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真相は残酷
そんな大人たちを尻目に、円はユズルさんの長男が持ってきた料理を手慰み半分に口に運んでいた。
正直な話、あまり美味しいと思えない。
ヒメコさんの料理は、子どもが食べるには味付けが濃過ぎるのだ。
しかし、ヒメコさんはそんな配慮ができる人ではない。
今だって、「豪貴さん、アーンして!」などと言って、父の機嫌を取るのに夢中になっている。
他の愛人も同じようなものだ。
長男は長男で、いつしか円が食べる分を持っていくのを忘れ、自分だけ好き勝手に食べるようになっていた。
幸い、大して空腹というわけでもなかったから、円は大人たちと長男の食べ残しを、つまむ程度に食べるだけで終わらせた。
食事が終わると、子どもがそう遠くない場所にいるのもお構いなしに、父と愛人たちがイチャつき始めた。
テレビは長男が占拠していて、退屈を持て余した円は、リビングの端に座って絵本を読み始めた。
何のことはない。
幼少期の円にとっては、これが当たり前だった。
母が仕事に行っている間はここに預けられることが多かったが、大抵はほったらかされていた。
正確には「預けられている」というより「置かれている」と言った方が妥当だろう。
円の記憶にある父と愛人は、平日の昼間だろうと、子どもが近くにいようと、いつでも情事に夢中だった。
愛人たちは金も地位もある父と番になれたことに誇りを感じていたのか、スカーフやマフラーなんかで首元を隠すなんてことはしていなかった。
そればかりか、首筋の噛み傷を見せびらかすように、いつも首元の開いた服を着る者までいた。
いつだったか夜中に目が覚めて、妙なうめき声が聞こえてきたことがある。
声のする方へ行ってみると、キングサイズのベッドの上、父と3人の愛人たちが絡まり合っていた。
うめき声は愛人たちの喘ぎ声で、その声がうるさくて全く眠れず、幼い円は、それを数日続けざまに目撃する羽目になった。
あるときはリビングのテーブルの上で情事に耽り、別の日は風呂場で事に及ぶ。
父が愛人ひとりと睦み合うことはほとんどなく、大体は複数を相手にして楽しんでいた。
幼い頃はそんな光景をただ呆然と見つめているだけであったが、成長して思春期にさしかかり、父と愛人たちが何をしていたか知ったときは、異様なほどの吐き気を催した。
父と愛人たちはセックスばかりでなく、別の面でも奔放だった。
ときどき、リビングが白い煙で充満するくらいにタバコを吸うし、酒も浴びるように飲み続ける。
父は20歳くらいからずっとこんな調子だったらしい。
結果、若い頃は誰もが惚れ込むほどの美青年だった父は、あっという間に老け込んでしまった。
日頃から、こんな乱痴気騒ぎに明け暮れているような連中のことだ。
鍵もドアロックもかけていない玄関ドアから侵入してきた本妻に、気がつくわけもない。
マンション自体のセキュリティは立派でも、本人たちの防犯意識は呆れるほど低かった。
「え?あ、お、お前⁈あっ!」
悲鳴をあげて逃げる間もなく、侵入してきた本妻に、父は背中を2回刺された。
父の大柄な体が、ドンっと大きな音を立てて倒れて、背中から吹き出した血が円のいるところまで飛んだ。
「え…あなた、奥さん?え?ああ⁈豪貴さん⁈」
ユズルさんがパニックを起こして、尻餅をつく。
そうしているうち、本妻はシュンスケさんの肩と腕を切りつけた。
「ああっ、いたい!痛いい!」
女に切りつけられたシュンスケさんが血まみれになって叫んだ。
「ぎゃあああーー!!」
その様子を見たユズルさんの長男が泣き叫び、あっという間に逃げ出した。
愛人たちもそれに続くように走り出し、遅れて走り出したシュンスケさんは転倒した。
それでも、シュンスケさんはなんとか体の力を振り絞って起き上がると、よろよろと頼りない足取りで逃げていった。
その場にいる誰もが我が身を守ることに必死で、父の血をかぶった円を気にかける者はひとりもいなかった。
