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最悪の出来事

円はスマートフォンをローテーブルに置き、ベッドに寝転がると、ベッド脇に置いていた通信教育のパンフレットを手に取った。 円は今、将来を見越して、何らかの資格の取得を考えているところなのだ。 『人気上昇中!長く安心して働ける医療事務講座』とか『調剤薬局事務は資格の取りやすさが人気です!』などといった誘い文句が踊っているページに目を通すが、なかなか集中できない。 今は問題が山積みだから、資格どころではないのだ。 ──今月の納期は無事に守れたけど、次の注文が増えてるし… 何より、今は大木くんのことが最優先だな 翌日、出社すると軽井沢が受付カウンターに立っていた。 受付に異動させられたという小市さんの話は本当だったらしく、カウンター前にいる男と何か話している。 美形だが、軽薄そうな男だ。 2人とも声が大きいから、会話の内容がそこそこ離れたところにいる円の耳にまで入ってくる。 「ジュンちゃん、昼休みになったらメシ行こうよ」 「お引き取りください!」 軽井沢があせった様子で男を追い返そうとした。 ジュンちゃんというのは軽井沢の下の名前だろうか。 「冷たいなー、営業に来るって言ってたでしょ?」 「ホントに来るな!僕まで遊んでると思われるだろ!」 カウンター前の男は、軽井沢の反論などろくに聞き入れもせず、ヘラヘラと笑うだけだ。 「やだ、何あれ?仕事中なのに…」 「あの子、オメガだもん。会社でだって関係ないんじゃない?」 近くにいた女性社員たちが聞こえよがしに話し合う。 軽井沢は普段の仕事ぶりからか、他の部署の人間にもあまり信頼されていないようだ。 「うわー、オメガって大変だね」 「誰のせいだと思ってんの⁈」 軽井沢と男の言い合いは続く。 ──ああ、いけない、マスクとメガネを忘れた 軽井沢や女性社員の会話をよそに、円は自分の忘れ物の心配をした。 メガネはもともと伊達メガネだし、無くても視界が悪くなることはない。 たった1日なら、我慢できる。 ──マスクは、近くの百均で買おう 余計な出費になっちゃうけど… 「何騒いでるんだ?」 あまりに大声で騒いでいたからか、常務が近づいてきた。 「あ…常務」 軽井沢が気まずそうな顔をした。 「社の入り口だぞ、恥ずかしいとは思わないのか?」 「す、すみません…」 「君は確か、オメガだったな。繁殖の相手探しは結構だがね、少しはTPOというものを弁えてほしいもんだ」 常務がわざとらしくゴホンと咳払いした。 「申し訳ございません」 軽井沢が縮こまる。 「3ヶ月ごとに公休を取ってるというのも君か?」 軽井沢は俯いたまま、黙り込んでしまった。 ちょっと考えてみたら、こんなことを言われるのくらい、わかっていただろうに。 なんだってわざわざ、オメガであることを公言するのだろう。 拘束具もつけてないし、あんな無防備な状態でよく外を出歩けるものだ。 「少しは富永くんを見習うことだな。彼だってオメガなのに、休まずしっかり働いているぞ」 常務の言葉を聞いて、周囲にいた人がぐるりと首を回し、円の方へ目を向けた。 ──どういうこと? ボクがオメガだってこと、なんで知ってるの? 円は体が石のように硬くなって、身動きが取れなくなってしまった。 周りの人がヒソヒソと何か話し始める。 ああ、オメガだとバレてしまった、どうしてくれるんだ、と抗議しようにも、唇が震えてまともに動かない。 「常務!それ、アウティングってヤツですよ⁈」 いつの間にか背後にいたらしい大木が、常務に詰め寄ってきた。 「すみません、常務。彼、オメガだってこと隠してたんです。知らなかったとはいえ、今のは立派な問題発言ですよ?