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第25話
鍵盤の端から端まで感触と音を確認する。一音一音粒だった音が波紋のようにスタジオの隅々に響き渡っていく。
もう何度となく世話になっているスタジオにスタッフだ、ピアノの調律もいつも通り問題なさそうだった。
五重奏 くらいなら余裕で入る広々としたスタジオの中央に置かれたグランドピアノ。わりと年代物のそれは、俺が音楽活動を始めた時からずっとレコーディングのたびに使わせてもらっている。
音の粒、丸み、広がり。俺の音が最も綺麗に響くようにといつも最高の環境を整えてもらっていて、転校でかなり遠くになってしまったけれど、どうしてもこの場所のこの環境で弾きたいと思うくらいにはもう俺の中でなくてはならない存在になってしまっていた。
ガラス越しにコントロールルームに目で合図すれば、室内にあるスピーカーから声がとんでくる。
「sikiさん、準備いいですか?」
「お願いします。」
椅子に座ったまま軽く頭を下げる。
ガラス越しに合図を出されたのを視界の隅に捉えながら、俺は鍵盤に視線を落とした。
「問題ないです。」
「じゃ、これでOKです。」
録音を終え、コントロールルームで実際に音を聴いて仕上がりに問題ないことを確認すれば、目の前でミキサーを操作していた存在がくるりとこちらを振り返る。
黒澤海音 さん。オールバックの黒髪と毎回派手な柄物のシャツを着ているせいで街中ですれ違えば絶対目をそらせたくなるような見た目に反して、実は俺の録音のみならずピアノの調律まで全て一人でこなしてくれる凄い人だ。人前にあまり姿を晒したくない俺にとって、彼の実力と存在はなくてはならないものだ。
「いつも通り後日サンプル送っときますね。今回も一枚でいいの?」
「あー、いや。に…四枚とかお願い出来ます?」
いつもと違う俺の返答に黒澤さんの瞳が瞬く。キャスター付きの椅子ごとこちらに滑ってきてテーブル越しに身を乗り出してきた。
「え、なに。友達増えたんだ。おおっ、それはよかった。」
いつもサンプルを貰っても自分では聴かないから友人に渡しているというのは毎回許可を取っているので知られてしまっているのだが……なんでこんなに嬉しそうなんだろうか。
去年まで二枚貰っていたサンプルを今後は一枚でいいと言った時も確か妙に寂しそうな、いや、同情の視線すら感じたような気はしていたが。俺の隣に座る彗さんまで何故か嬉しそうにしているのが、何とも癪に障る。
別に今までも晃以外の友人がいなかったわけではない。決してない。たぶんない。
それにまぁ、増えたといっても妙なのが一人だけだし。今回の場合一枚だけだとあいつは絶対大金握りしめて練習も放り出してCD確保に百貨店に並んでいそうな気がしたからだ。
誰だよ、ノベルティでCD付けるとかエグい事考えた奴。
ニコニコと生暖かい笑顔を向けられている手前、二人にはそんな事口が裂けても言えなかったけど。
「で、いつもならここで解散ですけど、今日はもう一曲やりたいんだって?」
黒澤さんがチラリと隣に座る彗さんに視線を向ける。
連絡先を知らなかったので彗さんに伝言を頼んでいたのだが、どうやらきちんと伝わっていたようだ。
「あ、はい。俺の個人的な頼みなんでスタジオの使用料とか黒澤さんへも…」
「あー、そういうのは大丈夫。そもそもsikiさん仕事早すぎだもん。念の為毎回一日中スタジオおさえてるのに今日も一発OK出しちゃうから、俺暇してるんですよ。」
「でも、」
「でも、それではうちのsikiの気が済みませんので。」
俺の言葉を遮るように彗さんが隣からすっ、とデスクの上に紙袋を差し出してきた。
「前にお好きだときいていた地酒です。」
「おおっ。御丁寧にどうも。」
驚いて彗さんを見れば、経費で落ちちゃいましたと耳打ちされる。
優秀すぎるマネージャー様には本当に頭が上がらない。
「さ、それじゃあやりましょうか。」
お酒を貰ってご機嫌の黒澤さんはもう録音モードに入っているようで、腕をぐるりと回しながらキャスター付きの椅子ごと体を滑らせ再びミキサーへと向かう。
その顔がこちらを振り返った。
「で、なんの曲を録るんです?」
「Midoriを録りなおしたいんです。」
俺の言葉に黒澤さんは不思議そうに首を傾げたが、そのまま何も言わずミキサーに向き直った。彗さんにも曲名は告げていなかったから同じような表情をうかべている。
なにせもう三年も前に作った曲だ。なんで今更と疑問に思う方が普通だろう。
だけど、今必要なんだ。
そんな昔の曲をずっと聴き続けて、この曲に自身の全てをぶつけようとしているたった一人のために。
「よろしくお願いします。」
ミキサーに向かう背中に深々と頭を下げて、俺は再び録音ブースへと入った。
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