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第23話

「ようこそ!堂嶋家に!兄の翔です!」 その夜、夕食の支度ができたのでどうぞと堂嶋の母が部屋に呼びに来て、おそらく家族がそこでご飯を毎日食べているのだろうと思われる和室に通された。広めの背の低いテーブルに、ちゃんと座布団が人数分ある。堂嶋ははじめこそ実家が久しぶりだと言ってはしゃいでいたが、そのうちに家にいることも慣れてきたのか、ほとんどいつものようになっていて、鹿野目だけが妙な緊張感とともにあった。和室には見慣れぬ男がひとり先に座っており、堂嶋と鹿野目を見るなり立ち上がって、鹿野目に向かって両手を出してきた。おずおずと鹿野目がそれを握ると、両手でがっしりと掴まれ、ぶんぶんと振り回される。彼が兄の翔だという。堂嶋と雰囲気は似ているが、確かに母の言ったように、堂嶋より幾分背が高く、どことなくシャープな印象のする男だった。 「・・・こんばんは・・・鹿野目です・・・」 「翔くんうるさいんだけど」 「何言ってるんだ、さとり!お前が咲ちゃんに振られた時はお兄ちゃんどうしようかと思って東京まで行こうかと思ってたけど、なかなかお前も隅に置けないな!」 「来なくて良かったよほんとに。あー鹿野くんそこ座りな、もうすぐ父さんも帰ってくるし」 「あ、はい・・・」 とりあえず堂嶋が指さした座布団の上に座る。母の時も思ったが、兄も兄で自分が男であることを全く指摘して来ないが、これは何なのだろうか、もしかして女だと思われているのだろうかと、鹿野目はそんなわけないと分かっていながら、そんなことを考えることしかできなかった。鹿野目が大人しく座ると、その横にわざわざ翔は移動してきて、鹿野目の目の前にあるグラスに持ってきたビールを勝手に注いだ。 「あ、お兄さん、そんなことしていただかなくても・・・」 「お兄さんだって!さとり!お兄さんって言われちゃったよ!おれ!」 「もうほんとうるさい、翔くんどっかいって」 「なんだよー、さとりがほんとは俺のことお兄さんって呼べばいいのにー」 「呼ばないよ、気持ち悪い」 面倒臭そうに言いながら、堂嶋は勝手に手酌でビールを注いで、まだ全員が揃っていないのに飲み始めている。鹿野目は亜子にお兄ちゃんと呼ばれ続けている身分なのでよく分からないが、堂嶋は兄のことは名前で呼んでいるみたいだった。鹿野目には、何が気持ち悪いのか分からなかったが、堂嶋は堂嶋なりに色々あるらしい。兄の翔はおっとりした堂嶋やその母とはちょっと雰囲気が違って、どちらかといえば溌剌としていて、堂嶋が鬱陶しそうにするくらいには元気だった。 「鹿野目くんはさとりの部下なんだって?」 「あ、はい」 「さとり、ちゃんと仕事はしてるのかー?お前、部下に手を出したりして、パワハラだぞ」 「うるさいなぁ、ほんと。ニートに言われたくないんだけど」 「ニートじゃないだろ!俺はちゃんと父さんを手伝ってる!」 「月の半分くらい女の子連れてゴルフ行ってるくせになんだよ。俺なんて毎日残業してるのに!」 「それは俺がモテるのを僻んでるのかー?みっともないぞ、さとり!」 「・・・なんでそうなるのか全然分かんない」 堂嶋が首を傾げて言うのに、翔はあははと大声で笑っている。すっとふすまが開いて母がやってきて、翔の手からすっと空になった瓶を取っていく。 「もうふたりともお客さんの前で喧嘩しないの」 「だって翔くんが」 「母さん、悟が僻んでくるんです。みっともないでしょう」 僻んでないとすぐさま堂嶋は否定したが、ふたりに挟まれて彼女はまるでそんなことは日常茶飯事みたいに、にこにこ笑っていた。