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第36話 卒業の日

 風はすこし冷たいけれど、窓の外の花壇には春の花が咲きはじめていた。俺は制服に着替えて鏡の前に立った。  今日は卒業式だ。ついこの前プリンスの卒業式で送辞を読んだ気がするのに、あっという間に一年たってしまった。  もちろん一年のあいだにはいろいろなことがあった。勉強に励むだけでなく、俺は生徒会長に選ばれてしまったから、他の生徒会役員と一緒に学園の行事に取り組んだり、生徒のあいだで起きた問題を解決するために悩んだりした。二年生の秋までは考えてもみなかったことだけど、魔法大学の受験勉強にも取り組むことになった。  どちらもプリンスやアンブローズ先生の助けがあったからやりとげることができたのだと思う。アンブローズ先生は学園長代理になっても俺の個人指導を続けてくれた。俺は数少ない奨学生枠にトップで入学を許された。  プリンスは魔法大学に進学したあとも毎日のように手紙をくれた。夕方、授業が終わって部屋に戻るとシルフが運んでくるのだ。休みの日は学園に来ることもあったし、俺の方がお城に呼ばれていくこともあった。  でもプリンスが学園によく姿をみせたのは、俺に会うためだけじゃないし、俺がお城に呼び出された理由も他にある。魔王は消滅したけれど、学園を囲む森の地下にかの者の宮殿は残っていて、マーティン先生を隊長にした特別調査隊が結成されたのだ。プリンスは王族として調査隊に参加して、森を訪れたあとには必ず学園へ寄った。俺がお城へ呼び出された理由はもうすこし複雑だった。  魔王がいなくなった今、地下宮殿は山の向こうによくあるダンジョンに変わった上、山の向こうと繋がる転移ブリッジまで発見された。そうなると向こう側から冒険者がやってくるのは時間の問題だ。三年生になって間もないある日、学園にマーティン先生がやってきていったのだ。 「アッシュ! 王子に聞いたが、向こう側の冒険者ギルドに登録しているって?」 「え、はい、その、事故みたいなもので、うっかり転移陣に触ってしまったので……」 「なんて都合がいいんだ! その話、もっと詳しく聞かせてくれ。証明書はあるのか?」  俺はギルドカードをみせ、向こうで出会った冒険者やギルドのことを話した。そのあと何度か、特別調査隊と一緒にダンジョンへもぐったこともある。実はマーティン先生がこちら側から転移ブリッジを起動させたとき、俺とイヌもその場にいたのだ。  そして俺は転移ブリッジの先で、トレジャーハンターのジャックと再会した。  それからまもなく、山の向こうの魔法のない国と、この王国とのあいだに交流が再開した。伝説の魔法使いが魔王を封じた時以来のことだ。  俺は王国でギルドカードを持っている唯一の人間として、お城に呼ばれて王様に話をした。内容はこれまでプリンスや先生方に話したこととほとんど変わらなかったけれど、王様はずっとニコニコして嬉しそうだった。そのあとも何度か、王妃様のお茶会や音楽会に招待されたりした。  プリンスと並んでお茶を飲んでいると、王妃様やおつきの人たちも、王様に会った時みたいにニコニコして嬉しそうな顔になる。それはときどき俺を途惑わせた。学園を卒業したプリンスは、前より少したくましくなって、元々すごくかっこいい人だけれど、今はもっと素敵だ。横顔をみるだけでドキッとするし、ちょっとした優しい仕草に接するだけで、何だかたまらない気持ちになった。  あらためて思い出してみると、この一年はとても充実していた。  もちろんその前だって、俺は毎日忙しかった。俺が燃え殻と呼ばれていたときのことだ。でもそれは勉強や双子の世話のあいまに、他の生徒の課題代行や潤滑ジェル調合に明け暮れていた生活だった。  あの頃の自分が不幸せだったとは思わない。でもあの頃の俺は今よりもぜんぜん、物事がみえていなかったような気がする。あの頃は、早く学園を卒業して、魔法使いになって、就職することしか考えていなかったから。  もちろん、今の俺にもみえないことはたくさんあるにちがいない。だけどこうなったきっかけが全部、あの魔法大会の日にアンブローズ先生が助けてくれたおかげだと思うと、俺の胸の奥はとても……ぽかぽかしてくるのだった。  昨日はじめて知ったのだけど、アンブローズ先生は今月で学園長代理を辞めて、来月から魔法大学の教授になる。  魔法大学でもアンブローズ先生の講義を聴けるのだ。俺はとても嬉しかった。  卒業式で俺は答辞を読んだ。式のあと講堂の外に出ると、イヌが俺の足もとに走り寄って来る。そのうしろから生徒会の二年生たちがやってくる。 「先輩、おめでとうございます!」 「すごく寂しくなりますけど、どうか元気で」  みんな「枯れない花」を持っていて、渡してくれた。「枯れない花」を育てるのは大変なのに、こんなにもらっていいんだろうか。お返しに用意していた布バッジもほとんどなくなってしまった。  今晩は卒業生だけのパーティが教員食堂でひらかれる。それまでの時間、他の生徒は寮の部屋を片づけたり、遠くへ行く友達と話をして過ごすのだろう。  俺は花束を抱えたまま学園の小道を歩きはじめた。荷造りはほぼ終わっていたし、明るいうちに思い出の場所をまわっておきたかった。いつものようにイヌが足元をついてくる。