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第26話

コントロールルームからガラス越しに合図が出たのを確認して、鍵盤に指をおろす。 軽快に跳ねる音から始まる、弾きなれた旋律。けれど、今日は少し違う。 四分二秒。 二度聴いたから時間は間違いないと思う。畔倉アイスアリーナで美鳥の演技を見せてもらった時、あいつは曲を編集して使っていた。 後から自分で調べたが、フリープログラムの曲の規定は四分プラスマイナス十秒まで。本来のMidoriの演奏時間は四分十八秒だから規定に合わせての事だろう。 だけど、素人が編集すれば当然音質は劣化する。それに何より―― 快速に(アレグロ)活発に(ビバーチェ)急速に(プレスト)。 急くように速度を上げていく音が、空気を掻き乱す。音の波が押し寄せ最高潮に達して聴く者が息を飲むその瞬間、おとずれる無音。 美鳥が宙を舞うように跳躍するあの瞬間。 「…くそっ、」 いつもの間合いでつい指が動いてしまい、俺は演奏を止めた。 当然の事ながらコントロールルームから黒澤さんの音声がとんでくる。 「どうかしましたか?」 「すみません、もう一回お願いします。」 頭を下げれば、了解ですとそれ以上何も聞かずに黒澤さんは再度準備を整えてくれる。 再び出された合図に俺は大きく息を吐いてから鍵盤に指をおろした。 一秒。あと一秒なんだ。 美鳥が跳躍するあの時、着地が僅かにズレていたように感じた。無音の時間よりも、ほんの僅かに美鳥の滞空時間が長いんだ。 編集で曲を短くする事は出来ても、増やすことは難しい。でもこの一秒が、あいつをもっと自由に高く飛ばせてやれるはずなんだ。 美鳥本人に話しても遠慮されるに決まってる。だから、これは俺が勝手にしているだけの、無駄かもしれない行為だ。 だけど、それでも。 晃のように上手く立ち回れない、木崎のように責任を負ってもやれない。それでも俺は俺に出来る事をしてやりたい。 あいつが最後だと決めた舞台を、最高の環境で。そこで滑るあいつを観てみたい。 四分三秒という時間。俺はあの時氷上で観た光景を思い起こしながら、胸の内に渦巻く感情全てを鍵盤にぶつけた。 「……すみませんでした。」 結局リテイクを出すこと四回。五回目でようやく納得のいく音を録ることができた。 仕事ではなく個人的な事で黒澤さんと彗さんを長時間拘束してしまった上に、急ぎで必要なんだろうとすぐにCDに焼いてもらう準備までしてもらっている。 申し訳なさすぎて録音ブースからコントロールルームに戻るやすぐに俺は二人に頭を下げたのだけれど、二人に揃って制止させられた。 「いやいや、冗談でしょ?いいもの聴かせてもらいましたよ。俺、久々鳥肌立ちました。」 「……へ?」 「私もです。色さんの曲を初めて聞いた時を思い出しましたよ。」 不満の一つでもぶつけられて当然だと思っていたのに、二人の口から出たのは不満どころか賛辞で。 黒澤さんと彗さんは互いに顔を見合せ、凄かったと興奮気味に連呼している。 「作曲家sikiの実力はもちろんわかってるけど、演奏家としての凄さも改めて実感させられましたよ。これ、世に出ないなんて嘘でしょ?」 「いや、これは……誰かに聞かせるようなものじゃないんで。」 どこかの誰かに聞かせても全く意味の無い曲だ。いつか使えるようにデータを残しておくかと聞かれたが、消して欲しいと即答した。 彗さんが何か言いたそうにしていたが、そこは見なかった事にする。 「もったいないなぁ。sikiの新境地を見た気がしたのに。」 黒澤さんはそれ以上何も言わず、ミキサーの隣に置いてあるパソコンへと椅子ごと身体を滑らせる。 俺は先程と同じ場所に腰を下ろし待たせてもらうことにした。 背もたれに深く腰かけて、ぐるりと首を回す。ようやく全てを終えて大きく息を吐き出せば、隣から遠慮がちに声をかけられた。 「色さん、今のうちに少しいいですか?」 黒澤さんの邪魔にならないよう声のトーンを少しだけ抑えて、彗さんが横から見覚えのある資料を差し出してくる。 