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第34話

「……美鳥?」 俺の声は届いていないらしい。先程まで、晃とまだ完成もしていない映画の鑑賞予定の話で盛り上がっていたはずなのに。 小さく開かれた口元はわななくばかりで言葉を紡すげず、見開かれた亜麻色は真っ直ぐに校門の向こうを見つめる。 「美鳥君?どしたの?」 明らかにおかしい美鳥の態度。気になって、俺は晃とほとんど同時に視線の先を目で追っていた。 そこにあったのは門柱に寄りかかり腕時計を確認している一人の男の後ろ姿。 チノパンにカジュアルなジャケットを羽織ったその後ろ姿から察するに、30代前半位だろうか。 後ろ姿だけでも、細身のわりにしっかりと鍛え上げられた身体つきだとわかる。七分袖から伸びた腕は、適度に鍛えられたアスリートのものだ。 「……コーチ、」 状況説明にはその一言で十分だった。震える声で絞り出されたその一言に、俺達は全てを察し、門前の男を注視する。 美鳥の小さな声は風にのって届いたらしく、男は弾かれたようにその場でこちらを振り返り、切れ長の瞳が見開かれた。 「美鳥君!よかった、やっぱりここだったんだね!」 テノールの弾んだ声が駆け寄ってくるが、美鳥の表情は影を落としたままその場から動かない。 突然の再会に驚いた、にしては何かがおかしい。違和感の正体が掴めず、俺も晃もただ黙ってことの成り行きを見守るしかなかった。 駆け寄って来た男は、180センチは超えているであろうその長身を少しだけ屈めて、美鳥に笑いかける。 「突然驚いたよね。エントリーでようやく君の居場所がわかって、居てもたってもいられずに来ちゃったんだ。」 「っ、あの……」 「もう一度ちゃんと話をしよう?今ならまだ間に合うから。」 「そ、れは……」 「エントリーしてくれたって事は、君も迷ってるんだろう?」 優しい声音に、けれど美鳥は口を引き結び俯いてしまった。 腹の底からふつふつと沸き上がるものを、ぎゅっと拳を握りしめて耐える。 こいつ、話をしに来たとか言っているくせに、さっきから一方的だ。美鳥の言葉を聴こうともしてないじゃないか。 この男をコーチと美鳥は呼んだ。 だけど、こいつは。 俺はチラリと晃に視線をやれば、同じように自分に視線を寄越してきた晃のそれとぶつかる。どうやら向こうも同じ事を考えていたようだ。 俺達は無言で小さく頷いた。 「あー、すみませーん。僕達ちょっと急いでまして。」 先に動いたのは晃だ。 男と美鳥の間に割って入ると、ぺこりと頭を下げる。 「はじめまして。僕、スケート部の部長をやってます、藍原晃(あいはらあきら)っていいます。で、こっちが…」 「櫻井色(さくらいしき)。」 振られたのでとりあえず名乗りはしたが、俺は頭を下げることはせず目の前の男を睨みつけた。 「え、あ、どうも。」 男はここにきてようやく俺達の存在に気づいたようで、形式的に晃に頭を下げ返した。 「えっと……スケート部?」 「そうなんですよぉ。僕達今部活動の真っ最中でして。ね?」 にこにこと人好きのする笑みを顔に貼り付けた晃はぽん、と美鳥の肩に手をやる。 そろりと俯いていた顔が上げられ、怯えにも近い困惑の表情が見えた瞬間、俺は衝動的に美鳥の手を引いていた。 「行くぞ。」 「え、あの、」 「ちょ、美鳥君!」 男の静止は完全に無視して、立ちすくむ美鳥を引きずるようにその場から連れ出す。 手を伸ばし追いかけてこようとした男の前には晃が立ち塞がった。 「すみませーん。そもそも我が校は親族であろうと面会にはアポイントをとっていただかないといけない決まりなんで、まずは学校にお電話くださいね。でなきゃ……これ以上は生徒会長として対応させてもらいます。」 口元はにこりと弧を描いて、けれど目元は一切笑っていない。 「っ、」 晃の絶対零度の営業スマイルの意味は、男も流石に理解したらしい。 「また来るから!」 叫びにも近い声を背後に聴きながら、俺は振り返ることなく美鳥の手を引き、とりあえずあいつがこれ以上追ってこれないよう寮へと向かった。 「まったく、なにあれ!