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意外な事実
「あ、お兄ちゃん帰ってきた!ね、円さん、お兄ちゃんにその姿見てもらいなよ!!」
「え…ええ⁈」
ドアの音に反応した咲子が、円の手を引いて立ち上がらせた。
円は落ち着きのない犬にリードを引っ張られて振り回される飼い主のように、咲子に手を引かれるまま1階に降りていった。
「お兄ちゃん、おかえり!円さんが来てるよ!!」
玄関まで向かうと、確かに大木がいた。
グレーのスーツを着ていて、手からは白い紙袋を下げている。
円は2週間ほど前に、大木から「再来週は高校のときの先生の結婚式に行くので会えません」と言われたことを思い出した。
「円さん、何でここに?ていうか、そのカッコは……」
玄関上がってすぐ目の前の廊下に立つ円を見て、大木はあからさまに驚いた顔をした。
無理もない。
円は最近こそ身だしなみに気を使うようになったが、飾りっ気がないのは相変わらずだ。
いつも野暮ったい服ばかり着ている恋人が、女物の服を着て化粧までしているのだから、大木が驚くのも当然であろう。
「咲子、お前、円さんを巻き込むなよ…」
しかし、大木はすぐに状況を把握して、呆れ顔を咲子の方へ向けた。
「だって、お兄ちゃんったら、ぜんぜん協力してくれないじゃん!それに、円さんはこういうの似合うし。コレ、ステキじゃない?」
咲子が円の両肩に手を置いた。
「……うん、まあ、かわいいです……」
大木が円を頭のてっぺんからつま先まで凝視したかと思うと、さっきまでの呆れ顔はどこへやら、急に赤面しはじめた。
「でしょー?」
そんな兄の反応を面白がるように、咲子はニヤニヤ笑った。
「じゃあ、次に会うときはこんな服着ようかな?こういう服ってネットで買えるの?」
円も咲子に同調してみせた。
大木の反応が面白くて仕方ないのだ。
「もう!円さん!咲子!俺、引き出物にバームクーヘンもらったんですよ、これ、食べといてください。その間、着替えるんで!!」
大木は咲子に紙袋を渡すと、急いで靴を脱ぎ、2階に上がっていった。
「おお、ラッキー!円さん、コレ一緒に食べよう。お茶を出すわね!」
全員がリビングに集まると、咲子がバームクーヘンをキレイに均等に分けて切って皿に盛り、3人分の紅茶も出してくれた。
Tシャツとジーンズに着替えた大木は少々疲れているようで、大柄な体をソファに預けて、気怠げにバームクーヘンをかじりだした。
「そういえば、自分の家じゃなくて、どうしてこっちに?」
少女趣味なデザインのワンピースを着たまま、円は大木の隣に座っていた。
「あのスーツ、父親に借りたんですよ。それを返しに立ち寄ったんです」
「お兄ちゃん、就活に使ったスーツを後輩にあげちゃったらしいのよ」
咲子が両手でカップを持ち、紅茶をすすった。
「そいつ、いわゆる苦学生ってヤツでね、親御さんもいないし、スーツ買うお金にも困ってたみたいなんで、就活終わったと同時にあげたんですよ。前の職場も今のところも私服でいいしから、あげちゃってもいいかなって。まあ、それがアダになっちゃったんですけど……今回の結婚式で必要になったし、冠婚葬祭では必ずスーツが必要になるし。やっぱり、スーツって一着くらいは持っといたほうがいいかも」
「今のうちに買っておいた方がいいんじゃない?」
咲子がバームクーヘンをぱくりと食べて、大木に提案した。
「そうかもなあ…そういえば、円さんはどうしてここに?」
大木が円の方へ顔を向けた。
「買い物してるときに偶然会ったんだよ」
「それで、モデルになってくれとか私が作った服を着てくれとか言って、家まで引っ張りこまれたんでしょ?」
大木がまた呆れ顔になった。
「うん、でもまあ、何気に楽しかったよ。こういう服は着たことないし。化粧とかヘアセットも初めてだし」
円はワンピースの裾をつまんで、膝の上に広げてみせた。
「円さんがいいなら別にいいですけどね。咲子、あまり円さんを困らせるなよ」
大木がティーカップを手に取って、紅茶を一気に飲み干した。
「困らせてないよ!それに、兄なら妹の夢を応援しようとは思わないのお?」
咲子が頬をぷうと膨らませた。
「一応「がんばれよ」とは思ってるよ」
大木は軽くあしらうように答えた。
「咲子ちゃんなら、ブランドの立ち上げも運営も上手くできるんじゃない?ほら、アルファの人って芸術的な才能も強いって聞くし」
そう言って、円はバームクーヘンを一口食べた。