それが家族の会話なのだと、鹿野目は自分の家で行われていたはずのずっと昔の家族の会話を思い出そうとしたけれど、すぐには出てこなかった。 「翔くんがモテるのは結構なんだけど、お母さん次から次へ紹介されても覚えておけなくて」 「そうだ、さとり。この間、彼女を家に招待したんだが、母さんが名前を呼び間違えまくってな!次の日に別れることになったよ!あはは」 「何それ全然おもしろくないんだけど・・・」 堂嶋が眉間にしわを寄せて笑う翔を見ながら、溜め息を吐いた時だった。丁度ふすまが開く音がして、振り返るとそこに見知らぬ男が立っていた。それが堂嶋の父親なのだと瞬時に鹿野目は理解して、反射的に立ち上がる。ぐらぐらと脳みそが揺れて、かつて自分の父親が自分の頬を力いっぱい殴ったことを思い出す。堂嶋はどう考えてもノンケだった。足を引っ張って闇に落としたのは自分だ、間違いなく自分だったと思う。堂嶋は優しいから自分で決めたんだよと、何度も鹿野目に教えてくれたけれど、それでも鹿野目は心のどこかでまだそれを完全には納得できなくて辛い。辛いばかりだ。堂嶋を闇に突き落とした元凶を、家族が憎んでも恨んでもそれは仕方がないと鹿野目は思った。自分は憎まれても恨まれても仕方がない存在なのだと。自身の息子ですら許せなかったのだ、他人ならもっと、その憎悪の感情は計り知れないはずだった。 「・・・こんばんは」 「こんばんは」 声が震えたけれど、それを聞いているはずの堂嶋はもう笑わなかった。堂嶋の父親はちらりと鹿野目のことを見て、それからゆっくりと微笑んだ。堂嶋はどちらかと言えば、母親のほうに似ていたが、父親は確かに長身の兄の翔を思わせる風貌で、しかし笑うと堂嶋の優しい時にする顔によく似ていた。よく似ていてそれが、鹿野目の心臓をやっぱり強く握って、どうしてここにいるのだろうと、鹿野目は簡単に後悔することになる。今すぐ体を翻してここから逃げ出して東京に帰りたかった。堂嶋がいなくてもあの部屋で布団を被って、震える体を抱き締めて眠れなくても眠りたかった。ここには安心できる場所なんかひとつもなかった。彼はそこでそっと目を伏せるようにして、側にビールのグラスを持ってもうすでに眠そうな顔をしている堂嶋のことを見た。 「彼が鹿野目くん?」 「・・・うんそー、おかえり、父さん」 堂嶋は鹿野目が震えているのに気付いているはずなのに、助け舟も出さないで、眠たい目でビールを飲んでいる。取って付けたようにそう父親に挨拶をするのに、彼もただいまと形だけ返す。すると鹿野目の隣に座っていた翔がいきなり立ち上がって、鹿野目はびくっと体を震わせて思わずそちらを向く。 「父さん!鹿野目くんはおっきいだろう!俺と同じくらいらしいよ!」 「あ、すみません・・・鹿野目旬です」 翔の無駄な大声と無駄な情報に鹿野目ははっとして、まだ自己紹介すらしていなかったことに気付いて、慌てて頭を下げた。鹿野目の隣で、もう何年来の友人みたいな顔をして、翔は鹿野目の肩を掴んで、何やら親密そうな空気感を出している。 「いえ、遠いところどうもわざわざありがとう。悟くんの父です。いつも悟くんがお世話に・・・―――」 「お父さん、それさっき私が言いましたよ」 「あ、そうなのか。えーっと、他に言うことあるのかな?」 そう言って父は鹿野目を見ながらにっこりと微笑んだ。間違いなく彼は堂嶋の父親なのだと、鹿野目はその笑顔を見ながら理解した。理解せざるを得なかった。

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