話を掴んだ。本当にそんなことをしなければいけないのか、堂嶋はまだ迷っている。だから掴んだけれど、それは別に亜子に電話をかけるために掴んだわけではないと、誰にでもなく言い訳をする。
「悟さん、まだ寝てたらどうですか、昨日だって随分遅かったし」
「いや、いい。君を見送ったらまた寝るよ」
「そんなのいいのに」
ちゃんと綺麗なジャケットを着ている鹿野目のことが、なんだか少しだけ、やっぱり堂嶋は嫌だと思った。自分は寝巻代わりのスエットで髪もぼさぼさで寝起きでまだ目が開かないとか、そんなことを差し置いてもまだ。その鹿野目の前に立つ西利の華やかなワンピースの色が目に浮かんでくる。堂嶋はどうしようもないと思いながら、考えるのを止めることが出来ない。鹿野目は廊下にかけているロングコートを取り、それを着ないで手に持ったまま、廊下を歩いて行った。堂嶋はその背中を歩くたびにフローリングに擦れてぺたぺたと鳴るスリッパを履いて、追いかける。玄関で靴を履いて、鹿野目は振り返った。
「じゃあ行ってきます」
「うん、気を付けて。楽しんでおいで」
「何かあったら連絡してください」
「うん、分かった」
その時鹿野目は少し目を伏せるようにして迷うようにしたけれど、すっと堂嶋の方に顔を寄せて、そのまま唇に触れるだけのキスをした。堂嶋は笑顔で手を振るつもりだったのに、それを一瞬忘れて固まってしまった。すっと鹿野目が離れて、唇の熱も一瞬で冷める。そんないつもしているみたいなキスを、こんなに恥ずかしいと思ったことはなかった。堂嶋は自分が真っ赤になっている自覚があったけれど、鹿野目はそれを無表情で見ていて、余計に恥ずかしいような気がした。
「・・・―――」
その一瞬鹿野目は口を開いて何かを言いかけたけれど、自分に自制をかけるみたいにそれを閉じると、そのまま黒い扉を開いて出て行ってしまった。堂嶋はそれを見ながら、部屋の中にひとり取り残されて考えていた。唇の熱は一瞬で冷めてしまうけれど、相変わらず熱い唇だった。そうやって堂嶋に触れる時の鹿野目の唇は、いつもやっぱり熱くて熱くて、それは一番はじめにキスをした時みたいだった。
(鹿野くんにそんなつもりが微塵もないことは、鹿野くんを見てれば分かるよ)
(それを尾行しようだなんて、俺が信じてないみたいで、なんかやだな)
考えながら堂嶋はスエットのポケットに突っ込んだ携帯を取り出して、その画面をじっと見た。自分が連絡をしないでいたら、例えば鹿野目に起こされなくて寝ていたと言い訳をしたら、亜子も諦めるのではないかと思ったけれど、彼女の決断がそうやって他人によって揺るがされないことは、なんとなく堂嶋には分かっていた。少し考えて、堂嶋は仕方なく亜子に電話を掛けた。コール音は短く、亜子はそれを待ち構えていたみたいな俊敏さで電話に出る。堂嶋はそれに溜め息を吐く時間すらない。
『おはよう、堂嶋さん』
「・・・おはよう、亜子ちゃん。鹿野くん、今出たよ」
『分かったわ、マンションまで行くから、堂嶋さんも出る準備をして待っていて』
「あー・・・」
それに曖昧な返事をしていると、亜子がすかさず電話を切ろうとしたので、堂嶋は慌ててそれを止めた。往生際が悪いのは分かっていたが、止めるならここしかなかった。
『なんなの、時間がないのよ』
「亜子ちゃん、鹿野くんは別に相手の子なんて何とも思ってない。ただふたりで出かけるだけだ。俺がそうしたほうが良いって言ったから、ただそれに従っただけだ」
『分かってるわよ、そんなこと。だけど理屈じゃないのよ、嫌だって言ってるでしょ』
「・・・」
『切るわよ、準備して』
亜子は短く堂嶋にそう命令するみたいに言うと、堂嶋の返事など聞く気がないみたいに、ブツッと電話を切ってしまった。無情にも一方的に通話を切られた携帯電話を見ながら、堂嶋は考えていた。亜子の言いたいことは何となく分かる。何となく分かってしまうから、それには強く出られないのだ。
(何で俺、鹿野くんに行けばいいよって、言っちゃったんだろうなぁ)
(本当は行ってほしくなかった、でもそんなこと俺は、鹿野くんには言えない)
通話の切れた携帯電話を握りしめるように持って、堂嶋は部屋の中でひとりになりながら、ぼんやりと考えていた。行けばいいなんて嘘だった、仲良くしたほうが良いなんて嘘だった。だけど堂嶋がそんな風に言えば、きっと鹿野目はそれに従うだろうし、西利の誘いなんか簡単に断るだろう。我儘だけどそれも嫌だと堂嶋は思った。西利にいい顔をしたいわけではないけれど、そうやって簡単に、鹿野目の選択を歪めてしまう自分の言葉のことを、堂嶋は少しだけ怖いと思った。
(理屈じゃないなんて、言える亜子ちゃんはすごい)
(俺は全然だめだ)
熱かった唇の熱を思い出すみたいに、堂嶋は鹿野目が触れた唇に指で触れて、部屋の中でひとりになって考えざるを得なかった。
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