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帰宅
今の今まで溜まっていた不満を全てぶちまけると、軽井沢の脇をすり抜けるようにして、円はその場を去って行った。
「あ、富永くん、あー…その、家まで送って行こうか?」
途中、出くわした日並さんに声をかけられた。
「大丈夫です」
半ば突き離すようにして日並さんの申し出を断り、円は急ぎ足で会社を出た。
会社を出てしばらく歩くと、視界が白んできて、頭も上手く働かない。
霧の中を歩いているみたいだ。
そんな調子だから、駅まで歩いていく間も、駅に着いて電車に乗った後も、足がふらついて、家に帰るのにかなり難儀した。
やっとの思いで家に着くと、ドサっと大きな音が響くくらいの勢いでベッドに寝転がった。
──もう、仕事は辞めてしまおう
次の仕事見つけるまでの間、貯金が減ってしまうけど、止むを得ないな…
あんなにボロクソ言えば完全にパワハラ扱いだし、軽井沢くんが誰かにチクったら、クビになることもあり得るし……
ああまで言えば軽井沢だって黙っていないだろうし、最悪の場合、円が事件の関係者であることを誰かに話すかもしれない。
──ついカッとなったとはいえ……
やっちゃったな、もうダメだ
オメガであるのに加えて、事件の関係者であることが発覚すれば、好奇の目を向けられ、無遠慮な人にあれこれ詮索される未来がやって来るのは明確だった。
──そんなの冗談じゃない
下世話な噂話のタネにされながら仕事するなんて、耐えられない。
慣れ親しんだ職場を離れるのは辛いが、仕方のないことだ。
いつ辞めるか、どう理由をつけて辞めるか、それは後で考えることにした。
何せ、今は頭がボーっとして考えがまとまらないし、体が鉛のように重たい。
異常なほどの倦怠感に襲われて、円は目を閉じた。
しばらく寝込んでいると、誰かの足音が聞こえて、目が覚めた。
「円、生きてる?」
母だった。
ベッド脇にしゃがみ込み、円の顔を覗きこむように見つめている。
「何で来たの?」
むっくりと上半身だけを起こすと、目の前に立っている母を睨んだ。
「寝てなさい。具合悪いんでしょ?会社から連絡あったんだよ。急に倒れたって聞いたから、様子見に来たんだ」
「そう…」
円は母に言われた通りに、起こした上半身を元の位置に戻した。
「まあ、その様子なら、しばらく寝てれば問題無さそうだね。水分は摂るんだよ?」
母はキッチンに移動すると、円がシンクに置きっぱなしにしていたコップや皿を洗い始めた。
「うん…ねえ、仕事は?」
円は寝返りをうち、ベッドに横たわったまま尋ねた。
「息子が危篤だって言ったら、早退けさせて貰えたんだよ。まあ、お前の今の様子見る限り、私いなくても問題無さそうだから、すぐ戻るつもり」
母が食器用スポンジを泡立てて、皿やコップを磨いていく。
「あー…ちょっと、あのさあ…」
そのとき、円は会社であったことを思い出した。
「何、どうしたの?」
母が食器を洗う手を止める。
「大事なことだから、一応言っておくね。僕、会社の人に“あのこと”言ったんだよ」
「……“あのこと”って、お前があのお父さんの子どもだってこと?」
母が濡れた手をタオルで拭き、円のそばに寄って来た。
「そう」
「何でまた、急に?」
母が目を丸くして円を見つめた。
「ちょっとまあ、はずみで…」
母と目を合わせるのが気まずくて、円は視線を逸らした。
「会社の人って……知成くんに?」
「ううん、言ってない。言ったのは1人だけだよ。でも、そのうち全員に言うつもり」
「ああ、そう。その…大丈夫?仕事やりにくくなるんじゃない?」
母が気遣わしげに尋ねてくる。
「大丈夫だよ。全員に知られたら何人かの人は騒ぐかもしれないけど、すぐに黙ると思う。人の噂も七十五日って言うしね」
円はそう言って、なんとか誤魔化した。
仕事を辞めるつもりでいることは、まだ黙っておきたかった。
母は食器を洗い終えると、今度は冷蔵庫に入っていたものを引っ張り出して、円の昼食と夕食を作った。
「ごはん作っておいたから。しばらく休んで元気出たら、チンして食べてね」
「……うん」
思えば、母の手料理など何年ぶりだろう。
実家は市を1つ跨いだ先にあり、電車だと1時間弱かかる。
その気になればいつでも行ける距離だが、円は多忙な上にこれといった用もないからと、ろくに帰省していなかった。
助産師をしている母も忙しく、お盆も大晦日も元旦も仕事が入っていることが多かったから、今までほとんど顔を合わせていなかった。
「じゃあ、もう帰るね。おやすみ」
母はキッチンをある程度掃除し、それを終わらせると、別れの挨拶を告げて円に手を振った。
「うん…おやすみ」
ベッドに寝転がったまま、部屋を出て行く母の背中を見送る。
玄関ドアがバタンと閉まる音がして、何気なく壁を見ると、時計は13時をさしていた。
