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閑話 正しい距離はマグカップ二個分
メッセージアプリを開いて一番上にあったアイコンをタップすれば、短いコール音の後相手はすぐに出た。
『ん、どうした?』
声が聞こえたのを確認して、僕の部屋の壁に寄りかかり事の成り行きを見守っていた先生を手招きする。
「点呼だってさ。先生にかわるからねー。」
色の返事を聞く前に僕はスマホを先生に手渡して、ベッドにぼすんと沈みこんだ。
「おう、…あ?お前が帰ってこねぇからこうして生存確認の電話してんだろうが。今どこだ。あ?……ああ、じゃあもうすぐだな。」
スウェットにTシャツという相変わらずのラフな格好の先生が、面倒くさそうに髪をかき乱し色と通話するのを眺めながら、ごろり、寝返りをうつ。
色から帰りが遅くなりそうだと連絡がきたのが二時間前。木崎先生にはその時点で僕から連絡を入れて今日の見回り当番を強制的に引き受けてもらい、ついでに心配しているであろう美鳥君にもメッセージを送っておいた。
一番に、僕を頼ってくれる。
その事実に少し浮かれてしまった自分に嫌気がさして、二時間前も僕は今みたいに深いため息をついていた。
「……いいか、あと三十分だ。それ以降にエントランス通れば警備システムが発報するからな。」
先生が盛大なため息とともに通話を切ったのを確認して、僕はベッドに身を起こした。ほら、とスマホを返されたので、ベッド上のコンセントにさしていた充電コードに繋いでから、僕は先生が座りやすいように少し端にズレてベッドに座り直した。
「時間潰すんでしょ?」
僕の部屋は備え付けのベッドと学習机以外に大きな家具は持ち込んでいないのだけれど、床は山積みされた読みかけの本で溢れかえっている。落ち着ける場所といえばこのベッドとバスルームくらいしかない。ちなみにもう一部屋は見事に物置と化している。
先生は一瞬何かを考えるように低く唸って髪をかき乱してから、ため息とともに僕の隣に腰を下ろした。
「ったく、お前らは俺をなんだと思ってんだ。」
ブツブツ言いつつも床に積んでいた本のタワーから最近ドラマ化した小説を抜き取って開くあたり、このまま色のために大人しく時間を潰してくれるつもりらしい。
「感謝してるってば。なんだかんだで優しいよねー。」
「うるせ。」
じろりと睨みつけられても本気で怒っていないことくらいわかっているから、僕もその辺に落ちていた読みかけの雑誌を手に取った。
あと三十分。先生は消灯時間を守らない問題児の指導に時間を取られて、寮を出るのが遅くなった。という設定を実行しないといけないわけだ。
当然僕もそれに付き合わないといけないわけだけど……
雑誌のページを捲るふりをして、チラリとその横顔を眺めた。
骨ばったゴツゴツした手が無言でページを捲る様は、何故だか妙に絵になる。
普段はどっちが生徒だかわからないくらいの人なのに、この人はやっぱり大人の男の人なんだ。
「……ねぇ。先生はさ、男とした事ある?」
時間があって、相手がいて。
何となく口をついて出てしまった言葉に、ページを捲る先生の手がピタリと止まった。
その視線がじろりと僕に向けられる。
「……藍原、」
パタンと本を閉じる音が、妙に耳についた。
先生は床に本を放り投げて、ほの少しだけ僕との距離を詰める。その視線は真っ直ぐに僕に向けられたまま。
「本気で言ってんのか。」
怒るでもない、呆れるでもない、無感情な声。
答えられずに視線から逃げるように俯けば、とんっと軽く肩を押された衝撃と同時に視界が反転する。
目に映るのは見慣れた部屋の天井と、見慣れない真面目な顔で僕を見下ろす先生の姿。
どきりと心臓が跳ねた。
僕をじっと見つめたまま、先生の手がするりとシャツの中に侵入してきて脇腹を撫であげる。
「っ、」
擽ったさにぴくりと身体をそらせれば、露になった喉元に唇を寄せられた。
さり、と肌を撫ぜる無精髭の感触に、また身体が跳ねる。
「ぁ、……」
熱い吐息が僕の首筋をたどり、鎖骨を軽く吸われれば僕の口からは我慢できずに熱を持った声が漏れた。
こんなの、知らない。この人のこんな顔、初めて見た。
熱を帯びた瞳が、僕を見下ろす。それはゆっくりと近づいてきて、吐息が唇にかかる。
ゾクリとするくらい艶を帯びたその顔を直視出来ずに、僕はぎゅっと瞳を閉じた。
「……で、藍原くん。」
ため息混じりに聞こえたいつもの声に目蓋を開けば、そこにはいつもの先生がいた。
じ、と僕を見下ろすその瞳には先程までとは違う色が混ざっている。
「誘惑にのって未成年の教え子に手を出すような人間の屑と、お前は本気でどうこうなりたいのか?」
「そ、れは……」
面倒くさそうにため息混じりに漏らされた声に僅かに混ざるのは怒り。
「俺という人間も、自分自身も乏しめてまでしたいって言うならお付き合いしましょうか?」
先生の言葉がツキリと胸に突き刺さった。
そうだ。僕は何をしようとしてたんだ。
こんなの、最低じゃないか。
「……ごめんなさい。」
消え入りそうな僕の声は先生に届いたらしく、ぴんっ、とデコピンをお見舞される。
「っ、たく。」
先生は何事も無かったかのように僕に背を向けベッドに座り直すと、先程投げ捨てていた本を拾い上げてページを開いた。
「……泣き言ならいくらでも聞いてやるから、馬鹿な真似してんじゃねぇよ。」
その表情は窺い知ることが出来なかったけど、それはいつもの先生の声で。僕はほっと胸をなでおろした。
「……ありがと。」
返事は返ってこない。でもそれでいい。
この関係にヒビでも入ったら困っちゃうから。僕たちの距離はこのくらいで丁度いいんだ。
僕は勢いをつけてベッドの上に身を起こすと、本格的に読みふけり始めた先生の脇をすり抜けてキッチンに向かった。
泣き言という長い話を聞いてもらう為に、まずはコーヒーを準備しなくちゃ。
僕はシンク下の棚からマグカップを二つ取り出した。
猫舌な誰かさんの為に、ぬるめのお湯と濃いコーヒーを。
トクトクといまだ早鐘を打つ心音は聞かなかった振りをして、僕はやかんを火にかけた。
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