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第19話

「それでさとりさんが傷ついても?」 「・・・」 「俺に思ったことをやれって言うんですか」 「・・・そうだよ」 声が思ったより震えて、堂嶋は自分の言葉がやっぱり怖いと思った。そんな風に一番に思われることが、こんなにも怖いと思ったことはなかった。鹿野目の愛情はいつも真っ直ぐで純粋だったから、自分はそれにせめても応えてやらねばならないと、堂嶋はいつだって考えている。けれどその結果、鹿野目をいつか追い込むのは自分なのではないかと思ってしまうのが怖かった。 「そんなの無理です。俺は、悟さんが傷つくようなことを、良いなんて思えない」 「大丈夫だよ、鹿野くん。君は、きっと間違ったりしないよ」 「・・・悟さんは俺がはじめてあなたにしたこと覚えてないんですか。あぁいうことも全部、間違ってないって言えるんですか。悟さん俺にそんなのは違う間違ってる、もっと別の方法があるだろうって言いましたよね、俺覚えているんです。あなたの言ったことは全部」 「・・・―――」 珍しく、鹿野目は早口でそう捲し立てるように言った。勿論、堂嶋はそれをよく覚えていた。鹿野目みたいに言ったことも言われたことも一言一句覚えてはいなかったけれど、この部屋にはじめて入った時のことも、その時の暴力みたいな性衝動も、優しい言葉もそれなのに冷たい目も、堂嶋だってよく覚えていた。忘れるわけがなかった。あの時のことを、そういえば落ち着くところに落ち着いてから、鹿野目と話をしたことがなかった。ふたりでそれをなかったことにしていたわけではなかったけれど、もしかしたら鹿野目はずっとそれを後悔して引き摺っていたのかもしれないと、堂嶋は思った。こんな風に揺さぶられないと鹿野目の中から出てこなかっただろうそれのことを、堂嶋はひどく懐かしい気持ちで聞いていた。 「・・・そうだね。でも鹿野くん、あの時君がああしていなかったら、俺は多分今ここにはいないと思うよ」 「いないほうが幸せだった。さとりさんはあのまま彼女と結婚していたほうが・・・―――」 「本当にそんなこと思ってるの」 ぴたりと鹿野目の口から言葉が途切れて、堂嶋はきっと鹿野目は嘘でもその続きを言えないのだと思った。それに堂嶋が同意するのが怖いから、とても口になんて出せないのだと思った。それと同じように、過去のことも、後ろめたさがあるから、堂嶋の前で今更広げて見せることができないのだと思った。堂嶋をそうして手籠めにしてやろうとはじめに考えたのは鹿野目だったけれど、結局それを選んだのは堂嶋だ。鹿野目が可哀想だから、一緒にいてやることを選んだのではない。それは堂嶋の決断だった。だからあれはふたりの共犯で間違いないのだ。鹿野目も誰かのせいにすることを覚えないといけないと、堂嶋は少しだけ思った。そんな風に自分で抱え込んでいては苦しいだけだ、鹿野目が時々誰かのせいにすることを、きっと誰も責めたりはしないのに。 「・・・分かりません」 「分かんないの?」 「分かりません、俺、本当はずっと分からなくて、悟さんが側に居ることは嬉しいのに、いなくなることばかり考えていて、それも怖くて。大丈夫だってさとりさんは言ってくれるけど、納得したふりをしてもやっぱり怖くて、でもそんなの、さとりさんを信用していないみたいで嫌だった。なのに・・・―――」 俯く鹿野目を見ていられなくて、堂嶋はもう一度鹿野目に近づいて距離を詰めた。鹿野目はもう足を後退させることはなくて、そこに見捨てられたみたいにぼんやり立っていた。それに少しだけほっとする。鹿野目はそういう形で堂嶋を拒絶したことは今までなかったけれど、どういう形でもやっぱり好きな相手にされればそれなりに傷つくものなのだと思った。