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第27話

そっと玄関のドアを開けなるべく音を立てないようにゆっくりと閉める。寮のエントランスにたどり着いたと同時に消灯時間を迎えてしまい廊下は既に真っ暗な状態だ。明日も早いだろうから美鳥に気づかれないようそっと部屋に入ろうとしたのだけれど、 「っ、おかえりなさい!」 手にしていた鞄を床に置き靴を脱いでいたら、いきなり美鳥の部屋のドアがバンッと思いっきり開いて、パジャマ姿の美鳥が飛び出してきた。 いつも後ろで束ねられている髪は既に解かれていて、ひょっとすると既に就寝していたのかもしれない。 「悪い、起こしたか?」 「ううん、起きてたよ。聞いてた時間よりだいぶ遅い時間だったから気になって……」 出かける際に心配させないようにと帰宅予定時間を伝えていたのだが、それがかえって心配させる結果になってしまったようだった。 「悪い。晃には遅くなるって連絡してたんだけど。」 「うん、藍原くんが教えてくれたからわかってはいたんだけど。でも、仕事がこんなに遅くなるなんて珍しいとも言ってたから、やっぱりちょっと心配で。」 スタジオを出る時点で寮の門限ギリギリになりそうなのはわかっていたので連絡だけは入れとこうとスマホを取り出して、そういえば美鳥の連絡先を知らないという事実に今更ながらに気がついた。 とりあえず晃にメッセージアプリで遅くなる旨は伝えていたが、優秀すぎる友人はきちんと根回しをしていてくれたようだ。 つい先程見回り当番を急遽引き受けさせられた木崎から、晃のスマホを使って点呼だと不機嫌そうな電話もかかってきていた。 「大変なお仕事だったんだね。」 「あー、いや。まあ。」 まさか興奮した大人二人を止められず延々次の打ち合わせという名のやりたい事合戦に付き合わされたせいだとは言えず、適当に言葉を濁す。 お疲れ様と美鳥の純粋な言葉には苦笑いしか返せなかった。 「夕飯、食べちゃった?食堂から貰ってきてるけど。」 「あ、助かる。そういや昼の弁当以降何も食べてないな。」 不思議なもので指摘されて初めて自分が空腹だという事実に気づく。一度認識してしまえば身体は途端に全力で訴えてきて、盛大に鳴った腹の虫には美鳥と顔を見合わせて笑った。 温め直すねという美鳥の言葉に甘えてその間にシャワーを浴びた俺は、甘えついでに食事スペースなんて全くない自室ではなく美鳥の部屋を使わせてもらう事にした。 部屋の中央に置かれた折りたたみ式のローテーブル脇に鞄を放り出し、俺が唐揚げとサラダを口に放り込んでいる間、美鳥は勉強机に向かい何か書き物を始めた。どうやらこのまま食べ終わるのを待つつもりのようだ。 「何から何まで悪いな。寝なくて平気か?」 声をかければ、肩まで伸びた亜麻色がサラリと揺れて柔らかな笑みがこちらを振り返る。 「一日くらい早朝練習をサボっても平気だし、なんならコーチにはもっと休みを取れって言われてたくらいだから。それに…」 美鳥はペンを走らせていたノートを手に取り、俺の隣に腰を下ろした。 「今日はこれを書き上げちゃおうと思ってて……どうかな。」 開かれたページを覗き込めば、読みやすい綺麗な字で綴られた文章の中に何度も出てくる「藍原」の文字。これでもかと晃を褒めちぎる文章に思わず顔をしかめそうになったが、美鳥の手前そこはぐっと堪える。 いいんじゃないか、とほとんど棒読みでなんとか感想を絞りだせば美鳥はほっと息を吐いた。 「そうか。立会演説、明後日だったな。」 推薦者もスピーチがいると言われていたのをすっかり忘れていた。 