受付の彼にだって…さっきのは立派な差別発言じゃないですか?性的侮辱だと思います!彼らに謝るべきじゃないですか?じゃなきゃ、私、然るべきところに言いつけますよ?」 知智さんも割って入ってきた。 騒ぎを聞きつけて、集まってきた野次馬の中からも、常務を批判するような声が聞こえてくる。 先ほど聞こえよがしな会話をしていた女性社員たちは、ばつが悪そうな顔をして、逃げるように去って行った。 しかし、今の円にとっては、そんなことどうでもいい。 「……あ、すまないね、富永くん。その、君が隠してること、知らなくてな…」 下の立場の人間とはいえ、結構な人数に批判されたとあっては、自分の立場が危うくなると考えたのかもしれない。 放心状態で突っ立ったままの円に、常務がおそるおそる近づいてくる。 途端、常務の開いた口からピッと唾液が飛んできて、円の頬に飛んだ。 次の瞬間、円の脳裏にあのときの景色が浮かんでくる。 包丁を持った女がリビングに入ってきて、その場に立っていた中年男の背中を刺した。 中年男の大柄な体が、ドンっと大きな音を立てて倒れる。 次に、ソファに腰掛けていた細身の男が「痛い、痛い!」と叫んだかと思うと、彼の肩や腕から血が流れ出した。 彼も女に包丁で切りつけられたらしい。 女から逃げようと立ち上がった瞬間、転倒してしまった。 うつ伏せに倒れた男の背中からは血が吹き出している。 その吹き出した血が、円の頬にピッと飛んできた。 そばにいた少年が悲鳴をあげ、一目散に逃げていく。 少年の後を追うように、5人の男女が逃げ惑う。 肩と腕を切りつけられた細身の男が最後尾で、傷口から流れ出る血を止めようと手で押さえていた。 女のわめき散らす声がリビングに響く。 「あなたが悪いのよ!よりにもよってアイツと!!」 その後も延々と恨み言を吐き続けたかと思うと、女は持っていた包丁で自分の首を掻き切った。 その切り口から吹き出した血が、またしても円の頬に飛ぶ……… 「あ……富永くん…か?」 目の前の常務の言葉が、頭に入ってこない。 円は視界が真っ白になって、まともに立っていられず、その場で倒れた。 意識が戻りつつある最中、円は夢を見ていた。 忌まわしい、あの事件の光景が、DVDを再生するように鮮明に円の頭に浮かんでくる。 場所は、タワーマンションの最上階。 広々としたリビングにはマホガニー材のテーブルセット、黒革張りの4人掛けソファ、最新モデルの家電、背の高い観葉植物。 マホガニー材のテーブルには大小さまざまな料理が乗った皿が隙間なく並べられ、場所が無いからと本棚の上にまで皿を置いていた。 ダイニングキッチンから、いい匂いが漂ってくる。 「おまたせー、ローストビーフできたよ!」 明るくて元気の良い女の声が聞こえてくる。 カラーリングのお手本みたいにきれいな茶色で染められた女の髪が、ライトの光で艶めいている。 歳の頃は20代後半くらいだろうか。 この人は確か、父の10番目くらいの愛人だ。 名前は「ヒメコさん」といって、いつも料理していた記憶がある。 ヒメコさんが出来上がったローストビーフを皿に並べていくと、他の愛人がそこに寄って来た。 「おいしそー!あ、円くん、コレ食べる?」 ローストビーフの隣にあったフルーツの盛り合わせを片手に持って、若い男が円に近づいてきた。 この人は確か、「アキラさん」と呼ばれていた人で、15番目くらいの愛人だった。 円の記憶が正しければ、歳は20歳だと言っていたはずだ。 「何が食べたい?オレンジもあるし、キウイもあるよ」 円は皿の上に丁寧に並べられたフルーツの中から、無言でサクランボを取って食べた。 「あ、それにするんだね!豪貴(ごうき)さんも食べる?」 