それは、見覚えのあるイラストだった。 「次はいよいよこのアニメ映画の録音になります。」 俺が初めて受けた仕事でもある子供向けアニメ映画のBGM。今回その二作目の公開が決まって、また曲を全て頼みたいと依頼がきたのが約半年前の事だ。 全30曲の大仕事。前作のリメイク含め、曲自体は全て書きあげ監督のGOサインも貰ってはいるのだが。 「向こうが提示してきた締め切りには余裕がありますし、一日で収録出来る曲数では無いので色さんが夏休みに入られてからどこか一週間程度お時間を作っていただければと思いますが、ご予定はいかがですか?」 彗さんが自らの手帳のカレンダーを開く。既にどこか予定は入っているかと確認されたが、自分の手帳を開くまでもなく予定は真っ白だ。……たった二日を除いては。 「八月末のこの二日間を避けてくれればあとはいつでもいいんだけど…」 「わかりました。では夏休みに入ってからすぐにしましょうか。」 「あ、ちょっと待って。」 彗さんがカレンダーのページを一ページ前に戻そうとしたのだが、その手に俺は静止をかけた。 彗さんが首を傾げる。 説明を求める視線に、俺は一瞬だけ躊躇して視線をそらせた。 けれど、それは本当に一瞬だった。 彗さんもいる。黒澤さんもいる。……話すなら今しかない。今日話すと覚悟は既に決めてきたんだ。 「……できれば八月に入ってからがいい。曲を書き直す時間が欲しいんだ。」 「書き直すって、どの曲を…」 「いや、そうじゃなくて。」 ぎゅっと拳を握りしめた。 決めたんだ。俺も、あいつみたいに自分の表現に妥協はしないって。 「……編曲しようと思ってる。オケを使いたいんだ。」 『オーケストラ!?』 二人の声が見事にハモった。 いつから話を聞いていたのか、黒澤さんが椅子ごと凄い勢いでこちらに詰め寄ってくる。 「え、ちょっと待って。どうしたんですか、新境地どころか俺もしかして今日歴史的瞬間に立ち会ってます?」 「し、ししし、色さん!?」 予想以上の反応に笑うしかない。 今までずっと一人で弾いてきた。ほとんどはピアノだけ、必要ならヴァイオリンを多重録音で入れることはあるけど、演奏者は俺一人。 理由はただ一つ、人前に姿を出したくないからだ。 不特定多数に顔を知られれば、必ず親父のところまで行き着く人間があらわれる。もしその情報が広まってしまえば、俺は自分の曲に対して正当な評価をもらえなくなるかもしれない。 そんな、個人的な理由だ。 個人的な理由で、俺は今まで妥協してきたんだ。 「ピアノだけじゃ厚みが足りない。映画館のスクリーンで流すなら、オケがいる。」 わかりきってる事だ。 俺は俺に出来る最高の形で曲を作りたい。 でなきゃ、あいつの隣になんて立てるわけがないから。 「二人には迷惑かけると思います。でも…」 「す、スタジオじゃなくて、ホール押さえないと!」 「手配します!黒澤さん、あとで候補あげてください!全部あたってみますから!」 難色を示されるかと思いきや、二人は何故か嬉しそうにいきなり目の前でハイタッチをはじめ、拳を握りしめながらあれがいる、これをしなきゃと打ち合わせなのかただ単に叫びたいだけなのかわからない声が飛び交う。 無理だと言われるかと思っていたのに……これ、もう決定事項として話が動き始めているがいいんだろうか。トントン拍子に進む話と二人のテンションが怖い。 「色さん、楽団にお心当たりはありますか!?」 「ない、けど。……心当たりのありそうな人間には心当たりがあるから。」 「もうさ、フルオーケストラで100人、200人どーんと呼んじゃいましょうよ!」 「いやいや、室内オーケストラで十分ですって。」 「予算なら気にせず好きなだけやっちゃって下さい。責任は私がとりますから!!」 「いや、ダメだろそれは……」 二人の妙なテンションに若干引きつつも、どうやら協力はして貰えるようで俺はほっと息を吐いた。 あと二ヶ月、有難いことに忙しくなりそうだ。

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