「藍原君に確認したけど、推薦者のどちらか一人がスピーチすればいいみたいだから、櫻井君の分まで僕が頑張るからね。」 「あー、非常に申し訳ないけどそうしてもらえると助かる。……そもそも晃を褒めるとか出来そうにないしな。」 しかも本人を目の前にしてなんて、罰ゲーム以外の何物でもない。正直に告げれば、美鳥はくすくす笑みをこぼした。 「藍原君からも、色に褒められるなんて気持ち悪いからスピーチを頼みたいって言われたよ。」 「あいつ……」 「二人とも、本当に仲がいいよね。こういう友達がいるって羨ましいな。」 今の会話のどの辺が仲がいいという結論に落ち着くのか理解できないが、俺は美鳥の言葉の別の部分にひっかかりを覚えた。 「なんで他人事なんだよ。」 「え?」 「お前ももう中に入ってるだろ?二人ともじゃなくて三人だろ。」 何故そこで首を傾げるのかが理解できない。きょとんとする美鳥に俺はふと思い出して、ポケットからスマホを取りだし画面を差し出す。 「というわけで。ほら、俺の連絡先。どうせ晃とはもう交換してるんだろ?」 大きく見開かれた亜麻色が、スマホの画面と俺の顔を行ったり来たり。 「あ、あの、本当にいいの?」 「いいも何もこの先必要だろ。」 もしかして嫌なのかと問えば、美鳥は弾かれたように立ち上がりベッド脇の棚に置かれていたスマホを手に取る。そうして何故か俺の前でピンと背筋を伸ばし正座した。 「よ、よろしくお願いします。」 とりあえず互いにスマホの画面を突き合わせて連絡先は交換したものの……うん、ツッコミどころしかないな。 「あのなぁ、美鳥。なんでそんなに緊張してんだよ。」 「いや、だって、櫻井君の連絡先を僕なんかが聞いていいのかなって。」 美鳥が冗談を言うような人間じゃない事くらいもうわかってる。実際、スマホを握るその手は本気で震えていた。 はぁ、とため息を漏らせば、美鳥は申し訳なさそうに眉間に皺を寄せる。 「……神様みたいな人なんだ。僕にとって、櫻井君は知り合えただけでも奇跡みたいな人だから 。」 面と向かってそう言われれば、なんと返したものやら。 本人を前に馬鹿真面目にそんな台詞が出てくるくらい、美鳥はsikiの曲に思い入れがあるんだろう。 「わかってはいるんだ。櫻井君はsikiだけど、その前に櫻井色君なんだって。でも、やっぱりまだ、その……」 俯くその頭に手を伸ばし、そっと撫ぜてやる。 親の事がバレた時、周りは急に態度を変え俺との距離感が色々とおかしな事になったのを思い出した。 あの時周りの人間にあったのは打算とか妬みとかそんな感情だったように思うが、美鳥は違う。それは純粋な好意からくるものだとちゃんとわかっているから、目の前で俯く存在に不快感も嫌悪感も全くない。 「わかってるよ。……まぁ、俺としてはそろそろその『櫻井君』ってのも何とかして欲しいけどな。」 「うぅ。善処します……」 それは蚊の鳴くような小さな声で、思わず笑ってしまった。 俺は撫ぜていた頭をぽんぽんとあやす様に軽く叩いてから手を離し、ローテーブルの脇に置かせてもらっていた楽譜鞄からケースに入った一枚のCDを取り出す。 「連絡先くらいでここまで反応されると、こっちは更に渡し辛いんだけど。」 俯いたままの美鳥の前に差し出せば、細い指がそろそろと伸びてきてそれを受け取る。 透明なプラスチックケースに入った一枚のCD。真っ白な表面に俺の手書きで記されたMidoriのタイトルを目にした時、俯いていた顔は弾かれたように上げられ、亜麻色の瞳をまん丸に見開いた驚愕の表情が姿を見せる。 その予想通りの反応に、俺はやっぱり笑ってしまった。

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