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トラップ 9
「父ちゃん!!」
悲痛な声がした。
それはナツの声だった。
「バカ、逃げろ!!」
俺は叫んで、犬を脚で抑えつけたまま、振り返った。
ナツが立っていた。
力なく、絶望してなんかなかった。
泣きながら、それでもナツは立っていた。
ナツは。
美しい構えをみせていた。
「あたしだけじゃなく、その子達まで暴力を振るうなら、もう、父ちゃんは。父ちゃんじゃない!!」
ナツは叫んだ。
「ゆきえぇぇぇええぇえええ!!!」
怪物は俺たちを忘れさり、振り返って怒鳴る。
怪物は愛しいムスメをみつけたのだ。
目は塞がっている。
だが、怪物は娘を捉えた。
罰しなければ。
壊れた脳が叫ぶ。
この子のためだ。
乱暴ではあっても、傲慢ではあっても、世間と上手くやれなくても。
それでも娘への愛だけは本物だったのに。
どんなものからも娘を守りに抜くためにあったはずの力を、今暴力として振るおうとしていた。
それを愛だと信じこんで。
叩きつけ、肉を潰せ、脳をぶちまけろ、正しいかたちにするために。
ユキエ、ユキエ、ユキエ、ユキエ
愛しい娘。
お前はオレのようになってはいけない、
いけないんだ!!
なってはいけないからこそ、正しく導いてやらなければ!!
怪物は吠えた。
娘を救うために、叩きのめすために。
「父ちゃん・・・」
ナツは小さく嗚咽し、そこからはもう。
泣かなかった。
ナツが軽やかに間合いに入っていく。
怪物は正確に位置をつかんで蹴り上げる。
だが、ナツは僅かな体捌きで避ける。
怪物がナツの位置がわかるように、ナツは怪物の動きを誰よりも理解していた。
ずっと見てきたから。
憧れ、真似して、追いかけ続けてきたから。
見えないからこそ、正確に動くしかない怪物の動きはナツには予想出来たのだ。
だが、ナツのくりだす蹴りも尽く避けられる。
目が見えないのに。
いや、ナツだからこそ、か。
父親も、ナツの動きを予想できるのだ。
見事な攻防だった。
まるで、親子で演武をしているかのよう。
美しい動きで、2人ら攻防を繰り返す。
だか、怪物の攻撃は重く一発でも当たればナツは終わりなのは明白だった。
ナツはジリジリと押され、後ろ後ろへと下がっていく。
このままではナツが追い込まれる
この屋上には柵すらないのだ。
怪物はナツを平然と落とすだろう。
まず怪物はなにも見えていないのだから。
犬か吠えた。
行かせろ、と。
あの雌を殺したくないのだろ?
大丈夫だ。
任せろ、と。
俺は犬を信じた。
犬を放つ。
犬は褐色の弾丸になって怪物へと飛びかかっていった。
傷ついた身体で。
おそらく。
最後の一撃だったのだろう。
犬の攻撃に反応した怪物は、ナツの蹴りを避けられなかった。
ナツの美しく伸びたつま先が怪物の顎先を捉えた。
犬は足首を噛み砕いた。
ゆっくりと怪物は倒れた。
ナツが素早く身体を入れ替えたから、屋上の際にいるのは怪物の方だった。
脳を揺らされ、足首をやられ、もう追ってこれないはずだ。
これでにげられる。
俺は確信した。
ヨロヨロこちらへ向かってくる犬を抱きしめようとした、けど、腕が折れてるから抱きしめられない。
何とか犬を肩にかついだ。
逃げようとナツに声をかけようとした。
ナツは身動き1つしなかった。
怪物を黙って見つめていた。
俺は。
その目が怖かった。
真っ黒で。
何もかもを決めてしまったような目で。
「おわらせないと」
ナツは言った。
何を?
俺はとまどう。
怪物はよろよろと起き上がったがフラフラだ。
脳を完全に揺らされて、三半規管がやられてるのだ。
自分の意志でなんとかなるものじゃない。
「ユキエ!!!!」
怪物はそれでも吠えた。
娘を求めて。
屋上の端、ギリギリに立っていた。
フラフラなので、俺は危ないと思った。
怪物は落ちてしまうかもしれない。
ナツは笑った。
場違いなほど、明るい声で。
「大好きだったよ、父ちゃん」
ナツは軽やかにステップを踏み、怪物の腹を蹴りあげた。
フラフラの怪物は。
屋上から地面へと。
いとも簡単に落ちていった
俺は呆然とそれを見ていた。
怪物は。
自分が落ちていくことにも気づかなかったはずだ。
だから悲鳴さえ聞こえなかった。
ただ、重い肉か歩道に叩きつけられる音だけが聞こえた。
ナツは屋上の際に立ち、父かどうなったのかを泪さえ流さずに確認していた。
「父ちゃん、大好き」
でもその言葉だけは。
甘くて切なくて。
俺はただただ、犬をかついだままへたり混んでいたのだ。
ナツは振り返り、俺を見た。
俺はナツの名前さえ呼んだことなく。
言葉を交わすこともなく。
いつものように視線を一瞬絡めただけで。
でもその時のナツの目は俺を捕まえていて。
でも、俺に追うことを許さなかった。
それでも俺はナツを追おうと。
犬を担いで折れた腕でそれでも追おうと。
でもナツはあっという間に階段を走って下ってしまい、夜の街を走り抜けてしまった。
ナツは。
その日から消えてしまった。
二度と街に戻ってこなかった。
俺は怪物、いや、今はナツの大好きな父親の死体の前で、犬を抱えて泣いていたところを保護された。
異様な男に少年少女と犬が追いかけられていたことは、通報を面倒くさがるこの街の住人達でも通報するくらいのインパクトはあったらしく、警察は俺達を捜してはいたらしい。
俺はとにかく、ぐったりした犬を助けて欲しいと願った。
それだけしか言わなかったし、その後、犬の無事が確認されても、何を聞かれても、ナツについては何もいわなかつた。
犬が俺たちを助けて、ナツの父親は犬の攻撃をよけようとして、落ちたのだろうということになった。
長年、娘への暴力を見逃してきた人達は関わりたくない問題だったのだろう。
ナツへの父親の暴力は、警察へ通報されていたのだとあとから聞いた。
誰もナツを助けなかったから。
ナツは父親を殺すしかなかったのだ。
大好きだったからこそ。
それが分かったから、俺は何週間も泣き続けた。
何かしでかしたなら恐ろしい俺の母親も、今回だけは何故か俺を怒らなかった。
オレが何も言わないのに、真実を見透かしているかのように。
犬はろっ骨が折れていたけど、俺より早く元気になった
俺の側に居て俺をなぐさめた。
雌は行っちまったけど、あの雌は最初からここではないどこかへ行きたかったのさ。
お前が気に病むこたぁねぇよな。
犬はどうやら、そんな見解のようだった。
お前にはオレがいるだろが、相棒。
犬に舐められ慰められ。
俺は立ち直ったのだ。
ナツは。
行ってしまった。
行ってしまったけど。
少なくとも。
生き残って、どこかで生きている。
それが救いだった。
俺の初恋。
俺の最初で最後の少女。
それが俺とナツと犬の物語だった
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