三つの頭がフリフリと揺れる。  ゴーレム実習に使われているグラウンドの横を通った時、ふいに金髪の巻き毛が目に入った。ふたりの生徒がゴーレム人形を土に並べている。ひとりは髪を長くのばし、もうひとりの髪は肩のあたりでくるくる巻いている。でも体つきはそっくりだ。  ワンッ  イヌが吠えた。髪の長い方が俺をみた。 「燃え殻じゃないか。こんなところに何の用?」  ラスだった。隣でダスが顔をあげて不思議そうな表情をする。 「何をいってるのさ、ラス。アッシュだよ。生徒会長だ」  魔王の憑依から目覚めたとき、ダスは自分や周囲の人々についての記憶を失っていたのだ。外見も性格も、今の双子はあまり似ていなかった。ラスの方が静かで大人っぽく、ダスは魔法の勉強に打ち込んでいる。 「卒業おめでとう、アッシュ」ダスが屈託ない声でいった。「僕らの卒業は来年なんだよ。僕はみんなより遅れすぎていて、魔法使いになるにはもう一年必要なんだ。ラスは卒業できるはずだったんだけど――あっ」  ダスのゴーレム人形がパタッと地面に倒れた。ラスが冷静な声でいった。 「僕は今年も試験に失敗しただけさ。花をたくさんもらったんだね――アッシュ」  ふたりが今年も留年するなんて、俺はまったく知らなかった。ダスは一年生の勉強からやり直しているけれど、ラスはちがう。 「うん。試験のこと……知らなかったよ」 「知る必要なんかない」ラスはきっぱりと答えた。 「でもここで会えたのも何かの縁だね。これ、受け取ってもらえないか」  ポケットから取り出したのは小さな布バッジだ。紫のヒヤシンスが刺繍されている。花房の中央にラレデンシがきらめいた。 「ずっと渡そうと思っていたけど、できなかった」  紫のヒヤシンスの花言葉は謝罪。ラレデンシは無垢で、誰の魔力紋もついていない。 「受け取るよ」  俺はバッジをポケットにいれた。ダスが手を振って「元気でね」と笑った。  魔法学園に入学した時は、自分の未来は決まっていると思っていた。自分には何かを選ぶ余地なんてなくて、与えられたものに取り組むしかないと思っていたのだ。  今はそうは思っていない。それどころか、未来に何が起きるかなんてまったくわからないってことに今さら気づいて、びっくりしている。  散歩を続けるうちに薬草園の前に来ていた。門から続く小道の奥には以前アンブローズ先生に個人指導を受けていた温室がある。先生が学園長代理になったあとは、温室の管理は別の先生がするようになった。ここへ来るのも久しぶりだ。  温室の鍵は開いていた。俺は扉を押し、中をのぞいた。 「誰かいますか?」  一歩足を踏み入れると、暖かい空気と植物の香りが俺を包む。切り花が萎れるのを恐れて俺は空の花瓶に水をくみ、花を挿した。扉に向かってイヌの頭のひとつが鳴いた。  ワンッ  誰か来たのだ。すぐに扉がひらいて、あらわれたのはプリンスだった。 「アッシュ。やっぱりここにいたね」 「センパイ! 来てくださったんですか」 「式典は用事があって間に合わなかったんだ。でも今日はアッシュにたずねたいことがあって」  プリンスがそういったとき、今度は逆方向に向かってイヌの頭が動いた。  ワンッ  俺とプリンスは同時にそっちを向いた。長い衣を着た見慣れた姿が温室の奥からあらわれる。 「アンブローズ先生!」 「アッシュ、どうしてここに?」  先生は驚いた表情をしていた。 「きみを探しに行こうと思っていた。今日のうちに伝えたいことがあって」 「先生も、ですか」  プリンスがすこし堅い声でいった。アンブローズ先生が眉をあげる。 「リチャード王子、きみも?」 「ええ。アッシュを探して学園をまわっていたのです。ここは思い出の場所ですから」 「たしかにそうだな」  ふたりは顔をみあわせ、同時に口をあけた。 「アッシュ、きみの卒業まで待つときめていた」と、アンブローズ先生。 「アッシュが卒業する日にしようときめていた」と、プリンス。  一瞬、間があいた。 「リチャード王子、先にいいなさい」と、アンブローズ先生。 「アンブローズ先生、先にどうぞ」と、リチャード王子。 「あなたはこの国の王子だ。優先権がある」 「年上の方をあとに回すなどできません」 「あの、」  俺は突っ立ったまま二人を交互にみていった。 「順番が決まらないのなら……センパイからで……どうでしょう」  とたんにふたりとも救われたような表情になった。アンブローズ先生がプリンスに目配せした。あっと思った時には、プリンスは温室の床に片膝をつき、俺をみあげている。 「アッシュ。僕は初めて会った時から惹かれていた。僕の想いはこの一年の間も通じていたと思う。きみを愛している。僕のパートナーとして城に迎えたい。僕がこの国の王になったとき、隣にいてほしいんだ」  プリンスが一呼吸おくと、今度はアンブローズ先生が立ったまま、静かにいった。 「アッシュ。私はあくまでも教師として……一線を超えるつもりはなかった。だがきみのあらゆるところが私を捕えて離れなくなったんだ。私はきみの教師なのに心はきみの奴隷も同然になってしまったのだ。この先の人生を私と共に生きてほしい」  ふたりの声がそろった。 「選ぶのはきみだ。アッシュ」

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