17 / 34
医務室
目を覚ますと、見たことのあるような、無いような、部屋のベッドに寝転がっていた。
ガバッと起き上がって辺りを見回すと、ベッド脇に知智さんと保健師、すまなさそうな顔をした常務がいた。
「あ…トミーくん、まだジッとしてた方が……」
知智さんが心配そうな顔をして、円の肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ。あの、ボク…何があったんですか?」
円はもう一度、辺りを見回してみた。
おそらく、ここは会社の医務室だ。
ここに入ったのは何年ぶりのことだろうか。
入社して間もない頃、ダンボールの角で指を切ってしまい、絆創膏を貰いに行ったことがある。
しかし、世話になったのはその一度だけで、それから数年間、前を通ることすらなかった。
ここのベッドに寝転がるなど、今日が初めてのことだ。
「あなた、会社のエントランスで急に倒れたのよ」
知智さんが、円の背中を優しく撫でさすった。
「そうですか…お手数おかけしてすみません」
「富永くん、すまなかった。君がオメガなのは知ってたんだが、隠してたのは知らなくて…」
常務はすまなそうな顔をしたまま、うなだれた。
万が一を考えて、円は会社の上層部にオメガであることを通告してはいた。
しかし、オメガであることを秘匿したい旨まではしっかり伝わっていなかったらしい。
それで今回のような事態に発展したのだという。
「これは、会社全体の問題だと思う。その…このことについて、社の上層部で話し合おうと思ってるんだ。君の今後についても…」
「いえ…そこまでは…」
はっきり言って、あまり大事にされたくはない。
しかし、あれだけの騒ぎになった以上、円がオメガであることを知った人は何人もいるだろう。
何なら、会社全体にバレてしまったかもしれない。
これから、自分はどうなるのだろう。
それを考えると、頭が痛くなる思いだった。
「ねえ、トミーくん。顔色悪いわよ。先生、この子大丈夫でしょうか?」
「軽い貧血です。話を聞いたんですけど、このところ残業続きで休みなく働いてたそうですね。その無理が出たんだと思います。ちゃんと寝てました?食生活はどうでした?テキトーにすませてなかったですか?」
保健師が詰め寄るように質問してくる。
「ああ、確かに…」
保健師の言っていることは当たっていた。
このところ、食べることすら面倒で、まともに食事を摂っていなかったのだから、倒れるのは当たり前だ。
「はっきり言って、このまま仕事するのは危険です。今日は休んだ方がいいかと」
「そうか。じゃあ、今日はもう帰りなさい。無理をして、また倒れたら大変だからね。他の人には、私から連絡を入れておく」
「はい…」
こんなことで迷惑をかけてはいけない、と思っていたが、保健師と上司の命令とあっては断れない。
まだ頭がほんのりボーっとするし、帰った方がいいのは事実だろう。
「すみません。お先に失礼します」
円はベッドから起き上がり、医務室を出て行った。
「うん、お大事に」
知智さんが手を振って、円に別れを告げる。
荷物をまとめて会社から出ようとしたところ、軽井沢が自販機の前のベンチに座っているのが見えた。
休憩なのだろうか、片手にペットボトル飲料を持っている。
「あの、すみません…」
円を見つけるなり、軽井沢が近寄ってきて、何に対してなのかわからない謝罪を始めた。
「何を謝ることがあるの?」
「あ……えっと」
軽井沢が言い淀む。
「ボクに謝るより先に、知智さんにお礼言いなよ。君のことかばってくれたんだよ?」
「はい……」
「ねえ、受付に来てたあの男の人ってアルファ?君の彼氏?」
「違います…あ、アルファだけど。その、合コンで知り合ったんですけど、しつこくまとわりついてきて…酷いこと言ってくるし、断っても断ってもやって来るし…」
「酷いことって?」
「あの人、その…「結婚はしないけど、番になって子ども産んでくれ」って言ってきて…「俺、番を集めてるんだよね!」とか、僕のことコレクションの一部みたいな物言いするし…」
軽井沢の表情が曇る。
いつもはしたり顔で人様を見下しているくせに。
お調子者な彼も、力のあるアルファの前では無力なのだろう。
その様子に、円は何だか苛立ってきてしまった。
「いいこと教えてあげるね、金持ちのアルファで一穴主義なんてほとんどいないから。いたとしても、そういう人は自分と同じくらいの能力があるアルファと結婚するんだよ。学も技能も地位もない、まともに仕事しないボンクラのオメガなんか見向きもしないよ」
思わず口に出た言葉がそれだった。
円は軽井沢がどうしても好きになれない。
まともに仕事をしないから、というのもあるが、一番の理由は、あの愛人たちに通じるものがあるからだ。
見てくれはキレイだが、考えなしで自分勝手そのものな彼らに。
軽井沢純じゅんは、遊び仲間の橋はしすみれと居酒屋で談笑していた。
「いやー、こないだの合コン、ホントに大成功だあ。あの人は大当たりだった!」
軽井沢は梅酒のソーダ割りを飲むと、軽くゲップをした。
「私はビミョー、あそこにいた人たち、私はなーんかイヤなカンジする」
「イケメンで金持ちでさあ、優しいだけじゃなくて取っつきやすくて…もう役満!僕も本気出すときが来たってカンジー」
すみれの愚痴など完全に無視して、軽井沢は自分の話を続けた。
「アンタのそのセリフ、もう聞き飽きたよ。どーせ、またちょっとしたことで勝手に幻滅して台無しにするんでしょ?」
すみれはスマートフォンをいじりながら、軽く鼻で笑った。
「しませんー、ま、すみれはご祝儀の準備でもしててよ!」
「はいはい」
まだ数回食事しただけなのに、もう結婚するつもりでいる軽井沢に呆れつつ、すみれはビールを一口飲んだ。
そんな言葉を交わした数日後、軽井沢は合コンで知り合ったアルファと食事に出かけた。
三つ星ホテルの最上階にある、夜景が見えるフレンチレストランだ。
──こんなとこ、初めて
この人、ガチのアタリだ!
