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閑話 冬に聴いた夏

「ええと、こひ…、」 面接官の方が、僕の履歴書を手にして固まった。老眼でいらっしゃるのか、履歴書を遠ざけ僕の名前を凝視している。 それは二十数年生きてきて、もう何度となく目にしてきた光景だった。 「小比類巻(こひるいまき)です。小比類巻(こひるいまき)(すい)と申します。」 よろしくお願いいたしますと深々頭を下げれば、お掛け下さいと声をかけられたのでそれに従い用意されていたパイプ椅子に腰掛ける。 小さなレコード会社の小さなスタジオの隣にある、小さな部屋での面接。目の前にいる三人の男性達に僕の人生はかかっている。 両親共にアマチュアオーケストラで弦楽器をやっていた影響で、僕自身も小さい頃から音楽に親しんでいた。 分数サイズが持てるようになってからヴァイオリンをはじめ、ずっとずっと弾いてきて、将来はプロになれればなんて淡い夢を抱いて音大まで来たのだけれど。 今日僕は面接を受ける。小さなレコード会社の事務の面接を。 後悔はない。大人になって広い世界を知るたびに、僕はステージに立てる人間ではないのだと思い知らされた。華がないと言われた僕のヴァイオリンはもう二度と音を奏でることは無い。 演奏の時に気になるという理由で今まで無理に使っていたコンタクトも、黒縁の眼鏡にかえた。いまだに高校生に間違えられる僕でもこれで少しは落ち着いた大人の雰囲気が出ているだろうか。 「……それで、小比類巻君はどうしてうちの会社を選んだのかな?」 中央に座る初老の男性が口を開いた。 シワの深い目尻をくしゃくしゃにして、穏やかな笑みを浮かべるその人は僕の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。 優しいはずのその声に、けれど身体はドキリと身を固くした。 聞かれるであろうと予め回答を用意して練習してきた質問だ。緊張で真っ白になりそうな頭をフル回転させて記憶を呼び起こす。 「あの、企業理念である『人と音を夢を持って繋ぐという』という考えに感銘を受けまして…」 「あー、うん。そうだね。それは嬉しいね。けどね、君は音大生なんだよね?君自身の音楽は諦めちゃうの?」 「そ、れは……」 顔が強ばったのが自分でもわかった。 にこにこと目の前で笑うその人は触れてほしくない部分に的確に切り込んでくる。 「……、」 何て答えれば。 だって僕は、僕は…… 三人分の視線が突き刺さる中、何も答えられずに小さな部屋はしん、と静まり返った。何か言わなきゃと思えば思うほど頭が真っ白になっていく。 ああ、駄目だ。 ヴァイオリンを捨てて、普通の社会人として生きようと決めたのに。僕はそれすらも出来ない駄目な人間なんだ。 俯き、膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。 結果は明らかなのだから、もう謝罪しておいとまさせてもらおう。 そう思って口を開きかけた、その時だった。 静寂が支配していた小さな部屋に、壁の向こうからピアノの音が漏れ響いた。 思わず顔を上げ、壁の向こうに視線を向ける。向けずにはいられなかった。 ニ長調の旋律が優しく鼓膜を震わせて、吸い込まれるように身体の中に広がっていく。 見える。絵が、見える。 夏の太陽が降り注ぐ、田舎の風景が。 揺れる雑木林に風を感じ、川のせせらぎにひとときの涼を感じる。あぜ道を元気に走る子供の息遣いすら聞こえてきそうだった。 音を聞いているはずなのに、脳裏には風景画のように景色が浮かぶ。 どうして。音の羅列でしかない筈なのに、どうしてこんなにもはっきり見えるんだ。 ずっと音楽に触れてきた筈なのに、こんな事初めてだった。 とくとくと早鐘を打つ胸から熱いものが込み上げてきて、視界が滲んだ。