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第15話

「旬って、不思議な奴なんすよ」 亜子が怒りに任せてパンプスのかかとで踏んで行った、痛む足を摩りながら、牧瀬は亜子の代わりに鹿野目と西利の姿を遠目から見ながら、思い出したようにぽつりと言った。なんだかんだ文句を言いながら、ここでふたりして亜子に付き合って、鹿野目と西利のことを見張るのをやめないのが、堂嶋は口には出さなかったが不思議だった。堂嶋は兎も角、牧瀬はふたりのことなんて、堂嶋以上にもっとどうでもいいはずだった。それはやっぱり亜子がそう言ったから、牧瀬はただ単純にそれに従っているのだろうか。亜子のことが好きなのに、亜子が兄を思うのを止められないことに、まるで加担するみたいなやり方で。さっきの調査報告書が鞄に仕舞いきれずにはみ出ているのを見ながら、堂嶋はひとりで考えていた。 「アイツ、ゲイじゃないですか。でもなんか昔っから美人モテするというか、かわいいこになんかやたら好かれる癖あるんすよねぇ・・・」 「へぇ、そうなんだ」 「いやぁ、意味分からんでしょ、世の中不公平だよなぁ」 口を曲げて牧瀬は不満そうな顔をしながら、またもうすっかり冷えてしまっているだろうホットコーヒーを飲んだ。その時、堂嶋の頭の中に、何故かケーキ会を断られた時の佐竹の顔が浮かんできた。それはきっと鹿野目には余計な下心がないからだ。そういうことをきっと、女の子はまるでセンサーみたいに勘付いてしまうのだろうと、堂嶋は半分くらい妄想なのに、まるで確信しているかのように思う。特に西利みたいな可愛い子は、きっといつも男の下心に晒されているのだろう。それをまるで感じさせないだけでも希少価値があるのに、彼が少し自分にだけ優しいなんて勘違いするような事案が数件発生すれば、彼女たちはたちまち恋に落ちるのだ。それが自然だった、あまりにも。堂嶋には彼女たちが鹿野目に惹かれる理由が、なんだか分かるような気がしたけれど、牧瀬は首を傾げるばかりで、全く分からないようだった。 「一回だけ、アイツ、大学の時に女と付き合ったことがあるんです。その子もすげーかわいい子だったなぁ、亜子に頼まれて調査したんでね、その子も。俺良く覚えてるんすよ」 「ふーん・・・」 「まぁ、結局半年くらいで別れちゃいましたけどね」 そうやってあっけなくへらへらと笑い顔に戻る牧瀬を見ながら、そういえばそういう話を鹿野目としたことがないことを、堂嶋はふと思い出していた。女の子にモテるのかと聞いた時、そんなことないと彼は否定をしていたけれど、こればかりは牧瀬の見解の方が正しいような気がした。鹿野目の場合、本人にその気が全くないこともきっと大きい。またこんなプライベートでデリケートなことを、本人ではないルートで知ってしまったことへの罪悪感というか、後ろめたい気持ちが堂嶋の目を何となく反らさせている。鹿野目は堂嶋の前ではひどく正直であったから、きっと自分が聞けば答えるのだろうということは見当がついていたけれど、だとしたら尚のこと、そんなことをしていいのか、堂嶋には分らなかった。 「お兄さん」 「ん?」 ふと牧瀬がそう呼んで、堂嶋はそれにすっかり返事をすることに慣れてしまいながら、お兄さんは止めろと、もうずっと前に言ったような気がするけど、全然牧瀬に響いていないことに、その時になってようやく気付いた。それでも口は勝手に返事をしてしまっている。 「今日、俺、お兄さんに会えてよかったです」 牧瀬はその人好きのする顔をぱっと笑顔にしてそう言うと、まるで女の子がやるみたいにちょっと小首を傾げてみせた。けれどそれはどこか自然に見えた。 「・・・あ、うん」 「ほんとは俺、旬のこと心配してたんです。アイツ、俺くらいしか友達居ないくせに、俺には何も言ってくれないし、ね、冷たいやつでしょ」 「あー・・・」 牧瀬の場合、黙っていてもどこからか情報は入って来るのではないかと思って、堂嶋はそれにどう返事をしたらいいのか分からなかった。そういえば、藤本が鹿野目は徳井や佐竹と全然違うタイプなのに上手くやっているのが、よく分からない、と言っていたけれど、牧瀬のこのあっからかんとした明るさもまた、鹿野目の静謐で物静かな雰囲気とは全く違う。友達と牧瀬は言ったけれど、彼と鹿野目の関係は友達という表現で果たして正しかったのか、聞きながら堂嶋は考えてしまう。 「お兄さん、もしかしたら亜子に申し訳ないとか、思ってるんですか」 「・・・えー・・・そうだなぁ、まぁ、多少は?」 苦笑いでそれに応えると、牧瀬は口角を少しだけ上げた。そしてもうほとんど湯気の上がってないホットコーヒーに口をつけた。 「だとしたら、それは全然違うんで。お兄さんは、旬のことをちゃんと考えてやってください」 「・・・―――」 「亜子のことは俺に任せて」 「・・・うん」 茶化したようにその時牧瀬は笑いながら言ったけれど、堂嶋は何だか彼の言いたいことが分かる気がして、それに小さく頷いていた。堂嶋は亜子の一途で重たい、そしてどうしようもない気持ちを知っているから、その兄をそれこそ亜子から奪ってしまったみたいで、本当はそんなことを考えなくてもいいと分かっているけれど、何となくいつも亜子には強く出られないし、彼女の気持ちの整理が、今後もしつくことがあるのだったら、それに付き合ってやらねばならないと、それはもうほとんど義務みたいな気持ちで思うことだってある。本当は今日だって、来たくはなかったし来なくてもきっと良かった。でも亜子に言われたら、堂嶋はそれを断ることなんてできないことを、それは堂嶋自身がよく分かっていた。 「本当は亜子だって、多分心のどっかでほっとしてると思います。これでもう旬のことを思わなくていいんだって」 言いながら牧瀬は、少しだけ目を伏せた。そうして見ると彼の表情は決して明るくはなくて、鹿野目きょうだいが辿った軌跡をまた、近くできっと牧瀬も見せられているのだろうと堂嶋は思った。思わなくていいと牧瀬はその時言ったけれど、亜子はあんなにもあからさまに、あんなにも正直に思っているではないか。堂嶋が言えないこともできないことも、好きだからという理由で全部してしまうのに、それでも牧瀬にそんなことを言わせる亜子のことが、自分にはきっと理解できないのだと堂嶋は思った。 「お兄さんは知らないと思うけど、最近なんかあいつ明るいんですよ、あれでも」 「そうなの?なんか俺の前では苛々してることが多いんだけど・・・」 「怖いんですよ。亜子にはずっと旬しかいなかったから、旬のことが好きじゃなくなる自分のことを上手く想像できないだけなんです。だからお兄さんに当たったりして、気を紛らわせてるんですよ」 「・・・そうなの?」 「今日だって、俺はお兄さんのことは呼ばないでもいいんじゃないかって言ったんですけどね。でもお兄さんがいなかったら亜子がこんなことする理由がなくなっちゃうんで・・・―――」 その時の牧瀬の言葉の意味を、堂嶋は考えていた。亜子がどうしても堂嶋を連れてこなければならなかった理由を、考えればそれは確かにどこにもなかったのだ。 「だからお兄さんが罪悪感を覚えることなんて、ないんすよ、ひとつも」 言いながら牧瀬はまたにこっと笑って、そう言われてみたらそれは本当に簡単で単純なことのように思えるから、不思議だった。

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