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第26話

暗闇の中で鹿野目はその切れ長の目を光らせて、堂嶋を真っ直ぐ見据えていた。そうやって鹿野目は、いつでも真っ直ぐ堂嶋を見ている。それはいつも怖いくらいに。堂嶋はそれから逃れてしまいたいような、それでいてそれがどこか心地がいいような不思議な気分がする。そして鹿野目が自分を見ていない瞬間を見つけては、安心したり、焦燥したりするのだ、それはもう勝手に。 「来てよかったです」 「・・・うん」 「さとりさんの家族に会えて嬉しかった、優しい言葉をかけてもらって嬉しかった」 「うん」 「さとりさん、俺は・・・―――」 すっと鹿野目が息を吸うと、その切れ長の目がきらっと光って、それからぼたぼたと大粒の涙が鹿野目の頬を濡らして、落ちて行った。堂嶋は吃驚して布団から飛び起きて、でもまだ目の前のことが信じられなくて唖然としていた。鹿野目も吃驚したみたいに、茫然として目から流れる涙を指で拭っている。拭っても拭っても、それが後から後から流れてきて、鹿野目がそれを強くこするたびに目が赤くなっていく。堂嶋は鹿野目に近寄って、その手を掴んでそれを止めさせた。鹿野目はいつもの無表情だったのに、その眼だけが異様に濡れて光っていた。そして瞬くうちに水分が鹿野目の目からまた重力に負けて落ちていく。 「大丈夫、鹿野くん」 「・・・さとり、さん、俺は・・・」 「大丈夫、ずっとしんどかったね。そんな風に自分を責めなくても大丈夫だよ、鹿野くん」 「・・・―――」 そしてどうしていいか分からずに、ただ呆然とする鹿野目のことを抱き締めて、堂嶋は鹿野目の頭を撫でた。多分ずっと、鹿野目はそのことが忘れられなくて、家族と物理的に距離を取っていても、そんな昔のこともう思い出さないでいても、どこかでいつも罪悪の気持ちに胸が焼かれて、苦しかったのだろう。もしかしたら受け入れてくれた堂嶋の家族を見ながらも、そうならなかった自分の家族を思い出すみたいに、どこかで苦しかったのかもしれない。だからこんなに、鹿野目の気持ちと頭の中の冷静さとは無関係に、体が悲しいことを訴えるみたいに、涙が出てくるのだろう。きつく抱きしめると鹿野目の体は震えているような気がした。大胆で強引なことをする割に、鹿野目が繊細で臆病にできているのを堂嶋は知っている。 「さとりさんはいつも、俺の欲しいものを全部くれる」 「さとりさんに会えて、ほんとに、よかった」 どうやって声を出したらいいのか分からないみたいに、喉を詰まらせて鹿野目がそう呟くのを、堂嶋は鹿野目を抱き締めながら聞いていた。そしてそれを聞いて、ほとんど無理やりに連れてきたけれど、連れてきてよかったなと、堂嶋もひっそりと考えていた。 「鹿野くん、いい機会だからちょっと話しておきたいことがあるんだけど」 「・・・なんですか?」 ぱっと堂嶋は腕を離して、鹿野目と向き合った。涙の跡がまだ頬には残っていたけれど、鹿野目の目はしっかりしていて、もう濡れていなかった。堂嶋はそれに安心して、手を伸ばして涙の跡を指で辿ってそれを消した。鹿野目は大人しくされるままにじっとしている。 「あのね、俺の家、建築業だから、いずれ俺もこの家で働くつもりでいるの」 「・・・はぁ」 「家自体は翔くんが継ぐと思うんだけど、あのひとは経営で、実務は俺がやるみたいな感じになるんじゃないかな。分かったかもしれないけど、俺、だからいずれ事務所は辞めることになると思う」 「え?」 「まぁそんなの何年も後の話なんだけど。今は父さんも元気だから、翔くんもあんな感じだし」 そう言って曖昧に笑うと、鹿野目が怯えるみたいに堂嶋の腕を掴む。堂嶋はそれに大丈夫だよの意味を込めて、ぽんぽんと上からそれを叩いた。 「だったら俺も辞めます、さとりさんの下で働きます」 「あはは、まぁ君ならそう言うんじゃないかと思ってたけど」 「ダメなんですか」 「ダメじゃないよ、ダメじゃないんだけど。でも君はちゃんと仕事のできる人だし、真中さんも柴さんも期待してるみたいだから、自分のことをもっとちゃんと考えな」 「・・・俺はさとりさんの側に居たいだけです」 捨てられた何かの動物みたいに悲痛そうにそう呟く鹿野目の手を、またぽんぽんと上から撫でて堂嶋は笑った。鹿野目ならそう言うと思っていたし、そういう鹿野目の選択のことを、きっと自分は心のどこかで喜んでしまうことを、堂嶋は誰にも言わなかったけれど分かっていた。鹿野目が辞めると言った時、あまり所員に関心のなさそうな柴田があんなに心配していたのだ、堂嶋はその時のことを、その時の柴田の言っていたことの意味が、後になってからようやく分かったような気がした。 「うん、ありがとう。でもね、俺は鹿野くんには事務所に残ってほしいと思ってるんだ。自分がどれだけできるのか、試してみるのも悪くないんじゃないか」 「・・・―――」 「離れたって俺たちはきっと大丈夫だよ、鹿野くんもそう思うだろう?」 黙ってしまった鹿野目を見上げて微笑むと、鹿野目は急に腕を動かして、堂嶋のことをぎゅっと抱き締めた。自分の言葉で鹿野目の選択を、いつか歪めてしまうのでは、誤らせてしまうのではと思っていた。否定されないのが怖くて、ずっとそう思っていたけれど、きつく抱きしめられた体が軋んで、鹿野目はきっとそれを分かってくれるだろうと堂嶋ははじめて安心できた。 「よし、分かったらもう寝よう、明日帰らなきゃ」 「・・・さとりさん」 「なに・・・―――?」 その時、ふっと堂嶋の視界の隅でふすまが動いたような気配がした。まさかと思って見やると、すっと音もなくふすまが動いて、そこから翔が顔を覗かせた。あれだけいつも煩いのに翔はその時黙ったまま、にやっと笑って日本酒の一升瓶を嬉しそうに堂嶋に見せてくる。飲もうと思って持ってきたようだった。さっと頭から血が降りる気配がした。鹿野目は丁度翔には背を向けているので、その変化には気づいていない。慌てて堂嶋は鹿野目の背中をばしばしと叩いた。鹿野目はまだ堂嶋を抱き締めた格好のままだった。 「ちょ、鹿野くん、はなし・・・―――」 「いやだ」 「え?ちょっと!何言って・・・!」 「いやだ、俺はもう一生、さとりさんのことを離さない!」 「うわ・・・―――!」 堂嶋はそれを聞いて、耳まで真っ赤になるしかなかった。それを見ていた翔にきっと大声で笑われるものだと思っていたが、その時翔はただ口元を綻ばせてにっこり笑うと、そのままふすまをぴったり閉めてどこかへ行ってしまったようだった。堂嶋は湯だった頭のままでその閉められたふすまを見ながら、きつく体を抱き締めてくる鹿野目のことを、今日だけは許そうと思った。

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