たとえそれが鹿野目相手でも。大人しくじっとしている鹿野目に手を回してぎゅっと抱きしめると、鹿野目の体はまだ外の空気を纏っているみたいに冷たかった。冷たくてなんだか悲しかった。ずっと冷たいままでいたのだろうかと、堂嶋は鹿野目の近くの空気を吸いながら思った。 「大丈夫だよ、鹿野くん。俺はどこにも行かないから」 「・・・誰か別の人のことを好きになるかもしれないのに?西利だって、さとりさんあぁいう女好きでしょう」 鹿野目とそういう話をしたことがなかったけれど、堂嶋の元彼女の咲のことを知っている鹿野目にとって、推測は容易かったのかもしれない。確かに西利は女の子らしくて可愛いし、見た目の好みで言えば多分タイプなほうなのだろうと思いながら、それを今肯定したらややこしいことになるのだろうなぁと、ぼんやり堂嶋は考えていた。もしかしたら鹿野目がデートに行くことにしたのは、堂嶋が勧めたこともきっと大きかったのだろうが、西利が堂嶋のタイプの女の子だったからなのではないかと、堂嶋はふと思った。その好意の矛先を、彼は彼なりに考えて、別のやり方で操作しようとしたのではないか。 「そうだね、でも多分、俺の残りの人生で、君ほど俺のことを愛してくれる人は現れないと思う」 「・・・そんなの」 「なんせ俺は流されやすいもんだから、君が俺のことを好きだって言い続けてくれたらそれで、俺は君の側から離れる理由なんてないと思うよ」 抱きしめた腕に力を込めて、鹿野目にもそれが伝わればいいのにと思った。鹿野目が無理強いしたから自分は今ここにいるわけではなくて、それは咲に別れてくれと言われたからここにいるわけでもなくて、それは堂嶋の意思で選び取った結果なのだということが、鹿野目にもいつか分かればいいのに、そうしたらきっとこの臆病者も少しくらいは安心できるはずなのにと堂嶋は思った。 「鹿野くん、君がしたいことは自分で決めるんだ。そこに俺の意思は無関係でいい。勿論、迷ったら相談してくれたらいいけれど、決めるのは君だ」 「俺だって、自分の意思で君の側に居ることに決めたんだ、だからちょっとは自信を持ってくれよ。前にも言ったけれど、君ばっかり好きでいるんじゃないんだ。俺もちゃんと君のこと好きなんだよ」 「ちゃんと覚えてるんだろう?俺の言ったことを君は全部」 すると今まで動かなかった鹿野目の腕がゆるりと動いて、堂嶋のことをぎゅっと抱き締めた。 「覚えてます。さとりさんが俺にくれた言葉は全部、俺の宝物だから」 鹿野目の言葉はいつも真っ直ぐで、純粋だったから、堂嶋はそれを正面から受け止めるのに時々気恥ずかしくて、なんとなく目を反らしてしまっている。そういうことがいちいち、もしかしたら鹿野目を不安にさせていたのではないのかと思って、堂嶋はそれに耳まで赤くなりながら少しだけ反省した。 「嘘ついてごめんね、もう君に隠し事するのはやめるから」 「・・・はい」 鹿野目を抱き締めていた腕の力を緩めると、それが分かったみたいに鹿野目もその腕を解いた。まだ耳の側が熱くて、見て分かるくらいに赤くなっていたら恰好悪いなと思っていると、鹿野目がその頬を指先だけでついと撫でて、また肌の表面だけの熱が上昇したような気がした。 「さとりさん」 「なに?」 「俺が決めていいなら、やっぱり今日は行かなければよかった」 「・・・なんで」 「そしたら一日中、一緒に居られたのに」 真面目な顔をして鹿野目がそう言うので、堂嶋はそれに笑ってしまった。なんで笑うのかと聞かれるかなと思ったけれど、その時鹿野目は何も言わずに、笑う堂嶋にそっと顔を寄せて、堂嶋もそれが分かったのでそのまま目を閉じた。相変わらず、それは熱い唇だった。

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