クローゼットを開け、扉の内側にかけられていたネクタイを取る。俺達の学年はモスグリーンと学年カラーである淡い緑のストライプだ。ちなみに三年生は赤、一年生は青になっている。 以前の学校は学ランだったからここに来てまずこのネクタイに苦戦したが、今はもう慣れたものだ。 姿見を確認しながら歪みなくきちっとネクタイを締め、いつものようにハンガーにかけられていたブレザーに手を伸ばして止める。 そういえばもう移行期間だったなと思い出して、俺はブレザーではなく扉の内側にある小さな収納スペースに入れていたネクタイピンを取り出した。ゴールドに学年カラーの緑のラインが入ったネクタイピンは、ブレザーを着ない場合にはつける決まりになっているらしい。適当に留めてから、俺はそのままクローゼットを閉じた。 いつもはブレザーのポケットに入れていた五線譜のメモ帳とペンはシャツの胸ポケットに。スマホはスラックスのポケットにしまい込む。 そろそろ行くかなと思った矢先、ふぁ、と口から出た欠伸に視界が滲んだ。 無駄に早起きしたせいでまだ頭がぼんやりしている。このままじゃ譜面をまともに読める気がしない。 視界も頭もスッキリさせるため、もう一度顔を洗うかと俺は部屋を抜け、洗面所の扉に手をかけて―― 「あ、櫻井君おは…」 「ぬあぁっ！」 そこにあった光景に絶叫した。 「うっそ。今日雨降るんじゃない？」 現在時刻、朝の六時半。 普段なら布団の中で爆睡しているこの時間。第二音楽室で俺の姿を目にした晃の第一声は、失礼極まりないものだった。 「どうしてもピアノ使いたかったんだよ。美鳥が出る時間に合わせて……起こしてもらった。」 ぷっ、と聞こえた笑い声は無視する。 話があるから朝食を一緒に食べようとメッセージアプリが送られてきて、既に登校して第二音楽室にいる旨を送り返したのが数十分前の事だ。 その後返信がないなとは思っていたが、まさか直接来るとは。 俺は床に散乱させていた手書きの楽譜を拾い集め、適当に片付けた。 「急ぎの話か？」 「そんな至急でもないけど、予想外の返事が返ってきたからさ。なんか面白そうだなと思って見に来た。」 ぎ、と睨んだところで晃は怯みもしない。 それどころかくすくす笑いながら平然と俺の隣にきて、ポケットからスマホを取り出し俺の前に差し出してきた。 「彗さんの連絡先って今も変わってない？」 「……は？」 すいさん、とは俺のマネージャーのあの彗さんの事だろう。表示されていた電話帳の画面には『彗さん』の文字とメールアドレスが表示されていた。 中学の途中まで家の向かいに住んでいた晃は、当然の事ながら彗さんとも面識がある。たしか互いに読書が趣味で顔を合わせれば会話を弾ませていた覚えはあるが、まさか連絡先を交換していたとは。 俺は自らのスマホをポケットから取り出して同じく電話帳の画面を開いてみたが、そこには晃のスマホと寸分違わぬアドレスが表示されていた。 「合ってる。……けど、なんだよ。次は何企んでるんだ？」 こいつの事だ、まさかただの世間話の為ではないだろう。 懐疑的な目線を送ってやれば、逆にじ、と睨み返された。 「誰かさんの送り迎えのために彗さんが門の前に車停めてたの、何人かに目撃されてたみたいだよ。職員会議で話が出たって木崎ちゃんが。」 「げ。」 全寮制の彩華高校では基本親族であろうとも尋ねてくる際には事前の申請が必要になる。 乗り降りのわずかな時間だけだし大丈夫だろうと思ったのだが、どうやら考えが甘かったらしい。確かに寮の消灯時間ギリギリにどこの誰かも分からない車が目撃されたとなっては職員会議の議題にものぼるだろう。 「で、今後もあるだろうから彗さんには教材の営業さんとして車のナンバーと顔写真登録してもらったらって事になりまして。許可証出るから駐車場使えるし、校内にも入れるようになるから便利っしょ。」 「………………最初からお前に相談しとけばよかったな。」 なんだろう、この虚しさは。 まともに申請なんてできるわけがないと、考えることすらしなかった自分の馬鹿さ加減にため息しか出てこない。こうも簡単に打開策を出されると情けなさに泣きたくなる。 「他にも色々聞きたい事あるし、学校が絡む事だから木崎ちゃんの名前でメール送って連絡取ろうと思ってるんだけど。」 「わかった。彗さんに一応俺からも連絡しとく。」 手にしていたスマホで時間を確認したが、さすがにまだ早い時間だ。メールは後から送ることにして、スマホはポケットにしまい込んだ。 俺は譜面台に放り出していたペンを手に取り、再び白紙の五線紙に音を書き込んでいく。 晃はこの後特に予定もないのか、先程俺が適当にまとめてピアノの上に積んでいた楽譜を手に取り、御丁寧に用紙の端に記入していた番号順に並べはじめた。 「夜型の色がこんな早朝から作業なんて……大変な仕事なんだ？」 「大変と言えば大変だけど、今回はいつもみたいに夜中に作業してねぇんだよ。」 「ああ。……起こしたら練習に支障が出るかもしれないもんね。」 図星をつかれて思わず振り返れば、そこにはニヤニヤと意味ありげな顔があって。 何となく気まずくて俺は無言でまた五線紙にペンを走らせる。 「美鳥君と何かあった？なんか、二人の空気変わった気がするんですけど。」 背後からぽつりと漏れた声に、不覚にも一瞬だけ手が止まる。 「……何もねぇよ。」 何か、なんて。 脳裏に浮かぶ亜麻色を、俺は頭をふって消し去る。 「あるわけないだろ、男同士で。」 「それ、僕に言う？」 くすくすと聞こえた笑い声を止める言葉を俺は持ち合わせていなかった。 何を期待しているのかは知らないが、美鳥と俺の間に何か、なんて本当に存在していないと思う。 俺にとって美鳥飛鳥は―― 「ひとつ屋根の下にいるんだからさ、ドキッとする事の一つや二つあるんじゃないのぉ？」 「あー、そうな。今朝も顔洗おうと洗面所のドア開けたら…」 「おお、お風呂でドッキリってやつ！」 何が楽しいのか声のトーンを上げる晃を横目に、俺は今朝の光景を思い出し鼻で笑った。 「洗面所でさ、あいつＹ字バランス通り越してI字バランスしながら歯磨きしててさ。」 「………………はい？」 「その格好のまま鏡越しに目が合って、すんげぇにこやかに『おはよう』とか言ってくんの。」 「それは…」 俺達はチラリと視線わ合わせ、思いっきり吹き出した。 「ふ、はははっ、み、美鳥君天然だもんね、ふはっ、」 「だよな。くくっ、」 不思議な奴なんだ。 わかったようでわからない。掴めそうで掴めない。友人のようで、そうでないようで。 真面目なくせに天然で、涙脆いくせに芯は強い。自分の意思ははっきりしてるのに他人の事ばかり気にする。 悲しそうに笑って、嬉しくて泣いて。 近づけば遠慮して遠ざかり、けれど傍にいる事を拒まない。 氷上では一人で凛と立っているくせに、普段は脆くて触れたくなる。 俺にとって美鳥飛鳥は―― 「……わかんねぇ奴だよな。」 どんな感情を抱くべきなのか今の俺にはさっぱりわからなくて。 だから俺は意味不明な存在と感情を笑いとばして、今は目の前の五線に集中する事にした。