有名なスイーツ専門店で売られているそれは、ふんわり柔らかく、一口噛むだけで程よい甘さが口いっぱいに広がった。
「え?円さん、私、ベータだよ?」
「え?そうだったの?」
「お兄ちゃん、言ってなかったの?」
咲子と円は、ほぼ同時に大木の方へ顔を向けた。
「言ってなかったよ。お前がアルファかベータかなんて、わざわざ言うほどのことでもないから…」
2人がかりで詰め寄られて、大木はキョトンとしてした。
「あー、まあ、そうか。ボク、なんでかわからないけど、勝手に咲子ちゃんはアルファなんだと思ってた」
つい先ほど、「他のアルファと一緒にいてもいいのか」と咲子のことを意識してしまったことを、円は内心恥ずかしく思った。
「そうなの?ちょっと嬉しいかもー」
咲子がポッと顔を赤らめた。
「何が嬉しいんだよ?」
「えー?だってさあ、「アルファっぽい」って「頭よさそう」とか「何でもできそう」とか言われてるみたいで、悪い気はしないじゃない?」
手に持っていたバームクーヘンを食べ終えた咲子が、さあもう一つと言わんばかりに、皿の上に乗ったものをもう一切れ手に取った。
「そんないいものじゃないだろ」
大木も新しいバームクーヘンを口に押し込んだ。
大木が持って帰ったこれは、バームクーヘンというよりホールケーキと言ったほうが妥当ではないかと思うほどにボリュームがある。
1切れだけで菓子パン1個まるごと食べたような重量感があるが、この2人はそれをすでに3切れくらい食べている。
円は一切れだけで十分満腹なのに。
この様子を見るに、咲子も大木と負けず劣らずの大食らしい。
「アルファの人も大変だもんね。とはいえ、ベータの人でも、アルファと同じくらい賢くて優秀な人はたくさんいるもの。成功しないとは限らないし、ボクは応援してるよ」
聞くところ、咲子はまだ19歳なのだという。
まだ若いのに、大きくて明確な目標があるのは実に立派なことではないか。
「ホント?ありがとう、円さん。中学校からの夢だもん!私、がんばるね!!」
それを聞いて、円は自分が中学生の頃を思い返していた。
中学生というと、ちょうど自分がオメガだと知ったときだ。
これからやってくるであろう発情期や、外部から受けるであろう差別や偏見を思うと、心底がっかりしたし、それ以上に、「ああやっぱりな」という諦めの気持ちの方が強かった。
母がオメガなのだ。
自分がオメガであっても、何ら不思議ではない。
周囲が「やっぱり自分はベータだった」とがっかりしている中、自分だけがオメガだった。
あの、なんともいえない孤独感と奇妙な納得。
あれ以来、「自分はオメガだから」と大半のことを諦めてしまって、勉強も就職も本気で取り組もうとはしなかった。
大した目標もなく、家から一番近い高校へ成り行きまかせに受験、入学した。
「特にやりたいこともないから」と卒業後はツテを頼って、半ばコネ入社に近い形で今の会社に入った。
会社に入ってからだって、別に出世など考えていなかったし、このままの暮らしが維持できればそれで良いという考えだった。
それは円の周囲にいるベータも同じことで、「どうせアルファにはかなわない」と言って、勉強も進学も就職も、どこか諦めたような空気を漂わせる人物ばかりだった。
でも、咲子は違う。
「咲子ちゃん、「わたしはどうせベータだから」って諦めたりしないんだね」
「うん。だって、ベータでもアルファの人と同じぐらいに出世してる人いるし、ブランドの立ち上げってそんな難しいことじゃないのよ?儲けるのが大変なだけで」
「なるほどね。起業はいつとか、考えてるの?」
「必要な資金貯まってからかなー。そのためにバイト代を高校生の頃から貯めてたんだよね。結構順調に貯まってるし、何なら在学中に立ち上げられるかも」
咲子がバームクーヘンを食べる手を止めて、うーんと考え込んだ。
「学生起業?すごいね」
咲子はその後も、将来の夢について、自分についてのことも教えてくれた。
通っている大学は美大で、デザインや服飾を専攻にしていること。
彼氏は今のところいないが、結婚はときどき考えること。
アルバイトは家の近くのコーヒーショップで週4日行っていること。
夢を持ったことがない円にとって、咲子の話は新鮮で、聞いていて楽しかった。
一方で、大木は妹に恋人を占領されたような気持ちになったのか、少しばかりむくれていた。
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