ちょっと爽やか系イケメンだからってあれは許されないね。これだから体育会系の脳筋は嫌いなんだよ。」 後部座席から聞こえてきた晃の声に俺は一切反論しなかった。隣では彗さんがミラー越しに怒り狂う晃に目をやり苦笑いを漏らしている。 あれから一旦寮に避難した俺達は、あいつが姿を消すのを待ってから、念の為裏口から校舎裏手の駐車場へと回り込んで、そこで彗さんと合流した。 色々あったせいでバスは見事に乗り損ねてしまったので、俺を乗せるついでに二人を畔倉アイスアリーナまで送ってほしいと頼んで現在に至る。 「悪いな、彗さん。」 「いえ、ついでですから。それより……」 ミラー越しに視線を送る彗さんにつられるように、俺も後部座席を振り返った。 顔色はだいぶ戻ったものの、それでも先程から美鳥はずっと口を閉ざしたままだ。 「美鳥君、あいつに何かされてたとかない?暴力ふるわれたとか。」 「まさか、大丈夫だよ。……コーチはいい人だよ。」 この状況でそんな事言われて誰が信じるって言うんだ。 また黙り込んでしまった美鳥に車内に重苦しい空気が流れた。 「ったく、なんなんだよあいつ。」 ここが車内でなければ目に付いたものを全力で蹴りつけてやっていたところだ。 苛立つ衝動をなんとか押さえつけてくそっと悪態をつけば、運転席からまた苦笑いが漏れた。 「立華圭介(たちばなけいすけ)。世界選手権や全日本選手権での主な戦績をあげればキリのない日本の元トップスケーターです。三年前のオリンピックで銅メダルを獲得したのを機に選手を引退され、その後は美鳥さんのコーチ兼振り付けを担当されてますね。一昨年の世界選手権のショートプログラムも立華さんの振り付けだったかと。」 意外な所から答えが返ってきて、俺は言葉に詰まった。 まるで仕事のスケジュールを説明するみたいによどみなく出てきた言葉に、一瞬これって一般常識なのかと錯覚しそうになったが、俺だけでなく晃も美鳥も同じように目を丸くしている。 「えっと、その通りです……」 「実際立華(たちばな)さんがコーチについてからは美鳥さんは常に出場大会で表彰台に登っていらっしゃいますし、指導者としても素晴らしい方なんだろうなと思っていたのですが。」 「そう、です。立華コーチに教わるようになってから、技術は向上したと思います。だからこそ……コーチは僕に期待して、オリンピックを目指そうって言ってくれていて、」 言い淀む美鳥に、俺はようやく少し理解した気がした。 コーチとして優秀。それは今の美鳥にとっては必ずしもいいことでは無い。 ――今まで育ててくれた人を裏切る行為だ。 以前美鳥がそう言っていたのをふと思い出した。 彩華(さいか)に来るにあたって美鳥は今まで所属していたクラブチームも、コーチも、全ての契約を解除してきている。 美鳥にしてみれば、これから先自分に関わってもそれは周りにとってなんの利益も産まず、負担にしかならないという自責の念からくる行為だったのだろうが、突然姿を消された側にとってそれはどう映ったのだろうか。 優秀な選手が離れていく。果たして皆それを素直に受け入れて、送り出してくれたのだろうか。 「あの人に選手やめたいって話してきたんでしょ?」 晃の言葉に美鳥は頷いた。 「したけど、今すぐ考え直してほしいって。せめてあと二年は選手を続けなきゃ駄目だって言われて。……平行線のままここに来ちゃったから。」 「あー、それで諦めず追ってきたわけね。」 立華の気持ちはわからなくもない。納得しろという方が無理な話だろう。 多分、俺達がやろうとしていることの方が周りから見れば悪なんだ。 「今回の全日本選手権は来年のオリンピックの代表選考も兼ねていましたよね?」 なるほど、それで後二年って事か。 指導者として、立華の言っていることは間違ってはいない。 アスリートとしてそこを目指すのは当然の事だ。でもだからこそ、表現者(アーティスト)である美鳥はここを区切りにしたいんだろう。 「このまま、プロとして活動したいがために成績欲しさに選手を続けるのは、真剣に選手として努力をしている人達に失礼だと思うから。」 美鳥の気持ちもわかる。 