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第23話
「おーい、色。聞いてる?」
目の前でひらひらと手のひらがチラついて、俺はようやく我に返った。
放課後の第二音楽室。放課後はここでピアノを弾くのがルーティンになりつつあるのだが、今日は何故か晃もついてきて人のピアノをBGMにしながら何やらノートにペンを走らせていたはずだったのに。
指慣らしにと何曲か弾いて、それから……記憶がない。
気がつけば俺は演奏の手を止めぼんやりとしていたらしく、いつの間にか隣に立っていた晃の気配にすら気づけなかったらしい。
「なに、曲作り煮詰まってるの?」
「ん、ああ。まぁ。」
それも間違ってはいないのだが、考えていたのは別の事だ。
昼休みのあの時からずっと、脳裏に亜麻色がチラついている。
『……遅刻、しちゃうね。』
触れるだけの口づけはすぐに離れて、亜麻色の瞳が少し困ったように細められる。
あれから何事も無かったかのように俺達は教室に戻った。
放課後に美鳥が練習に行く前には晃を混じえて普通に話もしていたし、本当にこのまま無かったことになるのかもしれない。
けれど、いまだに唇に残る柔らかな感触は夢でも幻でもなくあれが現実だったと告げていた。
なんで、と言われてもわからない。
ただ気がつけば触れていた。その事実があるだけだ。
「しぃーきぃー。聞いてる?」
「あー。聞いてない。」
「もう、じゃあ色は美鳥君の応援には行かないわけね。」
いきなり出てきた美鳥の単語に思わず譜面から顔をあげれば、なぜだか晃はニヤリと口の端に笑みを浮かべる。
「大会、8月末の夏休み中だからさ、早割りきく今のうちに特急の座席とホテル抑えとかなきゃだよ?帰省とか仕事とか予定はあるのかって聞いてるの。」
先程から何をしているのかと思えば、どうやら必要経費の計算に勤しんでいたらしい。
突きつけられたノートに綺麗に並ぶ数字に俺は思わず感嘆のため息をもらした。
「……お前ほんっと抜かりないな。そういうとこ感心するわ。」
「ま、誰かさんにお願いされた事ですし、僕にやれる事は全力でやらせてもらうよ。個人的にも助けてあげたいって思うしね。」
敵に回したくない奴だと前々から思ってはいたが、今回改めて世界一敵に回したくない男だと思った。人懐こい笑みに気を取られがちだが、晃の行動は実に緻密な計算の上に成り立っているということは長い付き合いで何となくわかってきた。こいつはどうしてこうも上手く立ち回れるのか、俺には皆目見当もつかない。
藍原晃という人間は良くも悪くも人並外れた行動力の持ち主だ。だからこそ自然と周りに人が集まってくる。
選挙戦に出ると知った周りの反応を見る限り当選はほぼ確実だろうし、そうなればこいつはまた今以上に色々と立ち回ってくれるつもりだろう。
藍原晃という人間に任せておけば問題なさそう……というより、それが最適解だと思う。情けない事に。
「……チケット、俺の分はいい。」
「仕事忙しいんだ?」
「まだ決まったわけじゃないけどな。新幹線もホテルも自分でとるから気にすんな。」
俺は晃の手にしていたノートを取り、そこから俺に関する数字に線を入れて消しこむ。差し戻せば優秀な友人はすぐさま暗算で計算をやり直し数字を書き込んでいった。
「おっけ。それでは一応顧問様に確認して各種手続きしてくるね。」
「ああ。悪いな、色々と。」
「僕は提案するだけだよ。責任を負うこともしなければ、注目浴びて正体バレるかもって怯える必要も無いし。結構楽しんでやらせてもらってるから気にすんな!」
「っ、」
いきなりばしんっと背中を叩かれて、ピアノが不協和音を奏でる。
ノート閉じた晃は、それを教室の隅に置いていた自らの鞄にしまいこんだ。
「それじゃ、お仕事頑張って。」
ヒラヒラと手を振りウインクひとつ。
俺も片手を上げて鼻歌交じりで出ていく後ろ姿を見送った。
多分俺の曲だと思われる雑な音が遠ざかっていけば、第二音楽室はいつもの静寂を取り戻していく。
はあ。ため息が室内に響いた。
無意識に己の唇をなぞっているのに気づき、慌てて指をひく。行き場を失った手で、自らの髪を掻き乱した。
くそ、何やってんだ俺は。
訳のわからない事をしている場合じゃないんだ。
俺も、何か。
晃みたいに上手く立ち回るでもなく、美鳥みたいに全力で何かに打ち込むでもなく。
俺も何か、何かあるんじゃないか。
あいつらを見ているとそういう衝動に駆られる。
小さく息を吐き、俺は自らの両頬を軽く叩いた。少しだけ俺の中に残っていた後ろ向きな気持ちを追い出し、覚悟を決めてブレザーの内ポケットにしまっていたスマホを取り出す。
通話履歴の中から一つの名前を探しだしてタップした。
「あ、おつかれさま。……うん、いやちょっと週末のレコーディングの件で頼みたい事があって……」
そろそろ本腰あげて、俺は俺に出来る事を。
脳裏に譜面を浮かべつつ、けれど俺はまた無意識に唇をなぞっていた事に、この時は気づいてもいなかった。
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