報道では円は「逃げ遅れた」などと表現されていたが、実際は置き去りにされたのだ。
「あなたが悪いのよ!よりによってアイツと!………シュンスケなんかと!!」
本妻が泣き叫び、自らの首を包丁で掻き切ると、切った首から吹き出した血が円の方へ飛んでくる。
飛んできた血が円の頬を伝って、床に広がった血だまりに落ちた。
本妻の首はしっかり切られていなかったらしい。
切り口から血が吹き出すのと同時に、生々しい呼吸音も聞こえてきた。
それから、どのくらい経ったのだろう。
玄関ドアが開く音がして、知らない男が入ってきた。
紺色の背広を着て、制帽を目深に被った警察官2人組だ。
2人とも、こういった現場に慣れているのか、目の前の惨状に少しも物怖じしない。
年配の警察官が円を見つけるなり、脇目もふらずに目の前まで近づいてきた。
「坊や、大丈夫かい?おじちゃんと一緒にここを出よう。ほら、抱っこしてやる」
警察官が円に向かって腕を伸ばすが、それを拒否するかのように、円は無言で後退りした。
あのとき、警察官は親切に接してくれていたのに、なぜ避けてしまったのか。
円自身、未だに理解できないままだった。
「この女、まだ息があります!」
本妻の様子を伺っていた若手の警察官が叫ぶ。
「救急車を呼べ!まだ助かるかもしれない!!」
命令を受けて、若手の警察官は無線機を取り出し、現場の状況を説明した後、無線機の向こうの相手に救急車をよこすように要請した。
「子どもも搬送した方がいいかもしれん。これだけ血をかぶってるようじゃあ、感染症の疑いがあるからな」
「わかりました!」
「坊や、外に出よう。悪いところがないか調べるから、まずは病院に行こうな」
有無を言わさず警察官に抱き上げられ、円は外に連れ出された。
外に出てみれば、パトカーが数台、マンション前に駐車されていた。
マンションの周囲一帯は「立ち入り禁止」と書かれた黄色いテープでぐるりと囲まれていて、その向こうでは野次馬が群がって、人の壁ができていた。
野次馬の中には、何度もフラッシュをたくカメラマンや、マイクを持ったテレビリポーターなんかもいた。
よく見ると、少し向こうに中継車両が停まっている。
分厚い人の壁を突き破らんばかりに、けたたましい母の叫び声が聞こえてきた。
「円!ねえ、何があったの⁈息子は大丈夫⁈」
「落ち着いてください!」
警察官と母が揉み合う中、円は救急車に乗せられ、地元の病院へ搬送されていった。
かぶった血液量がなかなかのものだったから、検査は綿密に行う必要があった。
幸い、円にこれといった異常は見られず、入院期間も短いものだった。
事件から25年経った今も、体に大した異常は見られていない。
事件発生当時、各報道機関はこのことを「地獄の様相」と表現したが、円にとっての地獄は、事件の後にやってきた。
父はメディアにもたびたび露出していたから、世間にそこそこ名が知れていた。
体裁を気にしてか、オメガを何人も囲って、異常な数の子どもを産ませていたことは隠していたものの、今回の件で全てが露呈してしまった。
「オメガによるアルファ殺害」「著名人の死亡」という点から、この事件は嫌でも注目されるようになる。
少しでも有力な情報を手に入れようと、マスコミ関係者はマンションの住民や管理人、父の親族、愛人の実家、母の職場、とあちこちに踏み込んできた。
まだ幼い円に「お父さんが死んでどう思う?」と聞いてきた無神経な記者もいた。
いつもは冷静な母も、そのときばかりは「うちの子に近づかないで!」と般若のような顔をして怒り狂った。
事件が終息し、母と円が別の地へ引っ越して新しい生活を始めても、思い出したように取材に来る者もいた。
突撃取材は円が家を出る18歳まで延々と続き、心の奥底から辟易とさせられた。
しかし、何より円をうんざりさせたのは、父亡き後の愛人たちの醜態だった。
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