泣きだしたくなる衝動を口元を押さてえて必死に耐える。 面接官の人達が僕の様子に困惑しているのはわかったが、自分でも止められなかった。 「すみません、約束の時間まで好きに使っていいと言ってしまって。すぐ止めさせます。」 端にいた男性が席を立とうとしたのを、中央の男性が手で制する。 「いいよ。しばらくみんなで聴いていよう。……ね?」 くしゃくしゃの優しい笑みが僕に向けられて、僕はただ無言で頷くことしか出来なかった。 優しい旋律が部屋に響く。 「最終試験のお題、なんだったっけ。」 「たしか、今が冬だから夏をテーマにと社長が。」 「あー、言ったねぇ。ちょっと意地悪したつもりだったんだけど……そうか、こうきたか。」 中央の、社長と呼ばれた初老の男性はやられたなぁと声を上げて笑った。 何がどうなって今壁の向こうからピアノが響いているのかは僕にはよくわからなかった。 けれど、一つだけわかる。 隣のスタジオでピアノを弾くその人は、僕がどれだけ望んでも手に入らなかった物を持っている人だ。 「いい曲、だよね。」 僕は小さく頷いた。 「……人の心に響く、曲、です。僕には弾けない、音、です、」 こんなにも心の内に響く音を僕は知らない。 感動なのか、悔しさなのか、驚きなのか、懐かしさなのか、胸から溢れ出たものは、ついには頬を伝った。 「僕では、駄目なんです。でも、でもっ、こんな僕でも音を支える事なら出来るかもしれないと思ったんです。……音楽が、好きなんですっ。諦めるけど、捨てたくないんですっ。」 嗚咽混じりで文脈も滅茶苦茶。 子供みたいに面接の場で本格的に泣き出した僕を、それでも優しい笑顔と優しい曲が見守ってくれていた。 「……道、合ってる…よね?」 駅からナビに従って進むこと僅か数分にして、立ち並んでいたデパートやマンション、民家すらも姿を消し、僕の脳内で不安の文字がどんどんと膨らんできた。 見渡す限りの田園風景。どれだけ走っても同じ景色。そもそも走ってるのが道なのかすら怪しくなってきた。 山奥の全寮制の高校に転校したとは聞いていたけれど、本当にこの先に学校なんて存在しているんだろうか。やっぱり引き返した方がいいのでは? もうすぐ着きますなんてメッセージを送ってしまった手前、待たせる訳にはいかないのだけれど。 がたんっ、と車が大きく揺れ、僕は慌ててずり落ちた眼鏡を抑える。 「色さぁん…」 泣き言を言ったところでどうにもならない。 そうだ。こんな事、入社当時の衝撃に比べたらなんて事ないじゃないか。 あの面接から一週間後、まさかの内定通知が来た時には夢かと思ったし、その後対面したあの時の演奏者が、まさかの小学六年生だったと判明した時には心臓が止まるほど驚いた。 多分きっと、あの時以上の衝撃なんてこれから先の人生でも経験できないと思う。 飛び出してきたカエルを轢きそうになったとか、フロントガラスに蜻蛉がぶつかってきたとか、そんな事くらいではめげない。泣きたいけど。 人生が変わるほどの衝撃うけ同時に恥をさらした僕は、数年たった今日もあのくしゃくしゃの笑顔の元、小さな……いや、今や成長して大人になりつつある若い才能を影で支える仕事をさせてもらっている。 ナビの隅に表示されている時計を確認すれば、約束の時間まであと少しだった。 朝が苦手な彼は果たして起きてくれているだろうか。 脳内で膨らんでいく不安を払拭するべく、僕はカーオーディオのスイッチを入れた。 本人は自分の曲を聴くことを酷く嫌がるので、目的地に辿り着く短い時間だけ。 流れてきたピアノの音に、ふぅ、と息を吐いて心を落ち着ける。 懐かしい音楽を聴きながらよし、とハンドルを握り直せば、遠くに白い建物が見えてきて。 僕の口からは気がつけば鼻歌が零れていた。

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