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立ち上がる 6
巨大な黒い影がその中に炎を燃え上がらせながらシンに背後から覆い被さるようだった。
影から作られたような恐ろしい顔が、シンの顔を背後から包み込みながら、覗き込んでくる。
影は半分燃えた男の姿をしていて、怒りに大きく見開かれたその目も燃える2つの焔だった。
唸りながら開かれた口元に発達した鋭い犬歯が見えて。
闇の怒りがシンへと向けられているのは明白で、シンは生命の危険を感じて、失禁していた。
ズボンから零れた滴が古い畳を汚す。
カチカチ歯が鳴る。
身体の細胞全てが恐怖を叫ぶ。
これは。
これは。
人間ではない、化け物だと。
「コイツはお前のモノなんかにならねぇ」
また、その化け物が燃え上がり焼かれながら言った。
生きながら焼かれる地獄の中から来た男。
深く低い。
闇が鳴るような声。
その声だけで、鳥肌が立ち泣き叫びたくなる声で。
でも、シンは。
本能的に。
何故だか。
怖かったのに。
こんなに怖かったことはなかったのに。
今までなら諦めて気絶するか、無駄だと分かっていても逃げ出したのに。
本能的に寝ているお兄さんに覆い被さるように身体が動いていた。
この化け物から、お兄さんをまもろうとしていたのだ。
恐くても、それでも、この人だけは守らないと。
その瞬間そう思ったのだ。
生まれて初めて誰かを守りたいと思った。
覆い被さる前に、また怒った唸り声を上げた大人に首をネコのように掴まれ、片手でもちあげられたけれど。
「触るな、ソイツに触るな・・・」
唸る声は呪いのようで。
それでもその声は低くて、お兄さんを起こさないためなのだ、とシンは気づいた。
この化け物は。
全身でシンに嫉妬していて、でも、お兄さんを守ってもいた、ねむらせて休ませてやりたいと願っていた。
「おまえを殺すなんて簡単だ。生きたまま誰にも見付からない場所に埋めて二度とこの世に出てこれないようにもしてやれるし、身体を一つ一つ千切って殺してやることもできる。だが、しねぇ。コイツがおまえが消えたら悲しむからだ。だがそれだけだ、おまえが生きていられる理由なんて、コイツが悲しむ以外ではほんの僅かもねぇ」
耳元で囁かれる言葉に嘘などないのがわかる。
いつでも殺せて、殺したい。
だけど、お兄さんのためだけに殺さない、それがよくよくわかった。
「コイツの隣りはオレの場所だ。だれとだって闘ってやる。だれを殺してでもここは譲らねぇ・・・オレはコイツの隣にいるためになら、なんだってできる」
化け物が大きく口を開いたから、鋭い牙が見えて、真っ赤な口の中が見えたから。
喰われるのかと思って、シンはガチガチ震えた。
「コイツが欲しいなら、オレを殺す気でこい・・・いつでも相手になってやる」
男は噛み殺すかわりにガチガチ歯を鳴らし、部屋のすみにむかってシンを投げた。
転がされはしたが、加減はされているのがわかった。
でも、本気の宣告なのはわかった。
この化け物は。
この化け物は。
化け物はこの世界で1番大切なモノのようにお兄さんを抱きしめた。
起こさないようにそっと、
抱えたまま、部屋のすみでお兄さんの首筋に顔をうずめたり。髪を撫でている。
犬が寝ている飼い主にじゃれているように。
お兄さんはむにゃむにゃ言いながら、男の背中に腕を回す。
ヤンチャな犬を抱きしめるみたいに。
男は満足そうに唸った。
「どこかに着替えがあるだろ、着替えて、その汚い小便も綺麗に片付けておけ」
男はシンに命令していた。
終わったのだ。
誰が上位なのかをこの獣はシンに教えこんだのだ。
誰がお兄さんの隣りにいられるのかを。
不思議と仕方ないと思ってしまった。
男への恐怖とはまた別に。
この男は。
誰よりも必死に、あの場所を勝ち得たのだそれもわかった。
お兄さんの隣り。
この男はそのためになら、本当になんだってするのだ。
シンは。
勝てないと思った。
思ってしまったから、負けだった。
シンの初恋は終わった。
麻薬の禁断症状のようなユウタへの想いよりもちゃんと恋だった。
でも。
ずっと好き。
ずっとずっと好き。
あんな化け物に取り憑かれていても好き。
この人のためにちゃんとしたい。
シンはそう決めた。
生まれて初めて、自分で決めたのだった。
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