表現者としては、それが正しい決断なんだろう。 「でも……多分、僕を育ててくれた人達は誰一人として納得していない。だから、試合に出ようと思ったんだ。周りの望むように試合に出て、でも僕の表現を貫いて。演技を見てもらえば僕の意志を少しはわかってもらえるかもって思ったから。……でもまさか、その前に会うことになるとは思わなかった。」 なんとも不器用なやり方だ。でもそれは、とても美鳥らしいやり方だと思った。 やっぱり、俺はこいつの力になってやりたい。 「お前の意思が変わらないなら、俺達も今まで通り変わらないさ。あの野郎が次に来た時は全力で殴るだけだ。」 「ですよねー。まぁ『話し合い』を本気でしたいなら考えてやってもいいけどね。今日みたいな一方的な言葉の暴力でくるなら僕も全力でお返ししてやりますとも。」 「二人共……」 俯いていた顔が上げられ、その口元にふわりと小さな笑みが戻る。 「……僕も、次はちゃんと伝えられるようにもう一度コーチと向き合ってみようと思う。」 先程まで落とされていた暗い影はもうどこにもなくて。どうやら気持ちを持ち直せたらしい美鳥は、自らを鼓舞するように胸の前でぐっと両手を握りしめる。 俺達は三人で顔を見合わせて誰からともなく口角を上げていた。 「……で、だ。」 そうして、俺達はその視線をそのまま彗さんに向ける。 「え、え?な、なんですか?」 ちょうど目的地について車を駐車しようとバックを振り返った彗さんは、俺たちの視線に気づいてびくりと肩を揺らした。 「いやいやいや。なんですか、じゃないでしょ。突っ込みしかないんだけど。」 「そうだよ。数学準備室でもなんかおかしいなとは思ってたけど、なんでそんなに詳しいんだよ。」 「僕も、気になってました。」 一斉に詰め寄られて、彗さんはごくりと息を飲む。 「あの……普通にしていたつもりなんですけど、もしかして喋りすぎちゃいました?」 ほとんど三人同時に頷けば、なんとか車を停車させた彗さんはハンドルから離した両手で自らの顔を覆って俯いた。 「………………大好きなんです、フィギュアスケート。」 長い長い沈黙の後に漏れ聞こえた小さな声は、今にも泣きそうに震えていた。 「こういうの多分御本人はお嫌でしょうから黙ってましたけど、本当はもうずっと、ずっと我慢してまして。……もうバレちゃったなら言わせていただきます。」 指の隙間から覗いた彗さんの瞳は、眼鏡のレンズ越しにまっすぐ美鳥に向けられる。 「それこそ三年前の冬季五輪で立華さんの演技を見てから男子フィギュアにどハマりしまして。CSのスポーツチャンネルを契約して、フィギュアと名のつくものは全て拝見してます。当然一昨年の世界ジュニア選手権も。」 「あ、ありがとうございます。」 そう言えば、美鳥と彗さんが初めて顔を合わせた時も過剰なまでの反応だったなとは思ったが、まさかそんな事情だったとは。 「まるで氷上を舞っているかのような軽やかなステップ。身体の柔軟性を生かしたあのシットスピン。更にはジュニアでありながらシニア選手よりも着氷率が高いとされている安定のジャンプ!」 「あ、あの、」 いつの間にか顔を覆っていたはずの両手をぐっと握りしめ、ずいっと後部座席に詰め寄る彗さんは……うん、どこかで似たような光景を見たことあるな。 熱が入りすぎて若干の恐怖すら感じるが、狭い車内に逃げ場なんて当然なく、美鳥はぎゅっとシートベルトを握りしめ固まってしまっている。助けを求める視線を隣に送るが、晃は既に笑いをこらえるのに必死だ。 「つ、つきましてはですね、美鳥さん!」 「は、はいっ、」 彗さんはスーツの内ポケットに手をやると、そこから素早く革製の手帳を取り出し震える手で美鳥にそれを差し出した。 「あ、あああの、さ、さサインなど頂けないでしょうか?」 「ひ、」 緊張なのか感極まったのか、お願いしますと涙目で美鳥に頭を下げる彗さんの姿がダメ押しだった。 「ぷっ、」 狼狽える美鳥を尻目に俺と晃の腹筋は見事に崩壊し、車内に笑い声が響いた。

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