「純くん、今日は仕事帰りなんだってね、お疲れ様」
アルファの男は、ナイフとフォークをカチャカチャ鳴らしてテリーヌを刻んだ。
「そんな…大貴だいきさんも、お疲れ様です。僕の仕事なんて、あなたに比べたら大したこと無いですよお」
軽井沢はわざとらしく握り拳を頬に当てて、首を傾げた。
「いやー、オレなんて何もしてないよ、ハンコ押してるだけ!」
アルファの大貴が大口を開けて、テリーヌを飲み込むように食べた。
「純くん、受付に異動したんだっけ?」
「そうなんです…その、僕、オメガだから3ヶ月に1度は休んでるし、残業も難しいから…そのへんで職場の歳上の人たちに嫌われちゃって…」
軽井沢は伏し目がちに大貴を見つめた。
「大変だねえ、オレなら、そんな思いさせないよ」
大貴が憐れむような視線を送ってくる。
「そんな風に言ってもらえるなんて…僕、嬉しい」
軽井沢は大貴に倣うようにして、テリーヌを一切れ、口に放り込んだ。
「へえ…ねえ、オレと番にならない?」
──これ、「結婚して」ってことだよね!
やった!寿退社!!
しかし、軽井沢の期待はあっという間に、きれいに打ち砕かれた。
「オレさ、番集めてるんだよねー。今は番が5人いるんだけど…子どももたくさん欲しいんだ。自分の子どもだけで球団作るのが目標なんだよね。あー、だから、なるだけたくさん産んでくれる?最低でも3人は産んで欲しいなあ。仲間内じゃ子どもが何人いるかで競い合ってるし」
「え?えっと?」
驚きのあまり、軽井沢は間抜けな声を出した。
この男は何を言っているのだろう。
「何か不満なの?欲しいものは何でも買ってあげるし、オレ、浮気もオッケーだよ?」
「あ…「番が5人いる」って、大貴さん、結婚されてるんですか?その上で、他にも…」
噛みきれなかったテリーヌを口の中でもぐもぐ動かしながら、軽井沢は答えた。
「いや、オレ、結婚はしないの。誰か1人に絞るとかできないよ。オレは博愛主義だからさ!まあ、全員が愛人ってかたちで…君もそのつもりでね!」
「え…そんな……」
嫌です、と告げようとしたところ、男は嫌味っぽい表情を浮かべた。
「え、結婚すると思った?なに勘違いしてるの?アルファとオメガは主従関係なんだよ?オメガに拒否権とかないから!」
大貴はテリーヌのかけらが刺さったフォークの先を、軽井沢に向けてきた。
「あ…あの、すみません、今日は失礼します!」
予想外な出来事に軽井沢はパニックになり、急いで自分のバッグを掴むと、走って店を出て行った。
これが気に食わなかったらしい大貴は、会社の受付までやってきて、ちょっかいをかけてきた。
それだけならまだ良かったが、そこを常務に見つかり、嫌味を言われる羽目になった。
この際に、常務の不注意な発言が原因で、職場の先輩がオメガだと発覚したと同時に、辺りは騒然となった。
そして、どうしたわけか、その先輩が卒倒して、騒ぎが大きくなり、そのどさくさに紛れて大貴は逃げていった。
結構な大騒ぎの割に、5分ほどで辺りは鎮まりかえって、軽井沢はすぐに受付業務に戻ることができた。
それでも、倒れた先輩のことが気になって、なかなか業務に集中できなかった。
休憩に入った際に出くわしたときには、顔色があまり良くなかったものの、立って歩ける分には回復しているようで、心底ホッとした。
「……あの、すみません」
何か言おうと近づいたはいいが、どんな言葉をかければ良いかわからず、反射的に謝罪の言葉を投げかけた。
「何を謝ることがあるの?」
先輩が睨みつけてくる。
彼はいつもはマスクとメガネをしていて表情がわかりにくいが、今日は違う。
顔が全部出ていると、眉間の皺や眼光の鋭さがよくわかる。
いつもは大人しくて目立たない彼は、こんな表情をして怒るのか、と軽井沢は怖くなった。