──今頃はみんな、昼ごはん食べ終わって仕事始めてるだろうな
いや、常務とか日並さんとか、知智さんも…それどころじゃないかも……
母が作った昼食を食べた後も、まだ頭がクラクラしていた。
かろうじて立って歩くことはできるが、これはまだ寝ておいた方が良いだろうと判断して、円はベッドに寝転んだ。
天井を見つめながら、円はいつか見た映画の言葉を思い出していた。
『絶対に失敗しない計画というのは、無計画だ。最初から計画が無ければ、何が起きようと関係ない』
これを聞いたとき、円は無茶苦茶だなと思ったが、今となっては立派な正論な気がした。
映画では、『計画を立てると必ず、人生思う通りにいかない』とも言っていた。
──悲しいくらいの正論だな…
円ははあ、と大きなため息を吐いた。
軽井沢と大木をくっつけて万事解決という計画は、企てる前からパアになった。
そればかりか、カッとなってしまって余計な暴露までしてしまい、自分で自分の首を絞めることになった。
昼間の自分の幼稚でみっともない言動に、円は今さら情けない気持ちになった。
18時頃、インターホンが鳴った。
さて、誰だろうかとドアを開けると、大木がいた。
「円さんっ!」
はあはあと肩で息をしながら、大木は恋人の名前を呼んだ。
「知成くん…どうしたの?」
息も荒く、汗で顔や髪が湿っている大木の様子に、円はキョトンとした。
おそらく、駅からここまで相当走ってきたのだろう。
「どうしたもこうしたもないでしょう!円さん、急に倒れるし…回復したとは聞いたけど、気になって来たんです!」
「そうかい…」
円は内心、不要な心配をかけてしまったな、とわずかばかり反省した。
「…あ、その、突然すみません。元気なら、それでいいんです。帰りますね…」
大木はハッと何かに気がついたような顔をした。
おそらく、仕事が終わったと同時に衝動的に円の家に向かったのだろう。
それが今さらになって冷静を取り戻し、見舞いの品もなく突然来訪してきた無礼に気付いたのか、大木はあわてて帰ろうとした。
「別にいいって。ねえ、上がっていきなよ」
いかにも大木らしい言動に、円は微笑ましい気持ちになって家に入れてやることにした。
せっかく心配して来てくれたのだ、このまま追い返すのも気が引ける。
「え…でも」
まさか、そんなことを言われるとは思わなかったらしい。
大木はわかりやすいくらいに驚いた顔をした。
「もう体調はいいし、何の問題も無いから。ほら、おいで」
円は飼い犬を呼ぶみたいに、大木に向かって手招きした。
「……じゃあ、お邪魔します」
円に招かれると、遠慮がちな、それでいて嬉しそうな顔をして大木は家に入った。
「円さん、無事で良かった!」
部屋に入るなり、大木は円を痛いくらいに強く抱きしめた。
それで勢い余ってバランスを崩し、2人してベッドに倒れた。
「大げさだなあ」
そんな大木に抗議するでもなく、円は大木のたくましくて広い背中を撫でさすってやった。
「…だって!本当に心配だったんですよ?何の脈略もなく急に倒れるし!知智さんからは無事に帰ったよー、とは聞いたけど…途中で倒れてるんじゃないかとか、家で1人でしんどいんじゃないかとか…」
大木は今にも泣きそうな声を出して、頭をぐりぐりと円の顎に押し当ててきた。
──もう、完全に飼い主に甘える犬だな…
円はクスッと笑った。
大きなナリをして心配症で泣き虫な大木に、何ともいえない愛嬌を感じた。
そして、ある決心を固めた。
自分が秘密にしていることを全て話してしまおう。
円が抱えている秘密の中でも、とりわけ大きくて、厄介な秘密。
どうせ仕事は辞めてしまうし、大木とは別れるつもりでいるのだ。
大木の性格を考えれば、誰かに言ったり、下世話な週刊誌の記者に売ることもなさそうだし、知られたところで何の問題もないだろう。
円は意を決して、幼い頃の自分にふりかかった悲劇について話すことにした。
「ねえ…知成くん。ボク、話してないことがあるんだよ。すっごく重要なこと」
大木の背中をさすりながら、円は口を開いた。
「何ですか?」
急に真剣味を帯びた円の声に反応して、大木はむくりと起き上がり、ベッドの縁に腰掛けた。
「昔…もう、25年前だね。M区のタワマンで自分の奥さんに殺されたアルファの男の話、知ってる?」
円も起き上がって、大木の隣に腰掛ける。
「えーと、あー、知ってます。知智さんとか、日並さんから聞いたことあります。被害者の人、オメガの人を何人も囲ってたような人で、子どもも山ほどいたんでしょ?」
大木は記憶を探るようにして首を傾げた。
「そうだよ」
「なんでまた、いきなりそんな話を?」
大木は怪訝な顔をして円を見つめた。
「その刺されたアルファ、ボクの親父なんだよ」
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