円の無礼な態度に気を悪くするでもなく、たしなめるでもなく、アキラさんはソファに座っている中年男に話しかけた。 「うん?ああ、オレはパス。フルーツそんなに好きじゃないんだよ」 アキラさんの方へほとんど顔を向けることなく、中年男が気怠そうに答える。 中年男はソファに大股開きで座ってテレビを見ている最中で、隣に座っている細身の男の肩を抱いている。 この中年男は、円の父だ。 40歳にもなるのに、20代前半の若者かのように赤茶色に染めた髪に、スパイラルパーマをあてている。 加えて、胸元にスカルがプリントされた黒いTシャツを着て、ロールアップにしたジーンズを履き、腰からはウォレットチェーンを垂らしている。 本人はまだ若いつもりなのだろう。 しかし、若いのは服装と髪型だけだ。 パーマをあてた髪には艶が無く、よく見ると頭頂部の髪は薄い。 今にして思えば、薄くなってきた髪をごまかすためにあの髪型にしていたのかもしれない。 目元や口元には年相応のシワが寄り、頬はむくみやたるみが目立つ。 腹はだらしなく膨らみ、着ているシャツは今にもはち切れてしまいそうだった。 40歳の顔と体に、20代前半の若者ファッションという風体は全体的にバランスが悪く、見ていて気分のいいものではない。 「あ、もしもし?拓美(たくみ)さん、仕事は?そう、じゃあ待ってるね!えっとね、ローストビーフとフライドチキンと、ポテトサラダにピザとパスタもあるよ。ヒメコさんが作ってくれてるところ」 リビングの隅で、豊満な乳房を持つ30歳前後の女が電話している。 彼女は「ナオミさん」といって、確か5番目か6番目くらいの愛人だった。 「円くんのお母さん、さっき仕事が終わったんだって」 ナオミさんが受話器を置いて、円に話しかけてきた。 「そっか。ほら、ごはん食べよう。お母さんの分を残しとこうね」 30代半ばの男が、優しく円に話しかける。 この人は「ユズルさん」で、父の最初の愛人だ。 父の寵愛を一番強く受けていたらしく、円の腹違いの兄と姉を5人も産んでいた。 「オレ、コレ食べる!」 ユズルさんの長男が、シフォンケーキが乗った皿をひったくるように持っていき、皿を床に置いて手づかみで食べ始めた。 「こら!こっちに座ってフォークで食べなさい。円くんにもあげるんだよ。ほら、円くん、こっち座って。一緒に食べようね」 ユズルさんは折りたたみテーブルを広げて、子ども用のスツールも用意した。 「どれも美味そうだなあ、お前の体に乗せて食いてえわ。今日はたくさん楽しもうな!」 父はソファから立ち上がると、テーブルに並べられた料理を眺めながら、アキラさんの尻を撫でた。 「やだあ、豪貴さんのエッチ!」 アキラさんが大袈裟にはしゃいだ。 「最近アキラくんばっかでズルーい!」 ナオミさんが父にすり寄り、胸を押し付けるようにして腕を絡める。 「ワタシも、楽しみたいな…」 ユズルさんの細くて白い指が、そろりと父の首筋を撫でた。 「ぼくも!」 父の隣に座っていた30代前半の細身の男も、その輪の中に加わった。 彼は最近になって連れてこられた愛人で、「シュンスケさん」と呼ばれていた。 「わかったわかった。みんなで楽しもう!」 寵愛を繋ぎ留めるための美辞麗句にすっかり気を良くした父は、愛人たちの体を好き勝手に、変わるがわる弄り始めた。 「ねえ!オレ、コレも食べたい!!」 ユズルさんの長男は、大人たちの事情など知ったことではないとばかりに、フライドチキンが乗った皿を指差した。 「うん、いいよ。ねえ豪貴さん、早く食べて、たくさん楽しもう?」 ヒメコさんはフライドチキンが乗った皿を長男に渡すと、父に意味ありげな視線を向けた。

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