「あ……えっと」
軽井沢が言い淀む。
先輩の言っていることはもっともだ。
一体、自分は何に対して謝っているのだろう。
「ボクに謝るより先に、知智さんにお礼言いなよ。君のことかばってくれたんだよ?」
「はい……」
「ねえ、受付に来てたあの男の人ってアルファ?君の彼氏?」
「違います…あ、アルファだけど。その、合コンで知り合ったんですけど、しつこくまとわりついてきて…酷いこと言ってくるし、断っても断ってもやって来るし…」
「酷いことって?」
「あの人、その…「結婚はしないけど、番になって子ども産んでくれ」って言ってきて…「俺、番を集めてるんだよね!」とか、僕のことコレクションの一部みたいな物言いするし…」
軽井沢の話を聞いた先輩の表情が、ますます険しくなる。
「いいこと教えてあげるね、金持ちのアルファで一穴主義なんてほとんどいないから。いたとしても、そういう人は自分と同じくらいの能力があるアルファと結婚するんだよ。学も技能も地位もない、まともに仕事しないボンクラのオメガなんか見向きもしないよ」
「え…」
普段はあまり話さない先輩が、急に激しい言葉で自分を批難し始めたことに、軽井沢は驚きを隠せなかった。
「ほんとに今さらだけどね、お前いい加減まじめに仕事しなよ。しないならしないでサッサと辞めてくれる?どうせ寿退社する気満々でテキトーな気持ちでやってんだろ?」
「あ…」
図星をつかれてしまって、軽井沢は何も言えなかった。
「お前がろくに仕事しないとさ、知智さんの評価にも関わってくるんだよ。何であの人がお前なんかをかばったか知ってる?親切心ってのもあるけどね、知智さん、昇進かかってるんだよ。娘さんが受験生でこれからお金がかかるから必死に働いてんの!」
先輩の批難は止まらない。
「ケミーちゃんなんか英会話に通いたいのも我慢して毎日2時間以上は残業してるよ。ゆくゆくは彼氏と結婚して旦那に万が一のことあったら旦那を自分が養いたいから、そういうスキルつけたいから、地道に勉強がんばってんの」
──ケミーちゃん?
ああ、確か清水さんがそんな風に呼ばれてたな
「お前だけだよ。将来のことなんかなーんにも考えずに「結婚すればどうにかなる」みたいな甘ったるい考え方で仕事してるの。だからお前はろくでもないアルファに引っかかったんだ。まともな人は絶対お前なんか選ばないね!他人はお前が思うほどバカじゃないよ」
軽井沢は気まずい気持ちのまま、そこで立ち尽くすだけだった。
快く思われていないのは、うすうす気づいていた。
しかし、こうも強く責め立てられるのは予想の範囲外だ。
「M区のタワマンで本妻に刺し殺されたバカなアルファの話、知ってる?」
「え?まあ…はい」
突然、どうしてそんなことを言い出すのだろう。
軽井沢は今、目の前に立っている先輩が別の生き物のようにさえ感じられた。
「そのアルファに囲われてたバカなオメガの愛人、アルファが死んだ後はどうなったと思う?大半は貧乏になって泣いて過ごすハメになったんだよ。オメガに就ける仕事なんて限られてるし他の番を探そうにも歳食ってコブつきのオメガなんか拾ってくれる人いないし、そもそもアルファに依存してソイツの金で遊んでばっかいた奴がいきなり働けって言われても土台ムリだもの。酷いヤツは生活に困って窃盗して逮捕されたんだってさ。お前もいつかそうなるんじゃない?」
「………その…ずいぶん、お詳しいんですね」
ようやく出た言葉がそれだった。
通常、こうまで言われたら腹が立ったり、悔しくて涙が出そうなものだが、こうも猛烈に怒りをぶつけてこられると、もう何を言ったらいいのかわからない。
「その刺し殺されたバカなアルファの男、ボクの親父だよ」
先輩はそう言い捨てると、足速に去って行った。
ともだちにシェアしよう!